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「認知症の教室(一般市民用)」で記事を検索しました。

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2020.12.23

認知症の教室(一般市民用)
若年性認知症の方との関り(7)【認知症ケア黎明期】 当時私が勤めていた特別養護老人ホームには日本でも2~3番目に作られた、認知症高齢者専用フロアがありました。 もちろん、大阪ではここだけでした。 そこでS市はAさんの入所を頼み込んできたということになります。 この法人の当時の理事長は先駆的な考えの持ち主で、厚労省とも渡り合う人物でもあり、 現在ある介護保険制度サービスのベースをさきがけてきた人でした。 デイサービスやショートステイ、ナイトケア、認知症デイ、ホームヘルパーなど、 まさしく今ある高齢者サービスのスタイルを作った人でもありました。 陸軍中野学校(スパイ養成学校)出身のこの理事長は、職員に対しても厳しかったのですが、 常に高齢者に向いた考えを持つことを、私たちも鍛え上げられたとも言えます。 そして、認知症高齢者専用フロアも先進的に造られたのでした。 認知症専用フロアがあった施設 法人HPより ただ、認知症の方への取り組みが先進的になったのは、 この地域の保健師やボランティアたちの認知症の方への取り組みが熱心だったということもあります。 当時は認知症で様々な症状が出ると、精神科の病院へ入院させられる状況でした。 そして薬漬けとなり、拘束されて亡くなっていったのです。 それはあまりにも酷い、何とか老人ホームで人間らしい生活を送らせてあげたいと、 当時の地元保健師が直談判に来られ、呼応した理事長の下、このホームでの認知症の人の受け入れがスタートしたのです。 今でも最初に来られた方の名前も顔もよく覚えています。 私たちケア職員にとっても未知の領域のケアが始まったのです。 まだ専用フロアがない時代、一般フロアしかない特別養護老人ホームに 堰を切ったかのように認知症の人の入所が始まったのです。 さて数年後に専用フロアが出来るまでの間の認知症の人へのケアは、今から振り返っても本当に凄いものでした。 出入口がロックされているわけではないので、皆さんいくらでも出て行かれます。 その都度私は一緒について行って、2時間でも3時間でもに街を彷徨うのです。(もちろん、携帯電話なんてありません!) この辺りのことを書きだすと、めちゃくちゃ長くなるので、年数を少し進め、 認知症高齢者専用フロアが出来、そしてAさんが入所してきたところまで話を戻さなければなりません。 S市からの「収容依頼書」そして電話は切迫した状況を訴えるものでした。 当時私は生活相談員として、入所の受け入れを担当していました。 施設長との相談の上、S市において年齢が55歳であっても特養該当者として認めていることもあり、 緊急性もあるのでAさんの入所が速やかに決定されたのです。 (つづく) センター長の石川でした
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2020.12.22

認知症の教室(一般市民用)
「父と娘の認知症日記」 センター長の石川です。 NHKドキュメントでも取り上げられた 認知症を発症された長谷川先生と娘さんのケアの様子が 一冊の本になりました。 販売に先駆けて、中央法規出版から送ってもらいました。 中央法規出版社 税別1300円です 「生きている限り生き抜きたい」 「生かされるのではなく、自分の意志で生きたい」 と、長谷川先生は話されています。 シンプルにまとめられた、読みやすく、かつケア専門職も必読の言葉が織り込まれています。 是非とも皆様もお読みください! なお執筆協力者は寺田真理子さん 中央法規担当は寺田真理子さん。 同姓同名で、先生はびっくりされたようです(笑)   さて、話題は変わりますが、昨日は木星と土星が「見た目」の最接近の日でした。 目のいい人は、肉眼でも二つ見えたそうですが、 私の目には一つに見えました(苦笑) 望遠レンズで撮ると、まぁそれなりに離れてはいるのですが。 肉眼で見ると、ほぼほぼ合体しています しかしこれだけ広い天空で、小さな光の点がほぼ重なると言うのも凄いものです。 今晩はまだ見れるそうですが、次回は60年後です。 今回見逃した人は、60年頑張ってください! アーバンケア島之内の屋上から撮影しました (木星の下の衛星はイオ。その横は山羊座の恒星。その下はエウロパ。木星の上の衛星はガニメデとカリスト。土星の近くにうっすらと見えるのが、土星の衛星タイタンです。因みにタイタンには生命がいるのではないかと言われています)
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2020.12.18

