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「認知症の教室(一般市民用)」で記事を検索しました。

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2024.05.11

認知症の教室(一般市民用)
16年後には認知症の人584万人? 厚労省の推計が出ましたね。 2040年には認知症の人が584万人になるとのこと。 軽度認知障がい(MCI)の方を含めると、 2060年には65歳以上の3人に1人が、 認知症若しくはその可能性のある方ということになります。 要するに、「決して他人事ではないですよ」 「認知症予防に心掛けましょう」ということを言いたいのだと思います。 自分が認知症になる可能性があることもさることながら、 その認知症の人を介護する家族などの立場の人も 増加するということにもなります。 認知症の人の数だけでなく、認知症の人が増えれば、 介護する人も増えるということ、そして個人の問題だけでは済まず、 地域の問題にもなっていくと言えるでしょう。 認知症のご本人をどのようにサポートするか、 介護者を同じくどのようにサポートするのか、 そして地域としてどのようにサポートするのか、 課題は山積の状態のまま、「まだ他人事」と思っている現状から、 気が付けば「自分事」になっているのです。 ただ、認知症になっても、或いは介護者になっても 「恐れることなく」受け入れられる体制作り。 それが急がれる状況なのです。      
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2024.05.08

認知症の教室(一般市民用)
音楽は人と人を繋げられるか 昨夜家に遅めに帰り、つけたテレビの番組。 何故人類は音楽を生み出したのか、途中から見たので、そんな題名だったと思います。 その番組で、認知症の人と音楽についても、脳科学的にその効果について説明されていました。 詳細は映像を見直してからでないと書けませんが、 イギリスの認知症病棟の人々が、ビートルズの歌をみんなで合唱するシーンは圧巻でした。 特に脳の機能がフルパワーになる、 思春期に聞いた音楽は、強力に脳に残るようです。 認知症の人への音楽の効用は、これまで多くの研究で言われていることなので、 今更言うまでもないことなのですが、療法と構えるだけでなく、 日頃から気軽にそして身近に使えるものとして、音楽があるということでしょう。 注意する点は音楽をかける側にあります。 果たしてその音楽が、その方にあっているのかどうか、 そして聞かせてほったらかしにしていないかどうか、 認知症の人ではなく、ケア側の問題が大きいのかなと思います。 音楽が何故人類に生まれたか?  化石として残っているものではないので、その研究はまだ途上だそうですが、 恐らくは、「音楽は人と人を繋げる」ために生まれたのではないかということです。 ですから、認知症の人と音楽を聴く場合、 ともに楽しむということを忘れてはならないでしょう。   もしかしたら、音楽は、世界の人々を結び付けられる力を持ったものだと思うのですが、 残念ながら、銃声や破壊音、そして人が殺されていく悲惨な戦争の前に、 音楽はかき消され、失われてしまっているのかもしれません。
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2024.05.02

認知症の教室(一般市民用)
底なし沼と地域包括支援センター(2) 地域包括支援センター職員のプライド、 それは、行政や誰にも見放されるようなケースも「なんとかする」、 最後の砦としての頑張りにあります。 本当に大変なケースに関わり、親身になって当該ケースだけでなく、 その地域に貢献していく姿は、もっと称賛され評価されてもいいのです。 しかし、同時にそれは包括支援センター職員が底なし沼にはまり込む危険性もはらんでいます。 以前私が包括支援センターにいたときも、 「私たちがやらなければ誰がやる?」という、最後の砦の者として、 「え?包括はそこまでやらなければならないの?」と言われながらも、 「私たちがやらねば誰がやる?」という意識の元でやっていました。 いわゆる「熱き包括魂」ともいえるかもしれません。 ある意味、「昭和的」な心意気ですね。 そして今でもケースのために一生懸命頑張るうえでの、 超過勤務の連続というところもあるかもしれません。 でもそれは、底なし沼に足を突っ込むことにもなります。 知らずのうちに心身の疲労困憊に繋がり、 それは自らのパフォーマンス(心身の行動力)を落とすことにもなりかねません。 