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「認知症の教室(一般市民用)」で記事を検索しました。

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2021.02.15

認知症の教室(一般市民用)
認知症と多様性について センター長の石川です。 東京オリンピック・パラリンピックでは森元会長の発言から大騒動になりました。 ただこれはオリンピック精神に反すると言うより、社会的人間としてどうなのかと言うことになります。 2019年のラグビーワールドカップでは、「多様な人々が一つになる」と言うことが実現できた時でした。 日本代表が確たる証拠です。 私も何度か足を運んだスタンドにおいても、敵味方国籍人種を越えたノーサイドの精神で溢れていました。 2019年はいい年だったな~ 元々地域社会は多様な人たちで成り立っています。 当然認知症の人も、その多様性のひとつ、多様な人たちの一人なのです。 今回の話題の中で、差別なく様々な人たちに敬意を示すことの大切さの中に、 認知症の人のことも忘れないで欲しいと思うのです。 (ただSNSでは認知症の人を軽蔑するような書き込みが数多くありました) 認知症の人は、1+1=2のような数値化できない世界(そんな世界はないと否定する人もおられますが)を表し、 学ばせてくれる素晴らしき人たちなのですから。 この部分だけでも、いくらでも語れますよ。 今日の元気が出るビデオ 時には挫折し、この先がどうなっていくか不安な今、若き日に燃やした情熱を思い出し、 Reスタートしてほしい、そんなビデオです。 前回の田中将大に続いて野球ネタです。 「遠くの空 指さすんだ」 https://www.youtube.com/watch?v=DtJIUfbb3cY   さて次回は、私たちの生活にとってなくてはならない「穴」の話です。
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2021.02.11

認知症の教室(一般市民用)
若年性認知症の方との関り(14)【痛い記憶】 若年性認知症になられたB女医さんの最終回です。 Bさんのことでは、私はとんでもない失態と言うか、痛い記憶があります。 当時は日本でもまだ数少ない認知症の人の専用フロアがあった私が勤めていた施設は、見学者も数多く来られました。 毎日のように見学者の対応に追われるような状況でもあったのです。 私がその見学者を誘導し、フロアで説明する役割を担っていました。 その見学者たちが皆さん一様に驚く話がありました。 「若くして認知症になられたお医者さんも入所者におられます。」と。 すると、見学者は皆、へぇーと声を上げるのです。 当時はまだ若年性認知症のことはほとんど知られていない頃だったので、 私の話はセンセーショナルな話だったのです。 この頃の私は、認知症の人への敬意も尊厳の保持も、そのかけらすらない説明を、見学者に行っていたのです。 話だけではなく、認知症の人をパーソンではなく、「困った対象者」のような感じで見ていたのかもしれません。 そしてあの日も見学者を案内し、そのセンセーショナルな話をフロアで話をしていた時です。 詰所からガチャっという音が聞こえました。 当時は詰所でタバコが吸える時代でした。(職員は禁止されてましたが) 面会者や見学者は詰所でタバコが吸えたのです。 そのガチャという音は、今でこそあまり見かけなくなりましたが、 灰皿の真ん中の突起を押すと、吸い殻が中に落ちる回転式灰皿の突起を押したときの音だったのです。 その音に振り返って私が詰所を見ると、そこにBさんの夫がいたのです。 日に日に変わっていき、混乱していく妻を支えてきた人でした。 間違いなく、私の見学者への説明を夫は聞いていたでしょう。 その灰皿の音は「私の妻をさらし者にするな!」という無言の抗議だったと、私はその時気づかされました。 今でもその時のガチャ!という灰皿の音は、私にとって痛い記憶として残っています。 まさしく思い上がっていた私への戒めの音だったのです。 真ん中の突起を押すと、ガチャっという音とともにお皿が回転し、吸い殻が中に収納されます。 常にふらつきながらもなんとか歩こうとして、その都度転倒を繰り返すBさんのその姿、 そして涙を浮かべながら、大声を上げ悲壮感を訴えるその表情も、 それこそ「死に物狂いの認知症と言う病魔へ抵抗しようとする姿」であったのではないでしょうか。 同時に私たちに救いを求める姿であったのかもしれません。 私たちから見て困ってしまう行動も、 本人にとっては「必死になって生きていこうとする自分自身への生命の証」なのかもしれません。 B女医さんの話はこれで終わります。 次回からは猛烈に暴れる女性の話になります。 センター長の石川でした。