認知症の教室(一般市民用)
コロナより怖い心身を蝕んでいくこと(介護サービス利用のすすめ) センター長の石川です 本格的寒さの到来ですね。 今年はかなり寒い冬だとか。 さらにコロナの大襲撃! 高齢者は外に出るなと言われます。 確かにそうなのですが、 家にじっとしていることは、コロナ以上に怖いことが襲ってきます。 半年後には確実に。 来年の春にお花見ができるためにも健康管理!家にこもっていてはダメですよ! まず身体的には足腰が弱ります。 高齢者はたちどころに筋肉がなくなり、ちょっとしたことで転倒しやすくなります。 転倒すれば確実に入院、あとは悲壮な状況が待っています。 筋力の低下だけでなく、内臓系も弱り、様々な病気を発病します。 病気になっても、今は簡単には入院できません。 だから普段から健康でいなければならないのです。 そして何よりも、家でじっとしていることは、 認知症になる確率をかなり上げてしまいます。 デイサービスに来て心身ともに働かせましょう! ではどうすればいいか? 家にじっとしていてはダメです。 介護認定を受けている人ならば、デイサービスに行きましょう。 皆さんの周りにおられれば、声を掛けてあげてください。 コロナより、寒波より怖いのは、家でじっとしていること。 確実に高齢者の心身を蝕んでいきます。 感染症対策をしっかりと行っています   健康維持のためにも介護サービスを活用してください。 サービスの受け方がわからなければ、地域包括支援センターに連絡してください。 もちろん、アーバンケア島之内デイサービスセンターも、お待ちしています!  
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2020.12.17

認知症の教室(一般市民用)
楽Caféメンバー市役所で活躍 センター長の石川です。 12月16日、東大阪市役所で楽Caféメンバー(若年性認知症の方)4名による、 お弁当配布に伴う若年性認知症啓発活動がありました。 普段あまり来ることがないような課に注文確認です 東大阪市地域包括ケア課が軸となり、今回は市役所の職員約180名からお弁当の注文を受け、 各セクションに回って配達をしてくれました。 東大阪市長は、ハンバーグ弁当のご注文でした。 4名の方が回った先は、各部署の職員をはじめとして、 市長や議員まで。地域包括ケア課の地道な根回しが生きていました。 議員さんの所にも回ります。 議員さんの事務所に配達です 注文内容の確認から、お弁当の準備、配達と、 スタッフたちに助けられながらも4名の方は、 普段「役割を持つ」ということからどんどん遠ざかって行ってしまう中、久しぶりの活躍の場だったのではないでしょうか。 それは皆さんの活き活きとした表情を見れば伝わってくるものでした。 取材も来ており、若年性認知症の方への理解に繋がるアピールにはなったと思います。 皆さんでお弁当の仕分けです しかしあくまでも一過性のものなので、 当事者や家族を交えて継続的な形作りをどのようにしていくのかが今後の目指す道ですね。 22階レストランで作られたお弁当です またこのような当事者が主体となって行うイベントは、「紙一重」の所があるので、 主催者側の振り返りは大切なことと言えます。 各課へのお弁当配達は、結構大変です。 いずれにしても、準備は大変だったでしょうし、 ここまでコツコツと積み上げてこられたことには大きな意味があるでしょう。 ドリップコーヒーです.お弁当に添付しました。 私も微力ながらサポートを継続していきたいと思います。  
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2020.12.15