「そのケースのためなら、私の命を縮めても構わない」という覚悟があるのなら別ですが、 そのケースだけでなく、多くの支援を必要としている人が待っているのですから、 自分のパフォーマンスを落とさないようにすることも仕事のうちです。 「昭和的な心意気」は、もう時代には合わないのでしょう。 「包括魂」は持ちつつも、「私たちがやらなければ誰がやる」の時代から、 「私たちもやるけど、みんなでやっていこう」というスタイルにシフトすること。 抱え込むと、困っている人のために、自らの骨身を削り、遅くまで残る。 結果、パフォーマンスを落とすという沼にはまってしまいます。 それは地域にも組織にも良い影響を与えないということでしょう。 自分のパフォーマンスを落とさない働き方をするのもプロの仕事のうちです。 話が少しそれましたが、地域包括支援センターの仕事は、 心身の疲労という底なし沼に陥る危険性をはらんだ職種であることです。 私たちはこれだけ頑張っているという自負心は受け止めつつ、 包括が頑張りすぎると、他者はなおさら包括に任そうとします。 行政も関係者も一緒に進んでいく道を探ること。 逃げようとする行政職がいるなら、首根っこ捕まえてひっつかまえるのではなく、 「あなたがいるととても助かる、ありがたい!」と言って仲間に引き入れること。 或いは「助けて!」って言っても構わないのです。 包括だけが背負うことはないのです。 時に割り切ることも必要です。 ストレスが溜まったら、誰でもいいので話を聞いてもらうこと。 とにかく包括職員だけで抱え込まないことです。 でないと、最後の砦としての「包括魂」が発揮できないことになります。 また地域包括支援センター職員へのフォロー体制を、公的に整えてあげないと、 「なんでも包括」の時代、もう少しねぎらう体制があってもいいのかなとも思うのです。
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2024.05.02

認知症の教室(一般市民用)
底なし沼と地域包括支援センター(1) 先日の新聞に、独居の女性に入院を強く進めていたが、 猫の世話をしなければならないから絶対入院はしないと言われて、 困ってしまった地域包括支援センターの管理者の話が載っていました。 愛護センターに当たるもなかなか保護してくれる場所は見つからず、 仕方なくその管理者自身が猫の面倒を見ることにしたとのこと。 包括支援センターはそこまでやらなければならないのか? という感じですね。 しかし、このような話は地域包括支援センターがよく直面する話でもあるのです。 地域包括支援センターは、行政から委託され、また査定もされる立場にあります。 また行政にとってはこれまで自ら受けていた「煩わしいケース」を、 包括支援センターに回すことができます。(辛辣な言葉の使用はやめておきます)  包括には何と言っても、専門職が配置されているからです。 しかし、その行政も含めて、高齢者の相談は、「なんでも包括へ」というケースが増えてきています。 地域の方も包括支援センターの存在がわかり始めると、 介護以外のことでも包括センターに言って来る人が増えてきています。 例えば、ご近所トラブル。介護保険に関係のない苦情や相談も寄せられます。 高齢者に関わることなら、どんなことでも包括へという感じです。 ところが包括は、虐待をはじめとして、困難度の高いケースとの関りをはじめとして、 地域との関係づくりも行わないといけません。 さらに誰も行きたがらないようなゴミで溢れた家や、 ゴキブリ等の害虫が走り回る家にも時には突入しなければなりません。 特殊詐欺の予防にも動きます。 また自治体によっても違いますが、支援ケースを多く受けなければ採算が取れない包括もあります。 またご近所トラブルの背景には、支援が必要なケースが隠れているかもしれないので、 むげに断ることもできません。 そして「万能な高齢者相談所」として捉えられた包括支援センターが、 知らないことがあったり、そこまではやれないと断ったりしたりすると、 「あそこの包括はあかん」と、レッテルが貼られます。 確かにそう言われても仕方のない包括もあるかもしれませんが。 しかしながら「包括支援センター」は、困った状況の人を受け入れ、 何とかする最後の砦とも言えます。 行政も動けない(動こうとしないとも言える)ような状況の人でも、 「なんとかする」というプライドが包括にはあります。 ところがそのプライドが自らの負担を大きくしてしまうこともあるのです。 底なし沼に足を突っ込むことになりかねないのです。 泥沼にはまる包括職員になりかねない危険性をはらんでいるとも言えます。 (つづく)