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2021.02.05

認知症の教室(一般市民用)
問題発言高齢者を認知症だと言わないで センター長の石川です 世の中一部の権力を持つ高齢者の発言、行動で、若い世代から「老害」と言う言葉を盛んに聞きます。 確かに先日のフォレスト氏の発言や一階の上の人の行動や発言を聞いていると 全くもって酷いもので、多くの普通の高齢者まで迷惑してしまいます。 つまり、老人になると、「老害」しかないと思われ、 それが認知症と繋がってしまうのです。 SNSでのコメントでは、フォレスト氏は「痴呆だ」(認知症とも言わず) 「痴呆老人はさっさと、引退しろ!」みたいな言葉が次々と出てきます。 やはり、認知症の人を蔑視、軽蔑する風潮は世間に染みこんでいるのでしょうか。 特に若い世代に、このままでは老人イコール自分たちを害する人たちと思われてしまうでしょう。 つまり、しょうもないことでの世間の大騒ぎですが、 高齢者理解、認知症の人への理解と言う意味では、捨てておけないことなのです。 多くの高齢者は若い人達に知識をつたえる知恵者であり、学びの師なのです。 例えば入居者一人一人は若い世代にとって学びの師なのです。 認知症があったとしてもその人から学ぶことがものすごくあるのです。 ところが一部の権威的立場にある高齢者の行動や発言は、それらの思いを吹き飛ばしてしまいます。 そして、「老害」は「認知症」と結びつき、軽蔑だけが助長されてしまいます。 若い世代は高齢者を「ヨーダ」と思い、学ぶ姿勢を。 年取った世代は自分を「ヨーダ」と思い、出しゃばらず若い世代を見守り導くことを。 でも老いも若きもそんなことはどうでもいいよーだ…
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2021.02.04

認知症の教室(一般市民用)
若年性認知症の方との関り(13)【なぜ若年性認知症になってしまったのか】 Bさんは40代後半で認知症を発症しました。 何故この若さで認知症を発症することになったのか。 その原因理由についてはかなり解明されてきました。(これについては長くなるのでまた別項で) しかし、若年性認知症発症の理由は、残念ながらまだまだ不明な点が多いのです。 B女医さんが発病された当時、今からもう30年近く前のことですが、 認知症になる原因理由は当然まだ不明なことが殆どでした。 当時、認知症の方を診断していた専門医(この先生には大変お世話になりました。いろいろ勉強もさせてもらいました)は、 Bさんの診察に際し、家族にBさんが認知症の人を診察していた経緯がないか、ということを聞かれていました。 先生は診察が終わると、必ず丁寧に手洗いを行い、イソジンでうがいをされていました。 今なら当たり前の光景かもしれませんが、当時は随分神経質だなと私は思っていました。 Bさんが何故認知症を発症したのか? もしかしたらウイルスによるものかもしれない。 そんな可能性もぬぐい切れない当時の状況だったからです。 認知症ウイルス説は今となっては問題外のことですが、 医者が若年性認知症になってしまったということは、ウイルス説を含めた脅威だったわけです。 残念ながら、これだけ科学が進んでも、若年性認知症の人が減ることはありません。 確実的に発症している病気でもあるのです。 他人事ではないのです。 センター長の石川でした。 (つづく) 最近話題にのぼる「ウレタンマスク」。 ウレタンマスクをしている人を攻撃する人も現れて「なんとか警察」の再登場です。 本当に困ったものです。 ただ、ウレタンマスクへの正しい理解は必要だと思うので、下記リンク先の記事を読んでもらえればと思います。 要は、マスクをしっかりと付け、密集を防ぎ、換気をガンガン行う。これに尽きるのかなと。 ただ、介護施設で働く者は、公私の時間ともに、ウレタンマスクの使用は避けた方がよいでしょう。 https://toyokeizai.net/articles/-/409607
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2021.01.26