認知症の教室(一般市民用)
若年性認知症の方との関り(6)【施設入所が収容と言われていた時代】 【施設入所が収容と言われていた時代】 Aさんの妻にとって頼れるところは行政でした。 市役所へ赴きますが、障がい課なのか、高齢福祉課なのかわかりません。 当然地域包括支援センターも介護保険もない時代です。 50歳代の相談が果たして高齢福祉課でよいのかわからないまま、 認知症という診断を頼りに高齢福祉課へ相談に行きます。 相談を受けた高齢福祉課は、65歳以上が担当です。 そのため果たして自分たちの管轄であるのかどうか迷った末、 認知症(当時は痴呆症)という診断があるため、相談を受理しました。 そして担当のワーカーが自宅を訪れ、その悲壮な状況に愕然としたのでした。 当時高齢福祉課は、特別養護老人ホームへの入所手続きを担っていました。 いわゆる「措置」の時代で、「このような入所希望者(必要者)がいるので、入所をよろしく」という通知を各施設に送る役割を担っていたのでした。 当時はそれを「収容依頼書」と呼んでいました。 「収容」という、まるで刑務所に送るような文言ですね。 また収容(入所)依頼先は、全国どこの施設でもよかったのです。 S市の高齢福祉課にとっても若年性認知症の方への入所判断に苦慮したようです。 なにせ法律上は65歳以上の人が対象で、50代の高齢者ではない人の入所依頼を出すのはどうなのかと課内でももめたそうです。 今なら若年性認知症の人のことがよくわかっていても、当時はどう対処していいかわからないという状況でした。 考察でも書きますが、今は地域包括やデイサービスやショートステイ、そしてケアマネジャーやホームヘルパーがいる時代です。当時はそれら全てのものがなかったのです。 何を言いたいのかと言うと、これだけサービスや専門スタッフが充実している今でも、 (若年性)認知症の人への関わりはどれだけ進歩しているのだろうか??  と言うことなのです。 さて、今の家族丸抱えの状況の中、特例の措置としてAさんの入所依頼を掛けることになったS市。 その依頼先として選んだのが、当時私が勤めていたM市の老人ホームでした。 (つづく) センター長の石川でした。 大阪はレッドアラート発令中です。
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2020.12.12

認知症の教室(一般市民用)
コロナ禍でのナッジ理論の活用法 センター長の石川です。 最近テレビでナッジ理論が紹介されてました。 あ、そうそう、忘れてた!と思いました。 勉強していたのにすっかりと忘れていました。 ナッジとは強制でもなく、自由でもなく、そっとその人の心が動くように押すこと。 経済学などでよく使われます。 心にゆとりができる空間が必要ですね よくあるのは、勝手に自転車を止めていく場所に「禁止!」ではなく、 「ここは自転車捨て場です」という看板を立てたこと。 ちょっときつめですが、洗面所で「隣の人はしっかりと手を洗っていますか?」と書かれたものを貼ったこと。 感謝の思いをくすぐるものとして、「いつもトイレをきれいに使っていただきありがとうございます。」という文章などがあります。 基本的に「自由な選択できる状態を損なわないこと」となります。 だから強圧的な禁止でもなく、好き勝手してもいいよでもないのです。 確かに人間は「禁止」ばかりがあると、精神的に窮屈に感じますし、その反動が生じます。 その反動と言う火に油を注いだのが、GOTOなんとかでしょう。 また禁止の文言が一杯書かれていても、それは自然に景色の一部となり、意識しなくなるのです。 一方自由奔放も細事のことに注意を払わなくなります。 実はその細事に注意を払うということこそ大事を防ぐことに繋がるのです。 強制でも好き勝手でもなく、自分であるべき道を決めてもらうのが、ナッジ理論です。 「マスクなしの会話禁止!」の「禁止!」の言葉を並べるよりも(景色の一部になり意識しなくなります) 少し緊張感を持たせるなら「コロナに感染したくなければマスクをしよう!」とか、 感謝的に「いつも感染予防のためにマスクしての会話ありがとうございます。」と言うのもいいでしょう。 「孫」を使った言葉も効果的です。(例えば、「孫が可愛ければ、マスクで会話」など) そして景色の一部にならないよう、一週間に一度は文言を変えて見るのもいいでしょう。 そうすれば、必ず読みますから。 特に大阪弁はナッジ効果を生み出します。 「禁止!」よりも「あかんあかん、マスクしてないとコロナ移るでぇ」とか 「マスクは大阪を守るんやで、ほんまやで、ほんま!」など、禁止ばかりの窮屈な心にするのではなく、 ユーモアを交えられるというのが大阪弁のいいところではないでしょうか。   まさしく、「マスクは大阪を救うし、家族を救うし、あなたの命も救う」なのです。 ほんまやで~ほんま!   「マスクは大阪を救う!あなたも大阪を救ってくれる方ですね」みたいな。この文言、知事に言おうかな(笑) 「マスクは日本を救う」って首相に売り込んでも興味なさそうだし(苦笑)  
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2020.12.09

