ninchisho-yui-logo
menu

メニュー

clear ninchisho-yui-logo

「認知症の教室(一般市民用)」で記事を検索しました。

ブログ投稿画像

2019.05.16

認知症の教室(一般市民用)
記 憶 槇原敬之の歌に「記憶」という歌があります。 歌自体は、母を想う気持ちで作られたようですが、 認知症の人へのやさしい心づかいの歌詞ともとれるのです。 大丈夫だよと 微笑んであげたいとき 思い出せる特別な場面がある   何かの拍子に思い出す 言葉を超えた思いの記憶 もしも思い出せないなら 僕がやさしく伝えよう 何かの拍子に思い出す 言葉を超えた想いの記憶 記憶の軌跡は消すことはできないと、思います。 以前の認知症の教室で、ジグゾーパズルのピースが一つひとつの記憶ならば、その記憶がばらばらになってしまうけど、断片的にその記憶が思い出される時があると書きました。 何かの拍子に思い出す記憶 記憶は決して消し去られたのではなく、裏返しになっても小さくなってもきっとどこかに存在するのでしょう。でもそれを、表現する能力自体が失われてしまっているのです。 言葉にはできなくなっているのです。 バラバラになってしまっても、きっとどこかにその記憶はある だからこそ、大丈夫だよと、微笑んでそばにいてあげること そして、手を握りやさしく伝えてあげること。 言葉にできなくても、ふと思い浮かぶ記憶に、 人生を生きてきた証を感じられる瞬間がある、と言えるかもしれません。
ブログ投稿画像

2019.04.22

認知症の教室(一般市民用)
「ひとりの人としてリスペクトすること」 Aさんは現在、デイサービスとショートステイを利用されています。 1年前までは、まだカラオケも唄えていたのですが、今は逆にその音が本人の混乱へと繋がるなど、生活全般において不安定な状態になられています。 詳細は個人情報なので割愛しますが、ここで私自身、改めて勉強させてもらったことがあります。 ある方のサービス担当者会議における、Aさんの妻、Bさんの、しっかりとした考え方でした。 最近は特に体調がすぐれず、ショートステイをお願いすることが多くなったBさんですが、Aさんのことを「認知症状が大変で困った人」という捉え方ではなく、「ひとりの価値ある人」として常に接することに心掛けているとのことでした。 もちろん腹が立つことも、泣きたいくらい辛いこともあったでしょう。 しかし出来ないことに目を奪われず、Aさんの好きなことや、これまでの人生の中で頑張ってこられたことなどに敬意を表すこと。(一人の人としてリスペクトすること) つまり「Aさんは認知症だけど、人としてのプライドと尊厳を守っていく接し方をすること」という事を、しっかりと意識して接しておられるということが伝わってきたのです。 私たちケア実践者がベースに置かなければならない考え方を、Bさんは確実に実践されていたのでした。 私たちも謙虚に介護家族から学ぶことは必要ですし、ケア専門職として、その専門性を活かして介護者を支えることも必要でしょう。
ブログ投稿画像

2019.03.16

認知症の教室(一般市民用)
「エビフライなんか食べに行くな!」 センター長の石川です。 あれれ?先日「エビフライを食べに行こう!」ってブログに書いていたのに、 今度は「エビフライなんか食べに行くな!」って、どういうこと? ですね。 例えばご夫婦の場合、夫の認知症が進行しているとします。 ケアをする妻はたまには息抜きをしたいと思います。 そのため、夫をショートステイで預け、心身の休養で美味しいエビフライを食べに、息抜き旅行に行きたいと思っていたのです。 ところが、これが認知症の本人の立場からすると、 頼るべき妻がどこかへ行き、自分がホームに泊まらなければならないことに納得がいかないのです。 わからない不安が一杯!誰かそばにいて!   生活上の多くのことが不確かになり、一杯の不安を抱える中で、妻だけが頼りなのに、その妻がどこかへ遊びに行くから老人ホームへ泊れと言われても、「エビフライなんか食べに行くな!俺のそばにいろ!」ということになってしまいます。 当然のことながら、認知症の人本人の思いにもしっかりと目を向けていかなければなりません。   でもこれでは、妻は心身の癒しの時間が得られないですよね。     そのためには、夫にはいきなり老人ホームではなく、デイサービスなどの活用で少しずつ行く場所の雰囲気に慣れ親しむ、職員となじみの関係づくりを行っていくなどの下地作りが必要となります。 日頃から場所やスタッフに慣れ親しんでおきましょう 認知症の人本人が安心できる体制づくりを行っておかないと、ショートステイを使ったために、かえって不安と混乱を増して、家族の負担が増えたなんてことになったら本末転倒になります。 つまり、ケアマネジャーやケアスタッフの実践力も、介護者が「エビフライを食べに行くため」の重要な要素になるのです。 さて、先日紹介した鳥羽市の丸栄さん お刺身とセットになったエビフライ定食や海鮮丼も人気のようですよ。 エビフライ+お刺身 エビフライは3匹になります。 海鮮丼 季節によって中身は変わるとか
ブログ投稿画像