認知症の教室(一般市民用)
若年性認知症の方との関り(12)【私が崩壊していくということ】 Bさんの行動は激しいものでした。 常に動き回り、それでいて足元が不安定のため、 何度か転倒もありました。 そのため、頭にはラグビー選手のようなヘッドギアを付け、 腰にはパットの入ったズボンをはいてもらいました。 それでも常に目が離せない存在だったのです。 Bさんのその目はいつも潤み、いつも何かを訴えるかのように私たちを見ます。 そして大声。 恐らくは何かを訴えたい、何かを話したい、だけどその言葉が出てこない。 本当なら医者として、まだまだバリバリと働きたいはずなのに どうしようもなく自分が崩壊していく姿への悲愴な叫びだったのかもしれません。 職員の中にBさんの診療所で働いていた看護師がいて、 「先生、先生!」 と、声を掛けます。 一瞬、何かを感じたのか、穏やかな表情になります。 医者が医者たる姿を見せた一瞬だったのかもしれません。 認知症になってもその姿は人それぞれです。 穏やかな人もいれば、そうでない人もいます。 いずれにしても、自分で望んだ道ではなかったでしょう。 Bさんからは、「こんなはずじゃない!どうして!?」という思いが強く伝わってきたのでした。 その認知症と言う病魔に襲われて、悲壮な状況に追いやられてしまった人のことを 私たちはあまりにも冷酷な目で「認知症の大変な人」という思いで見ているのかもしれません。 (つづく) センター長の石川でした。
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2021.01.22

認知症の教室(一般市民用)
若年性認知症の方との関り(11)【女医さんの心の叫び】 Bさんが、私が生活相談員をしている認知症専門フロアに来られた時、既に認知症状が進行していました。 小さな身体の方でした。50歳代でしたが可愛らしい表情の方で、 人気の女医さんだったということがよくわかります。 開業医として、評判の良い女医さんだったのです。 ところが、もの忘れが目立つようになり、時に精神的に不安定になり、 医療器具をひっくり返して暴れることもあったそうです。 人の命を守る仕事ゆえ、家族は早々に医師の仕事を辞めさせました。 しかし、使命として医師の仕事に誇りを持っていたBさんが、 その仕事が出来なくなったことで、認知症状は一気に進行してしまったのです。 「医者の仕事を奪ってしまったことが、本人にはつらかったのでしょう。それから一気に認知症が進んでしまいました。でも人の命を預かる仕事ですから、間違いがあってはならなかったので仕方なかったのです。」 と、娘さんが寂しく語ってくれました。 施設に来られてからのBさんの表情は、いつも険しく、そして哀しい表情でした。 そして、「ワァー!」と大声で泣き叫ぶのでした。 足元が不安定なのにもがくように歩き、悲壮感あふれる泣き叫び。 その叫びは、「なんでなんで!?どうしてどうして!?」と言う、 今の自分の状況が到底受け入れられない激しい心の叫びのように思われました。 その叫び声は「こんなはずじゃない!!」と言う、 認知症の人のすさまじい訴えの声として私の心に深く残ったのでした。 センター長の石川でした。 (つづく)
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2021.01.18

認知症の教室(一般市民用)
若年性認知症の方との集いと1月17日 1月16日(土)1月定例の若年性認知症の方との集い(楽カフェ)が開催されました。 今回は、ご家族様のグループに参加させてもらいました。 詳細は書けませんが、本当に苦労されている様子、 その中でも色々考えながらケアをされていること等 熱い思いが伝わってくるものでした。 デイサービスの利用などはあるものの、ほぼフルタイムでケアをして行かなければならないのが家族です。 その家族へのサポートを、もっと深めていかなければならないと思うのです。 さて、そのように本人、家族にとって大切な集いの時間ではあるので、開催はされるべきだとは思うのですが、 大阪は「緊急事態宣言」が出ているのです。 それは「人の動きを止める」ことが大切なのですが、宣言が出てもお構いなくという感じがします。 行政からして地域活動は止めるな!ですから、では何のための「緊急事態宣言」なのかと思ってしまいます。 単に飲食関係が、感染率が高いからと、まるで悪者にしているような感じですね。 震災メモリアル 昨日は1月17日 あれからもう26年も経過したのですね。 