ブログ投稿画像 久しぶりのブログです。 なんだかんだとバタバタすると、ついついブログをさぼってしまいます。 さて、16年後には3人に1人が認知症若しくは予備軍の人になるというニュースを元に 地域でのサポーター講座を実施しました。 「16年後は生きてないわ」という参加者の皆さんの大爆笑の中、サポーター講座が始まりました。 16年後には3人に1人? その意味するところは、 「決して他人ごとではない」ということ、「認知症予防に心掛けること」 そして、「助けあう地域づくりが急務」ということです。 今回のサポーター講座は、その3つのテーマを元に行いました。 もちろん、主体は「助けあう地域づくり」のための、認知症の人の理解と声の掛け方です。 この地域の皆さん、とても明るく真剣でした。 そして、ちょっとしたおせっかいな見守りをお願いしました。 同時に認知症予防への関心も高く、地域は見守りだけでなく、活き活きした繋がりにも 大切なのだと痛感した次第です。 [caption id="attachment_5649" align="alignnone" width="1024"] 地域の代表の方も、健康寿命を延ばすための働きかけをしています。[/caption] [caption id="attachment_5650" align="alignnone" width="1024"] 町会長の協力あってこそですね。[/caption]      
ブログ投稿画像 厚労省の推計が出ましたね。 2040年には認知症の人が584万人になるとのこと。 軽度認知障がい(MCI)の方を含めると、 2060年には65歳以上の3人に1人が、 認知症若しくはその可能性のある方ということになります。 要するに、「決して他人事ではないですよ」 「認知症予防に心掛けましょう」ということを言いたいのだと思います。 自分が認知症になる可能性があることもさることながら、 その認知症の人を介護する家族などの立場の人も 増加するということにもなります。 認知症の人の数だけでなく、認知症の人が増えれば、 介護する人も増えるということ、そして個人の問題だけでは済まず、 地域の問題にもなっていくと言えるでしょう。 認知症のご本人をどのようにサポートするか、 介護者を同じくどのようにサポートするのか、 そして地域としてどのようにサポートするのか、 課題は山積の状態のまま、「まだ他人事」と思っている現状から、 気が付けば「自分事」になっているのです。 ただ、認知症になっても、或いは介護者になっても 「恐れることなく」受け入れられる体制作り。 それが急がれる状況なのです。      
ブログ投稿画像 昨夜家に遅めに帰り、つけたテレビの番組。 何故人類は音楽を生み出したのか、途中から見たので、そんな題名だったと思います。 その番組で、認知症の人と音楽についても、脳科学的にその効果について説明されていました。 詳細は映像を見直してからでないと書けませんが、 イギリスの認知症病棟の人々が、ビートルズの歌をみんなで合唱するシーンは圧巻でした。 特に脳の機能がフルパワーになる、 思春期に聞いた音楽は、強力に脳に残るようです。 認知症の人への音楽の効用は、これまで多くの研究で言われていることなので、 今更言うまでもないことなのですが、療法と構えるだけでなく、 日頃から気軽にそして身近に使えるものとして、音楽があるということでしょう。 注意する点は音楽をかける側にあります。 果たしてその音楽が、その方にあっているのかどうか、 そして聞かせてほったらかしにしていないかどうか、 認知症の人ではなく、ケア側の問題が大きいのかなと思います。 音楽が何故人類に生まれたか?  化石として残っているものではないので、その研究はまだ途上だそうですが、 恐らくは、「音楽は人と人を繋げる」ために生まれたのではないかということです。 ですから、認知症の人と音楽を聴く場合、 ともに楽しむということを忘れてはならないでしょう。   もしかしたら、音楽は、世界の人々を結び付けられる力を持ったものだと思うのですが、 残念ながら、銃声や破壊音、そして人が殺されていく悲惨な戦争の前に、 音楽はかき消され、失われてしまっているのかもしれません。
ブログ投稿画像 地域包括支援センター職員のプライド、 それは、行政や誰にも見放されるようなケースも「なんとかする」、 最後の砦としての頑張りにあります。 本当に大変なケースに関わり、親身になって当該ケースだけでなく、 その地域に貢献していく姿は、もっと称賛され評価されてもいいのです。 しかし、同時にそれは包括支援センター職員が底なし沼にはまり込む危険性もはらんでいます。 以前私が包括支援センターにいたときも、 「私たちがやらなければ誰がやる?」という、最後の砦の者として、 「え?包括はそこまでやらなければならないの?」と言われながらも、 「私たちがやらねば誰がやる?」という意識の元でやっていました。 いわゆる「熱き包括魂」ともいえるかもしれません。 