2019.02.16

認知症の教室(一般市民用)
軽度認知障がい~MCI~について(一般の方・専門職初心者の方向け) 認知症の教室⑪ 軽度認知障がい・MCI(Mild Cognitive Impairment)という言葉を最近よく聞かれるのではないでしょうか。 認知障がいと言う言葉から、何らかの病気と思われる方も多いでしょう。 しかしMCI自体は病気ではありませんし、認知症でもありません。 ただ、認知症という病気の予備軍と言えるのです。 つまりMCIと判断されるということは、放置していると認知症になる確率が高くなるということなのです。 パズルでいうと、この程度ならすぐにはめ込めて完成させることができます。 年相応のもの忘れであり、生活に支障が出るわけでもありません。私たちにもよくあることです。 しかし、MCIだと、パズルがもう少し崩れている状況になります。 パズル全体が崩れているわけではないので、生活に支障はあまりでていませんが、放置しておくといつ崩れてもおかしくない状況とも言えます。 そうなると認知症と言う診断に進んでしまうでしょう。 そうならないためにも、MCIと判断された方には心身への様々なアプローチが各自治体で用意されているのです。 なお、MCI領域に入ってしまう要因としては、生活習慣病の影響が大きいとされています。 適切な食事、適度な運動などを日頃から心掛けることで、MCIから認知症への道を変更できる可能性が大きくなるのです。 MCIについては、長谷川洋先生が下記の図のように、わかりやすく説明されています。参考にしてください。 (中央法規出版「認知症のケアマネジメント」長谷川洋・石川進著 P23より)
ブログ投稿画像

2019.01.31

認知症の教室(一般市民用)
一般の方・専門職初心者向け「もの忘れについて」⑤ ~記憶の断片~ センター長の石川です。 最近、人の名前が出てこないとか、すぐに物の名前が思い浮かばないとか、もの忘れが気になることは多かれ少なかれあるという人がおられるのではないでしょうか。 もの忘れと言っても、単なる年相応のもの忘れと、認知症になるかもしれないもの忘れと、実際に「病気」としてのもの忘れとでは異なるのです。 それをわかりやすく、ジグソーパズルの写真で説明してみます。 例えば、下の写真のように一部だけが欠けていても、私たちは、全体的に何の絵なのか理解できますし、欠けた部分が新郎の顔のパーツであったり、猫のパーツであったりと言うことがわかります。 新郎の顔と青空をはめ込めばよいと言うことがわかります。~知育玩具・知育教材HPより~ 認知機能の低下がなければ、断片的に記憶を忘れても、全体像が分かっているので生活に支障はなく、欠けた部分も大体想像がつきます。~知育玩具・知育教材HPより~ 時たまこのように一部のパーツ(記憶の断片)が見当たらなくなる(思い出せなくなる)ことはあっても、いずれは思い出せますし、全体像が理解できないことはありません。全体像が把握できるということは、生活においては支障がないということです。 しかし、ひとたび認知機能の低下が始まると、全体的に霧がかかったようになり、例えば新郎の姿自体が明確ではなくなりますし、猫のパズルも全体がわからなくなり、少女の姿も、さらに欠けている部分もなんなのかがわからなくなってしまいます。 認知期のが低下すると、全体に霧がかかったような状況になり、人物像もあやふやとなり、欠けた部分がなんであるのかもわからなくなる。 認知機能が低下すると、全体像が分からなくなるし、目の前の空白が恐怖になります。 認知症でない人の場合、欠けたパーツがあっても、パズルの全体像がぼやけることはないのですが、認知症になると、欠損する記憶だけでなく、全体像も霧がかかったようになり、確かに見えていたものが不確かなものに見えてしまうのです。 次回もジグソーパズルを使って説明します。
ブログ投稿画像