現地での救援活動は、今も深く脳裏に焼き付いて忘れられないものになっています。 というか、心の傷として残るくらいの衝撃だったかもしれません。 当時の救援活動を私は約3万7千字の文章として書き残していますが、そのうちのごく一部だけを転載します。 まずは初動の所から。正式救援隊の一員としてはこの時からですが、震災後すぐに先輩の安否確認のために現地には入っていました。ほぼ序章のようなところです。 JR神戸駅の時計 地震から10日後、大阪の老人福祉関係者の被災地支援策もようやくまとまり始め、被災地に対する援助が徐々に動きだした。阪神間の市街地には老人ホ-ムの数は少なく(当時)、大きな被害を受けている所は少なかった。殆どが北区や西区などの外周部にあり、建物自体には問題は少なかったが、市中心部からの緊急避難の高齢者が各施設に押し寄せ、どの施設も定員を遥かにオ-バ-した状態にあった。 そのため、まずそれらの施設に対する職員の応援派遣が実施された。大阪の各施設から選抜されたケア職員達が三田経由でそれらの施設に向かった。各施設ともライフラインは維持されており、派遣職員が寝食に困るということはなかったが、これらの施設とは対照的に、ライフラインが全く破壊されたうえに、目前に大きな被害を見つめることになった特別養護老人ホ-ムが二か所あった。芦屋市の「あしや聖徳園」と、長田区の「長田ケアホ-ム」だった。 「あしや聖徳園」は21歳の若いケア職員を失っている。山好きの女性で、休みの日にはいつも山に行っていたという。彼女の住む文化住宅は一階が崩壊、仲間達が懸命に瓦礫を掘り起こしたが、彼女の恋人が瓦礫の隙間から手を延ばし触れた彼女の手はすでに冷たくなっていた。彼は、嗚咽し泣き崩れたという。 阪神大震災は、数多くの恋人達の愛をも引き裂いていた…。(ケア職員の犠牲者も出た) 「長田ケアホ-ム」は施設の目の前までが火災で何もかもなくなってしまった。前一面が焼け野原となってしまったのだ。目前の火災の中で、多くの人達が生きながら焼かれてしまったのだ。 最初に救援に入った東灘区摂津本山付近 写真原本が不明のため、PCのワード画像より転写しているため、画像は見ずらいです. 次は実際の救援活動の一コマです。今も強く印象に残っているシーンです。 野寄公園にある自衛隊のテントの間に挟まれるように3~4人用の小さなテントが建っている。その小さなテントに寝たきりの母親を抱える息子夫婦が暮らしていた。3~4人用のテントといっても、ゆったりと寝ようと思えば2人までである。テントの中は非常に狭い空間なのだ。そのテントの外には辛うじて持ち出したと思われる洗面道具やバケツが置かれていた。 避難所の担当医師は、この老人の一般状態があまり良くないので入院の手配を進め、明日には入院出来るようになったと話してくれた。現在は点滴で何とか持ち堪えている状態だという。 しかし、寝たきりの彼女は私たちの前で、「家族と共に居たいから入院はしたくない。そのように、医者に伝えておいて欲しい。」と応えた。家族もその本人の意思を尊重した。 状態が悪化しつつある寝たきり老人が、劣悪な環境の続くテントでの生活を選んだ。 家を失い、生活を失い、全てのものを失った彼女にとって、家族は唯一失われずにそばに居てほしいものだった。ここで入院して離ればなれになって、家族までも失いたくなかったのだ。例え自分の命を縮めようとも、もうこれ以上、大切なものを失いたくはなかったのだ。 私たちは、そのテントをみつめることだけしかできなかった…。 その後、この家族がどうなったか、私は全く知らない。しかし、極限の中での人間の「絆」というものの強さを深く感じずにはいられなかった。 なす術なく立ちすくんでそのテントを見つめるだけの私達…。家族の「絆」を前にして、誰が「入院が最高の選択。」と云えるだろうか。 担当医師に本人と家族の意向を伝えると、その医師も何も云わなかった。いや、何も云えなかったのだ、きっと…。 厳しい寒さの中、その方はテントでの生活を選ばれた。人生最後の選択だったかもしれない。   センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 東京オリンピック・パラリンピックでは森元会長の発言から大騒動になりました。 ただこれはオリンピック精神に反すると言うより、社会的人間としてどうなのかと言うことになります。 2019年のラグビーワールドカップでは、「多様な人々が一つになる」と言うことが実現できた時でした。 日本代表が確たる証拠です。 