ある意味、「昭和的」な心意気ですね。 そして今でもケースのために一生懸命頑張るうえでの、 超過勤務の連続というところもあるかもしれません。 でもそれは、底なし沼に足を突っ込むことにもなります。 知らずのうちに心身の疲労困憊に繋がり、 それは自らのパフォーマンス(心身の行動力)を落とすことにもなりかねません。 「そのケースのためなら、私の命を縮めても構わない」という覚悟があるのなら別ですが、 そのケースだけでなく、多くの支援を必要としている人が待っているのですから、 自分のパフォーマンスを落とさないようにすることも仕事のうちです。 「昭和的な心意気」は、もう時代には合わないのでしょう。 「包括魂」は持ちつつも、「私たちがやらなければ誰がやる」の時代から、 「私たちもやるけど、みんなでやっていこう」というスタイルにシフトすること。 抱え込むと、困っている人のために、自らの骨身を削り、遅くまで残る。 結果、パフォーマンスを落とすという沼にはまってしまいます。 それは地域にも組織にも良い影響を与えないということでしょう。 自分のパフォーマンスを落とさない働き方をするのもプロの仕事のうちです。 話が少しそれましたが、地域包括支援センターの仕事は、 心身の疲労という底なし沼に陥る危険性をはらんだ職種であることです。 私たちはこれだけ頑張っているという自負心は受け止めつつ、 包括が頑張りすぎると、他者はなおさら包括に任そうとします。 行政も関係者も一緒に進んでいく道を探ること。 逃げようとする行政職がいるなら、首根っこ捕まえてひっつかまえるのではなく、 「あなたがいるととても助かる、ありがたい!」と言って仲間に引き入れること。 或いは「助けて!」って言っても構わないのです。 包括だけが背負うことはないのです。 時に割り切ることも必要です。 ストレスが溜まったら、誰でもいいので話を聞いてもらうこと。 とにかく包括職員だけで抱え込まないことです。 でないと、最後の砦としての「包括魂」が発揮できないことになります。 また地域包括支援センター職員へのフォロー体制を、公的に整えてあげないと、 「なんでも包括」の時代、もう少しねぎらう体制があってもいいのかなとも思うのです。
ブログ投稿画像 先日の新聞に、独居の女性に入院を強く進めていたが、 猫の世話をしなければならないから絶対入院はしないと言われて、 困ってしまった地域包括支援センターの管理者の話が載っていました。 愛護センターに当たるもなかなか保護してくれる場所は見つからず、 仕方なくその管理者自身が猫の面倒を見ることにしたとのこと。 包括支援センターはそこまでやらなければならないのか? という感じですね。 しかし、このような話は地域包括支援センターがよく直面する話でもあるのです。 地域包括支援センターは、行政から委託され、また査定もされる立場にあります。 また行政にとってはこれまで自ら受けていた「煩わしいケース」を、 包括支援センターに回すことができます。(辛辣な言葉の使用はやめておきます)  包括には何と言っても、専門職が配置されているからです。 しかし、その行政も含めて、高齢者の相談は、「なんでも包括へ」というケースが増えてきています。 地域の方も包括支援センターの存在がわかり始めると、 介護以外のことでも包括センターに言って来る人が増えてきています。 例えば、ご近所トラブル。介護保険に関係のない苦情や相談も寄せられます。 高齢者に関わることなら、どんなことでも包括へという感じです。 ところが包括は、虐待をはじめとして、困難度の高いケースとの関りをはじめとして、 地域との関係づくりも行わないといけません。 さらに誰も行きたがらないようなゴミで溢れた家や、 ゴキブリ等の害虫が走り回る家にも時には突入しなければなりません。 特殊詐欺の予防にも動きます。 また自治体によっても違いますが、支援ケースを多く受けなければ採算が取れない包括もあります。 またご近所トラブルの背景には、支援が必要なケースが隠れているかもしれないので、 むげに断ることもできません。 そして「万能な高齢者相談所」として捉えられた包括支援センターが、 知らないことがあったり、そこまではやれないと断ったりしたりすると、 「あそこの包括はあかん」と、レッテルが貼られます。 確かにそう言われても仕方のない包括もあるかもしれませんが。 しかしながら「包括支援センター」は、困った状況の人を受け入れ、 何とかする最後の砦とも言えます。 行政も動けない(動こうとしないとも言える)ような状況の人でも、 「なんとかする」というプライドが包括にはあります。 ところがそのプライドが自らの負担を大きくしてしまうこともあるのです。 底なし沼に足を突っ込むことになりかねないのです。 泥沼にはまる包括職員になりかねない危険性をはらんでいるとも言えます。 (つづく)