2019.01.05

認知症の教室(一般市民用)
一般の方・専門職初心者向け「もの忘れについて」④ ~周辺環境~ 認知症の教室8 年末年始を挟み、少し時間が空いてしまいました。 少し前回を振り返ってみると、 自らを認知症であるとカミングアウトした長谷川和夫先生の言葉として、「確かなことがなくなっていくような感覚」と認知症の症状について述べられています。 もの忘れが、確かなことを失わせ、不安感に繋がっていること、そしてその不安感をありのままに恐怖感として受け止めていく人と、自分自身をその恐怖心から護るために、不安感そのものを否定する人とに分かれていくようなところがあるのではないでしょうかという所まで説明しました。 ここで押さえておかなければならないのは、上記どちらの人の場合も、周辺環境が多大に影響するということです。 つまりもの忘れから生じてくる不安は、周囲のあらゆる環境(人や生活環境など本人を取り巻く全て)に影響され、その後の行動へと繋がっていくということなのです。 (詳しくは、「認知症のケアマネジメント」P72「中核症状とBPSD」長谷川洋先生記述分を参照されたい) 当然一人ひとり周辺環境は違いますし、本人のパーソナリティも違うので、BPSDの出現の仕方やその度合いも違ってきます。 では、周囲のあらゆる環境に影響されるとはどういうことなのでしょうか? ムンク「星月夜」casaより 人間は自分の意思で行動しますが、その行動の元になっているのが環境なのです。 例えば、今は寒さ厳しい冬ですが、皆さんが今、寒風吹く物陰にいて、見えているところに日の当たるあたたかい場所があったとしたら、心身とも冷え込む今の場所よりも、暖かい場所に行こうと判断して行動に移すでしょう。このように私たちの行動には、環境が大いに影響していると言えるのです。 人の場合も、あまりなじみでない人の中にいるよりは、なじみのある人の中に行きたいと判断して行動するのも同じことです。 ところが、行動したくても行動できなくて、ずっと寒風吹く物陰にいるとしたら、或いは嫌な人がいる中にずっといるとしたら、皆さんはどう思うでしょうか? ムンク「太陽」公式HPより 日差しのある暖かいところにいると、心も体も安穏としますが、ぶるぶる震えるような寒い場所ならば、きっと心も体も激しくいら立つでしょう。 BPSD(ケア側からすると認知症の人の行動にケア側が困った現象を意味し、認知症の人からすれば困惑混とんとした状況)は、このようにその人を取り巻くあらゆる環境によって出現状況が左右されるのです。   センター長 石川進 (つづく)
ブログ投稿画像