私も何度か足を運んだスタンドにおいても、敵味方国籍人種を越えたノーサイドの精神で溢れていました。 [caption id="attachment_2377" align="aligncenter" width="650"] 2019年はいい年だったな~[/caption] 元々地域社会は多様な人たちで成り立っています。 当然認知症の人も、その多様性のひとつ、多様な人たちの一人なのです。 今回の話題の中で、差別なく様々な人たちに敬意を示すことの大切さの中に、 認知症の人のことも忘れないで欲しいと思うのです。 (ただSNSでは認知症の人を軽蔑するような書き込みが数多くありました) 認知症の人は、1+1=2のような数値化できない世界(そんな世界はないと否定する人もおられますが)を表し、 学ばせてくれる素晴らしき人たちなのですから。 この部分だけでも、いくらでも語れますよ。 今日の元気が出るビデオ 時には挫折し、この先がどうなっていくか不安な今、若き日に燃やした情熱を思い出し、 Reスタートしてほしい、そんなビデオです。 前回の田中将大に続いて野球ネタです。 「遠くの空 指さすんだ」 https://www.youtube.com/watch?v=DtJIUfbb3cY   さて次回は、私たちの生活にとってなくてはならない「穴」の話です。
ブログ投稿画像 若年性認知症になられたB女医さんの最終回です。 Bさんのことでは、私はとんでもない失態と言うか、痛い記憶があります。 当時は日本でもまだ数少ない認知症の人の専用フロアがあった私が勤めていた施設は、見学者も数多く来られました。 毎日のように見学者の対応に追われるような状況でもあったのです。 私がその見学者を誘導し、フロアで説明する役割を担っていました。 その見学者たちが皆さん一様に驚く話がありました。 「若くして認知症になられたお医者さんも入所者におられます。」と。 すると、見学者は皆、へぇーと声を上げるのです。 当時はまだ若年性認知症のことはほとんど知られていない頃だったので、 私の話はセンセーショナルな話だったのです。 この頃の私は、認知症の人への敬意も尊厳の保持も、そのかけらすらない説明を、見学者に行っていたのです。 話だけではなく、認知症の人をパーソンではなく、「困った対象者」のような感じで見ていたのかもしれません。 そしてあの日も見学者を案内し、そのセンセーショナルな話をフロアで話をしていた時です。 詰所からガチャっという音が聞こえました。 当時は詰所でタバコが吸える時代でした。(職員は禁止されてましたが) 面会者や見学者は詰所でタバコが吸えたのです。 そのガチャという音は、今でこそあまり見かけなくなりましたが、 灰皿の真ん中の突起を押すと、吸い殻が中に落ちる回転式灰皿の突起を押したときの音だったのです。 その音に振り返って私が詰所を見ると、そこにBさんの夫がいたのです。 日に日に変わっていき、混乱していく妻を支えてきた人でした。 間違いなく、私の見学者への説明を夫は聞いていたでしょう。 その灰皿の音は「私の妻をさらし者にするな!」という無言の抗議だったと、私はその時気づかされました。 今でもその時のガチャ!という灰皿の音は、私にとって痛い記憶として残っています。 まさしく思い上がっていた私への戒めの音だったのです。 [caption id="attachment_2372" align="aligncenter" width="225"] 真ん中の突起を押すと、ガチャっという音とともにお皿が回転し、吸い殻が中に収納されます。[/caption] 常にふらつきながらもなんとか歩こうとして、その都度転倒を繰り返すBさんのその姿、 そして涙を浮かべながら、大声を上げ悲壮感を訴えるその表情も、 それこそ「死に物狂いの認知症と言う病魔へ抵抗しようとする姿」であったのではないでしょうか。 同時に私たちに救いを求める姿であったのかもしれません。 私たちから見て困ってしまう行動も、 本人にとっては「必死になって生きていこうとする自分自身への生命の証」なのかもしれません。 B女医さんの話はこれで終わります。 次回からは猛烈に暴れる女性の話になります。 センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 センター長の石川です 2月6日、若年性認知症の方の集い(楽カフェ)が開かれました。 今回は4名の方が参加され、うち1名は初参加の方でした。 コロナ禍においてなかなか外へ出る機会もままならぬ中、貴重な集いの時間と言えます。 今回は「マットゴルフ」を実施。 ゴルフをやっていた方が多く結構皆さん上手です。 [caption id="attachment_2366" align="aligncenter" width="650"] まずはショートコースから。ゴルフ中前の道路で追突事故があり、大きな音がしました。[/caption] ただこのような「何かを行う」状況では、それぞれの方の現状が見えてきます。 ちょっとつらい時でもありますね。 今回から参加された家族は、介護家族同士の話し合いの中で、 同席の介護家族から色々と介護方法を教えてもらい、かなり有益だったようです。 介護家族からの言葉なので納得力もあります。 家族同士の集いが持つ意味はかなり大きいですね。 [caption id="attachment_2365" align="aligncenter" width="650"] ロングコース しっかりと入れる人も![/caption] さて島之内の家族会「ほっこりなつどい」もコロナや寒さが下火になってきましたので、3月に予定しています。 またお知らせしますね。 [caption id="attachment_2367" align="aligncenter" width="650"] 梅が咲き始めましたよ!(茨木市の里山で)[/caption]
ブログ投稿画像 センター長の石川です 世の中一部の権力を持つ高齢者の発言、行動で、若い世代から「老害」と言う言葉を盛んに聞きます。 確かに先日のフォレスト氏の発言や一階の上の人の行動や発言を聞いていると 全くもって酷いもので、多くの普通の高齢者まで迷惑してしまいます。 つまり、老人になると、「老害」しかないと思われ、 それが認知症と繋がってしまうのです。 SNSでのコメントでは、フォレスト氏は「痴呆だ」(認知症とも言わず) 「痴呆老人はさっさと、引退しろ!」みたいな言葉が次々と出てきます。 やはり、認知症の人を蔑視、軽蔑する風潮は世間に染みこんでいるのでしょうか。 特に若い世代に、このままでは老人イコール自分たちを害する人たちと思われてしまうでしょう。 つまり、しょうもないことでの世間の大騒ぎですが、 高齢者理解、認知症の人への理解と言う意味では、捨てておけないことなのです。 多くの高齢者は若い人達に知識をつたえる知恵者であり、学びの師なのです。 例えば入居者一人一人は若い世代にとって学びの師なのです。 認知症があったとしてもその人から学ぶことがものすごくあるのです。 ところが一部の権威的立場にある高齢者の行動や発言は、それらの思いを吹き飛ばしてしまいます。 そして、「老害」は「認知症」と結びつき、軽蔑だけが助長されてしまいます。 若い世代は高齢者を「ヨーダ」と思い、学ぶ姿勢を。 年取った世代は自分を「ヨーダ」と思い、出しゃばらず若い世代を見守り導くことを。 でも老いも若きもそんなことはどうでもいいよーだ…
ブログ投稿画像 Bさんは40代後半で認知症を発症しました。 何故この若さで認知症を発症することになったのか。 その原因理由についてはかなり解明されてきました。(これについては長くなるのでまた別項で) しかし、若年性認知症発症の理由は、残念ながらまだまだ不明な点が多いのです。 B女医さんが発病された当時、今からもう30年近く前のことですが、 認知症になる原因理由は当然まだ不明なことが殆どでした。 当時、認知症の方を診断していた専門医(この先生には大変お世話になりました。いろいろ勉強もさせてもらいました)は、 Bさんの診察に際し、家族にBさんが認知症の人を診察していた経緯がないか、ということを聞かれていました。 先生は診察が終わると、必ず丁寧に手洗いを行い、イソジンでうがいをされていました。 今なら当たり前の光景かもしれませんが、当時は随分神経質だなと私は思っていました。 Bさんが何故認知症を発症したのか? もしかしたらウイルスによるものかもしれない。 そんな可能性もぬぐい切れない当時の状況だったからです。 認知症ウイルス説は今となっては問題外のことですが、 医者が若年性認知症になってしまったということは、ウイルス説を含めた脅威だったわけです。 残念ながら、これだけ科学が進んでも、若年性認知症の人が減ることはありません。 確実的に発症している病気でもあるのです。 他人事ではないのです。 センター長の石川でした。 (つづく) 最近話題にのぼる「ウレタンマスク」。 ウレタンマスクをしている人を攻撃する人も現れて「なんとか警察」の再登場です。 本当に困ったものです。 ただ、ウレタンマスクへの正しい理解は必要だと思うので、下記リンク先の記事を読んでもらえればと思います。 要は、マスクをしっかりと付け、密集を防ぎ、換気をガンガン行う。これに尽きるのかなと。 ただ、介護施設で働く者は、公私の時間ともに、ウレタンマスクの使用は避けた方がよいでしょう。 https://toyokeizai.net/articles/-/409607