2018.12.19

認知症の教室(一般市民用)
認知症の教室5「もの忘れについて」③ ~一般の方・専門職初心者用~ 認知症の教室5「もの忘れについて」③ センター長の石川です。 今回は、もの忘れを、本人の立場で考えてみたいと思います。 残念ながら現在の医学では、認知症にならないための薬も、確実な予防法もありません。 逆に言えば、誰にでも認知症になる可能性はあるということなのです。 その認知症の初期症状として現れるのが「もの忘れ」です。 特に初期の頃は、もの忘れのことが非常に気になります。 当然私たちにも年相応のもの忘れはありますので、 認知症という「病気としてのもの忘れ」なのか、そうでないもの忘れなのか見極める必要があります。 病気としてのもの忘れの場合、まずは「不安」から始まります。 認知症になった多くの人が、もの忘れを病識としてとらえられたと述べています。 それは、言いようのない、霧に包まれたような「不安」から始まったそうです。 つまり、私たちが普段感じているもの忘れの感覚、 「えっと、なんだっけ?う~ん思い出せないな~、最近もの忘れが多くなった」という感覚よりも、ぐっと深く重たい不安感と言えます。 自らを認知症であるとカミングアウトした長谷川和夫先生は、「確かなことがなくなっていくような感覚」と述べられています。 もの忘れが、確かなことを失わせていってると、言えるのではないでしょうか。 そしてその不安感をありのままに恐怖感として受け止めていく人と、自分自身をその恐怖心から護るために、不安感そのものを否定する人とに分かれていくようなところがあるのではないでしょうか。   (つづく)
ブログ投稿画像 槇原敬之の歌に「記憶」という歌があります。 歌自体は、母を想う気持ちで作られたようですが、 認知症の人へのやさしい心づかいの歌詞ともとれるのです。 大丈夫だよと 微笑んであげたいとき 思い出せる特別な場面がある   何かの拍子に思い出す 言葉を超えた思いの記憶 もしも思い出せないなら 僕がやさしく伝えよう 何かの拍子に思い出す 言葉を超えた想いの記憶 [caption id="attachment_721" align="aligncenter" width="650"] 記憶の軌跡は消すことはできないと、思います。[/caption] 以前の認知症の教室で、ジグゾーパズルのピースが一つひとつの記憶ならば、その記憶がばらばらになってしまうけど、断片的にその記憶が思い出される時があると書きました。 何かの拍子に思い出す記憶 記憶は決して消し去られたのではなく、裏返しになっても小さくなってもきっとどこかに存在するのでしょう。でもそれを、表現する能力自体が失われてしまっているのです。 言葉にはできなくなっているのです。 [caption id="attachment_720" align="aligncenter" width="650"] バラバラになってしまっても、きっとどこかにその記憶はある[/caption] だからこそ、大丈夫だよと、微笑んでそばにいてあげること そして、手を握りやさしく伝えてあげること。 言葉にできなくても、ふと思い浮かぶ記憶に、 人生を生きてきた証を感じられる瞬間がある、と言えるかもしれません。
ブログ投稿画像 Aさんは現在、デイサービスとショートステイを利用されています。 1年前までは、まだカラオケも唄えていたのですが、今は逆にその音が本人の混乱へと繋がるなど、生活全般において不安定な状態になられています。 詳細は個人情報なので割愛しますが、ここで私自身、改めて勉強させてもらったことがあります。 ある方のサービス担当者会議における、Aさんの妻、Bさんの、しっかりとした考え方でした。 最近は特に体調がすぐれず、ショートステイをお願いすることが多くなったBさんですが、Aさんのことを「認知症状が大変で困った人」という捉え方ではなく、「ひとりの価値ある人」として常に接することに心掛けているとのことでした。 もちろん腹が立つことも、泣きたいくらい辛いこともあったでしょう。 しかし出来ないことに目を奪われず、Aさんの好きなことや、これまでの人生の中で頑張ってこられたことなどに敬意を表すこと。(一人の人としてリスペクトすること) つまり「Aさんは認知症だけど、人としてのプライドと尊厳を守っていく接し方をすること」という事を、しっかりと意識して接しておられるということが伝わってきたのです。 私たちケア実践者がベースに置かなければならない考え方を、Bさんは確実に実践されていたのでした。 私たちも謙虚に介護家族から学ぶことは必要ですし、ケア専門職として、その専門性を活かして介護者を支えることも必要でしょう。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 あれれ?先日「エビフライを食べに行こう!」ってブログに書いていたのに、 今度は「エビフライなんか食べに行くな!」って、どういうこと? ですね。 例えばご夫婦の場合、夫の認知症が進行しているとします。 ケアをする妻はたまには息抜きをしたいと思います。 そのため、夫をショートステイで預け、心身の休養で美味しいエビフライを食べに、息抜き旅行に行きたいと思っていたのです。 ところが、これが認知症の本人の立場からすると、 頼るべき妻がどこかへ行き、自分がホームに泊まらなければならないことに納得がいかないのです。 [caption id="attachment_521" align="alignleft" width="464"] わからない不安が一杯!誰かそばにいて![/caption]   生活上の多くのことが不確かになり、一杯の不安を抱える中で、妻だけが頼りなのに、その妻がどこかへ遊びに行くから老人ホームへ泊れと言われても、「エビフライなんか食べに行くな!俺のそばにいろ!」ということになってしまいます。 当然のことながら、認知症の人本人の思いにもしっかりと目を向けていかなければなりません。   でもこれでは、妻は心身の癒しの時間が得られないですよね。     そのためには、夫にはいきなり老人ホームではなく、デイサービスなどの活用で少しずつ行く場所の雰囲気に慣れ親しむ、職員となじみの関係づくりを行っていくなどの下地作りが必要となります。 [caption id="attachment_524" align="aligncenter" width="650"] 日頃から場所やスタッフに慣れ親しんでおきましょう[/caption] 認知症の人本人が安心できる体制づくりを行っておかないと、ショートステイを使ったために、かえって不安と混乱を増して、家族の負担が増えたなんてことになったら本末転倒になります。 つまり、ケアマネジャーやケアスタッフの実践力も、介護者が「エビフライを食べに行くため」の重要な要素になるのです。 さて、先日紹介した鳥羽市の丸栄さん お刺身とセットになったエビフライ定食や海鮮丼も人気のようですよ。 [caption id="attachment_523" align="aligncenter" width="480"] エビフライ+お刺身 エビフライは3匹になります。[/caption] [caption id="attachment_522" align="aligncenter" width="480"] 海鮮丼 季節によって中身は変わるとか[/caption]
ブログ投稿画像 認知症の教室⑪ 軽度認知障がい・MCI(Mild Cognitive Impairment)という言葉を最近よく聞かれるのではないでしょうか。 認知障がいと言う言葉から、何らかの病気と思われる方も多いでしょう。 しかしMCI自体は病気ではありませんし、認知症でもありません。 ただ、認知症という病気の予備軍と言えるのです。 つまりMCIと判断されるということは、放置していると認知症になる確率が高くなるということなのです。 パズルでいうと、この程度ならすぐにはめ込めて完成させることができます。 年相応のもの忘れであり、生活に支障が出るわけでもありません。私たちにもよくあることです。 しかし、MCIだと、パズルがもう少し崩れている状況になります。 パズル全体が崩れているわけではないので、生活に支障はあまりでていませんが、放置しておくといつ崩れてもおかしくない状況とも言えます。 そうなると認知症と言う診断に進んでしまうでしょう。 そうならないためにも、MCIと判断された方には心身への様々なアプローチが各自治体で用意されているのです。 なお、MCI領域に入ってしまう要因としては、生活習慣病の影響が大きいとされています。 適切な食事、適度な運動などを日頃から心掛けることで、MCIから認知症への道を変更できる可能性が大きくなるのです。 MCIについては、長谷川洋先生が下記の図のように、わかりやすく説明されています。参考にしてください。 (中央法規出版「認知症のケアマネジメント」長谷川洋・石川進著 P23より)
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 最近、人の名前が出てこないとか、すぐに物の名前が思い浮かばないとか、もの忘れが気になることは多かれ少なかれあるという人がおられるのではないでしょうか。 もの忘れと言っても、単なる年相応のもの忘れと、認知症になるかもしれないもの忘れと、実際に「病気」としてのもの忘れとでは異なるのです。 それをわかりやすく、ジグソーパズルの写真で説明してみます。 例えば、下の写真のように一部だけが欠けていても、私たちは、全体的に何の絵なのか理解できますし、欠けた部分が新郎の顔のパーツであったり、猫のパーツであったりと言うことがわかります。 [caption id="attachment_380" align="aligncenter" width="602"] 新郎の顔と青空をはめ込めばよいと言うことがわかります。~知育玩具・知育教材HPより~[/caption] [caption id="attachment_382" align="aligncenter" width="425"] 認知機能の低下がなければ、断片的に記憶を忘れても、全体像が分かっているので生活に支障はなく、欠けた部分も大体想像がつきます。~知育玩具・知育教材HPより~[/caption] 時たまこのように一部のパーツ(記憶の断片)が見当たらなくなる(思い出せなくなる)ことはあっても、いずれは思い出せますし、全体像が理解できないことはありません。全体像が把握できるということは、生活においては支障がないということです。 