ブログ投稿画像 Bさんの行動は激しいものでした。 常に動き回り、それでいて足元が不安定のため、 何度か転倒もありました。 そのため、頭にはラグビー選手のようなヘッドギアを付け、 腰にはパットの入ったズボンをはいてもらいました。 それでも常に目が離せない存在だったのです。 Bさんのその目はいつも潤み、いつも何かを訴えるかのように私たちを見ます。 そして大声。 恐らくは何かを訴えたい、何かを話したい、だけどその言葉が出てこない。 本当なら医者として、まだまだバリバリと働きたいはずなのに どうしようもなく自分が崩壊していく姿への悲愴な叫びだったのかもしれません。 職員の中にBさんの診療所で働いていた看護師がいて、 「先生、先生!」 と、声を掛けます。 一瞬、何かを感じたのか、穏やかな表情になります。 医者が医者たる姿を見せた一瞬だったのかもしれません。 認知症になってもその姿は人それぞれです。 穏やかな人もいれば、そうでない人もいます。 いずれにしても、自分で望んだ道ではなかったでしょう。 Bさんからは、「こんなはずじゃない!どうして!?」という思いが強く伝わってきたのでした。 その認知症と言う病魔に襲われて、悲壮な状況に追いやられてしまった人のことを 私たちはあまりにも冷酷な目で「認知症の大変な人」という思いで見ているのかもしれません。 (つづく) センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 Bさんが、私が生活相談員をしている認知症専門フロアに来られた時、既に認知症状が進行していました。 小さな身体の方でした。50歳代でしたが可愛らしい表情の方で、 人気の女医さんだったということがよくわかります。 開業医として、評判の良い女医さんだったのです。 ところが、もの忘れが目立つようになり、時に精神的に不安定になり、 医療器具をひっくり返して暴れることもあったそうです。 人の命を守る仕事ゆえ、家族は早々に医師の仕事を辞めさせました。 しかし、使命として医師の仕事に誇りを持っていたBさんが、 その仕事が出来なくなったことで、認知症状は一気に進行してしまったのです。 「医者の仕事を奪ってしまったことが、本人にはつらかったのでしょう。それから一気に認知症が進んでしまいました。でも人の命を預かる仕事ですから、間違いがあってはならなかったので仕方なかったのです。」 と、娘さんが寂しく語ってくれました。 施設に来られてからのBさんの表情は、いつも険しく、そして哀しい表情でした。 そして、「ワァー!」と大声で泣き叫ぶのでした。 足元が不安定なのにもがくように歩き、悲壮感あふれる泣き叫び。 その叫びは、「なんでなんで!?どうしてどうして!?」と言う、 今の自分の状況が到底受け入れられない激しい心の叫びのように思われました。 その叫び声は「こんなはずじゃない!!」と言う、 認知症の人のすさまじい訴えの声として私の心に深く残ったのでした。 センター長の石川でした。 (つづく)
ブログ投稿画像 1月16日(土)1月定例の若年性認知症の方との集い(楽カフェ)が開催されました。 今回は、ご家族様のグループに参加させてもらいました。 詳細は書けませんが、本当に苦労されている様子、 その中でも色々考えながらケアをされていること等 熱い思いが伝わってくるものでした。 デイサービスの利用などはあるものの、ほぼフルタイムでケアをして行かなければならないのが家族です。 その家族へのサポートを、もっと深めていかなければならないと思うのです。 さて、そのように本人、家族にとって大切な集いの時間ではあるので、開催はされるべきだとは思うのですが、 大阪は「緊急事態宣言」が出ているのです。 それは「人の動きを止める」ことが大切なのですが、宣言が出てもお構いなくという感じがします。 行政からして地域活動は止めるな!ですから、では何のための「緊急事態宣言」なのかと思ってしまいます。 単に飲食関係が、感染率が高いからと、まるで悪者にしているような感じですね。 [caption id="attachment_2310" align="aligncenter" width="650"] 震災メモリアル[/caption] 昨日は1月17日 あれからもう26年も経過したのですね。 現地での救援活動は、今も深く脳裏に焼き付いて忘れられないものになっています。 というか、心の傷として残るくらいの衝撃だったかもしれません。 当時の救援活動を私は約3万7千字の文章として書き残していますが、そのうちのごく一部だけを転載します。 まずは初動の所から。正式救援隊の一員としてはこの時からですが、震災後すぐに先輩の安否確認のために現地には入っていました。ほぼ序章のようなところです。 [caption id="attachment_2309" align="aligncenter" width="650"] JR神戸駅の時計[/caption] 地震から10日後、大阪の老人福祉関係者の被災地支援策もようやくまとまり始め、被災地に対する援助が徐々に動きだした。阪神間の市街地には老人ホ-ムの数は少なく(当時)、大きな被害を受けている所は少なかった。殆どが北区や西区などの外周部にあり、建物自体には問題は少なかったが、市中心部からの緊急避難の高齢者が各施設に押し寄せ、どの施設も定員を遥かにオ-バ-した状態にあった。 そのため、まずそれらの施設に対する職員の応援派遣が実施された。大阪の各施設から選抜されたケア職員達が三田経由でそれらの施設に向かった。各施設ともライフラインは維持されており、派遣職員が寝食に困るということはなかったが、これらの施設とは対照的に、ライフラインが全く破壊されたうえに、目前に大きな被害を見つめることになった特別養護老人ホ-ムが二か所あった。芦屋市の「あしや聖徳園」と、長田区の「長田ケアホ-ム」だった。 「あしや聖徳園」は21歳の若いケア職員を失っている。山好きの女性で、休みの日にはいつも山に行っていたという。彼女の住む文化住宅は一階が崩壊、仲間達が懸命に瓦礫を掘り起こしたが、彼女の恋人が瓦礫の隙間から手を延ばし触れた彼女の手はすでに冷たくなっていた。彼は、嗚咽し泣き崩れたという。 阪神大震災は、数多くの恋人達の愛をも引き裂いていた…。(ケア職員の犠牲者も出た) 「長田ケアホ-ム」は施設の目の前までが火災で何もかもなくなってしまった。前一面が焼け野原となってしまったのだ。目前の火災の中で、多くの人達が生きながら焼かれてしまったのだ。 最初に救援に入った東灘区摂津本山付近 写真原本が不明のため、PCのワード画像より転写しているため、画像は見ずらいです. 次は実際の救援活動の一コマです。今も強く印象に残っているシーンです。 野寄公園にある自衛隊のテントの間に挟まれるように3~4人用の小さなテントが建っている。その小さなテントに寝たきりの母親を抱える息子夫婦が暮らしていた。3~4人用のテントといっても、ゆったりと寝ようと思えば2人までである。テントの中は非常に狭い空間なのだ。そのテントの外には辛うじて持ち出したと思われる洗面道具やバケツが置かれていた。 避難所の担当医師は、この老人の一般状態があまり良くないので入院の手配を進め、明日には入院出来るようになったと話してくれた。現在は点滴で何とか持ち堪えている状態だという。 しかし、寝たきりの彼女は私たちの前で、「家族と共に居たいから入院はしたくない。そのように、医者に伝えておいて欲しい。」と応えた。家族もその本人の意思を尊重した。 状態が悪化しつつある寝たきり老人が、劣悪な環境の続くテントでの生活を選んだ。 家を失い、生活を失い、全てのものを失った彼女にとって、家族は唯一失われずにそばに居てほしいものだった。ここで入院して離ればなれになって、家族までも失いたくなかったのだ。例え自分の命を縮めようとも、もうこれ以上、大切なものを失いたくはなかったのだ。 私たちは、そのテントをみつめることだけしかできなかった…。 その後、この家族がどうなったか、私は全く知らない。しかし、極限の中での人間の「絆」というものの強さを深く感じずにはいられなかった。 なす術なく立ちすくんでそのテントを見つめるだけの私達…。家族の「絆」を前にして、誰が「入院が最高の選択。」と云えるだろうか。 担当医師に本人と家族の意向を伝えると、その医師も何も云わなかった。いや、何も云えなかったのだ、きっと…。 [caption id="attachment_2312" align="aligncenter" width="650"] 厳しい寒さの中、その方はテントでの生活を選ばれた。人生最後の選択だったかもしれない。[/caption]   センター長の石川でした。