しかし、ひとたび認知機能の低下が始まると、全体的に霧がかかったようになり、例えば新郎の姿自体が明確ではなくなりますし、猫のパズルも全体がわからなくなり、少女の姿も、さらに欠けている部分もなんなのかがわからなくなってしまいます。 [caption id="attachment_381" align="aligncenter" width="602"] 認知期のが低下すると、全体に霧がかかったような状況になり、人物像もあやふやとなり、欠けた部分がなんであるのかもわからなくなる。[/caption] [caption id="attachment_383" align="aligncenter" width="249"] 認知機能が低下すると、全体像が分からなくなるし、目の前の空白が恐怖になります。[/caption] 認知症でない人の場合、欠けたパーツがあっても、パズルの全体像がぼやけることはないのですが、認知症になると、欠損する記憶だけでなく、全体像も霧がかかったようになり、確かに見えていたものが不確かなものに見えてしまうのです。 次回もジグソーパズルを使って説明します。
ブログ投稿画像 認知症の教室8 年末年始を挟み、少し時間が空いてしまいました。 少し前回を振り返ってみると、 自らを認知症であるとカミングアウトした長谷川和夫先生の言葉として、「確かなことがなくなっていくような感覚」と認知症の症状について述べられています。 もの忘れが、確かなことを失わせ、不安感に繋がっていること、そしてその不安感をありのままに恐怖感として受け止めていく人と、自分自身をその恐怖心から護るために、不安感そのものを否定する人とに分かれていくようなところがあるのではないでしょうかという所まで説明しました。 ここで押さえておかなければならないのは、上記どちらの人の場合も、周辺環境が多大に影響するということです。 つまりもの忘れから生じてくる不安は、周囲のあらゆる環境(人や生活環境など本人を取り巻く全て)に影響され、その後の行動へと繋がっていくということなのです。 (詳しくは、「認知症のケアマネジメント」P72「中核症状とBPSD」長谷川洋先生記述分を参照されたい) 当然一人ひとり周辺環境は違いますし、本人のパーソナリティも違うので、BPSDの出現の仕方やその度合いも違ってきます。 では、周囲のあらゆる環境に影響されるとはどういうことなのでしょうか? [caption id="attachment_285" align="alignleft" width="206"] ムンク「星月夜」casaより[/caption] 人間は自分の意思で行動しますが、その行動の元になっているのが環境なのです。 例えば、今は寒さ厳しい冬ですが、皆さんが今、寒風吹く物陰にいて、見えているところに日の当たるあたたかい場所があったとしたら、心身とも冷え込む今の場所よりも、暖かい場所に行こうと判断して行動に移すでしょう。このように私たちの行動には、環境が大いに影響していると言えるのです。 人の場合も、あまりなじみでない人の中にいるよりは、なじみのある人の中に行きたいと判断して行動するのも同じことです。 ところが、行動したくても行動できなくて、ずっと寒風吹く物陰にいるとしたら、或いは嫌な人がいる中にずっといるとしたら、皆さんはどう思うでしょうか? [caption id="attachment_154" align="aligncenter" width="387"] ムンク「太陽」公式HPより[/caption] 日差しのある暖かいところにいると、心も体も安穏としますが、ぶるぶる震えるような寒い場所ならば、きっと心も体も激しくいら立つでしょう。 BPSD(ケア側からすると認知症の人の行動にケア側が困った現象を意味し、認知症の人からすれば困惑混とんとした状況)は、このようにその人を取り巻くあらゆる環境によって出現状況が左右されるのです。   センター長 石川進 (つづく)
ブログ投稿画像 認知症の教室5「もの忘れについて」③ センター長の石川です。 今回は、もの忘れを、本人の立場で考えてみたいと思います。 残念ながら現在の医学では、認知症にならないための薬も、確実な予防法もありません。 逆に言えば、誰にでも認知症になる可能性はあるということなのです。 その認知症の初期症状として現れるのが「もの忘れ」です。 特に初期の頃は、もの忘れのことが非常に気になります。 当然私たちにも年相応のもの忘れはありますので、 認知症という「病気としてのもの忘れ」なのか、そうでないもの忘れなのか見極める必要があります。 病気としてのもの忘れの場合、まずは「不安」から始まります。 認知症になった多くの人が、もの忘れを病識としてとらえられたと述べています。 それは、言いようのない、霧に包まれたような「不安」から始まったそうです。 つまり、私たちが普段感じているもの忘れの感覚、 「えっと、なんだっけ?う~ん思い出せないな~、最近もの忘れが多くなった」という感覚よりも、ぐっと深く重たい不安感と言えます。 自らを認知症であるとカミングアウトした長谷川和夫先生は、「確かなことがなくなっていくような感覚」と述べられています。 もの忘れが、確かなことを失わせていってると、言えるのではないでしょうか。 そしてその不安感をありのままに恐怖感として受け止めていく人と、自分自身をその恐怖心から護るために、不安感そのものを否定する人とに分かれていくようなところがあるのではないでしょうか。   (つづく)