認知症の教室(一般市民用)
若年性認知症の方との関り(5)「壮絶な日々」 【壮絶な日々】 Aさんが住んでいる市には、当時としては珍しい認知症の専門医がいました。 その病院で若年性の痴呆症(当時)と診断され、なんでこの年齢で!と、妻は仰天したそうです。 しかしAさんの症状は猛スピードで進行していきます。 コミュニケーションは厳しくなり、行動も全てにおいて付き添いが必要でした。 そして世間は奇異な目でAさんを見ます。 一家の大黒柱が職を失い、妻が働きに出ます。 しかし、自宅にいるAさんは水を出しっぱなしにして、階下に迷惑を掛けます。(団地に住んでおられました) そして、ふらっと出て行っては行方が分からなくなるのです。 筑波大学都市研究より引用(本文の団地ではありません)   このような状況では妻はおちおち働きにも出れません。 担当医は、当時としてはまだ数が多くないデイケアセンターにAさんが行けるよう手配してくれました。 ところがそのデイケアで便を壁に塗り付けてしまったため、まだまだ認知症の人への介護経験のないスタッフたちは、 Aさんのデイケアを断ってしまいます。 入院させたらという声もありましたが、とても入院費を払える状況でもなかったのです。 結局妻が取った行動は、あらゆる出口を全て外から鍵を掛け、電気水道ガスも全て元栓を閉めて、 要するにAさんを家に閉じ込めて仕事に出たのでした。 今ではそれを虐待と定義します。 しかし誰も助けてくれない状況では、そうするしか方法がなかったのです。 そしてさらにつらい思いをしたのが中学生の息子でした。 彼が最初に家に帰ってくるのですが、一歩家の中に入ると、 閉じ込められた混乱状況の中で暴れまわったAさんによって、家の中はぐちゃぐちゃになっています。 Aさんからすると誰も助けのない混乱と不安と恐怖の中に一日いることになります。 下半身裸になってAさんは、毎日のように壁に便を塗りつけていたのです。 その父の姿を横目で見ながら、壁に塗られた便をふき取るのが、中学生の息子の帰宅後の仕事だったのです。 (つづく) センター長の石川でした
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2020.12.07

認知症の教室(一般市民用)
RAKU cafe(若年性認知症の方の集い)に参加してきました。 センター長の石川です 12月5日の土曜日、若年性認知症の方の集いが若江岩田にある花園生活支援センターでありました。 今回は4名の当事者の方とその家族、ケアマネジャーなどのケア担当者も参加、 また見学参加で5地域の包括支援センターのスタッフも来られてました。 集いでは、家族組と、当事者組に分かれ、近況報告などを行います。 私は当事者の方のグループに。 若いスタッフさんが知らない流れていた歌を、一緒に歌えるのは私が同年齢であるからというところでしょうか。 それぞれの人なりに悩みはあるものの、明るい表情の皆さんで、 サポートしているワーカーさんやケアマネジャーさんとの信頼関係も深いようでした。 大人の都合で、団らん風景の写真はありません。 ただ、集いの後の家族グループからの報告会では、かなり大変な状況の訴えもあったとのことです。 集いでは笑顔の当事者も、家へ帰ると介護者との軋轢が発生するのは当然かもしれません。 当事者を支えるのはサービスの活用など、専門職が何らかの形でサポートしていきます。 しかし家族の心身の疲労に対してのサポートをもっと重要視していく必要があります。 ショートやデイを利用している間、家族は休めてるではないかと考えるのは、私たち側の思い込みかもしれません。 もっと深い心の疲労感を、受け止める人がいないと言えるかもしれません。 認知症の人のケアだけでも心にダメージを受ける家族の方は多くおられます。 若年性の方を支えるとなった時の精神的ダメージはなおさらと言えるでしょう。 当事者の支援と介護家族の支援は両輪と言うのは皆様もわかってもらえると思うのですが、 家族への支援はまだまだ弱いと言えるでしょう。 乗鞍岳からの紅葉 さて、12月16日には当事者の方々が市役所でのお弁当発注、配達を頑張ってくれます。 市長さんや議員さんにも届けてくれるそうです。 もちろん、私もお手伝いに行かせてもらいます。 市内にはまだ多くの若年性認知症の方がおられると思います。 それもそれぞれ違った状況の中で。若年性認知症の方だけでなく、やるべきことは多々ありますね。 コロナ禍ではありますが、認知症の人のつらさは自粛できないのですから。
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2020.12.04

認知症の教室(一般市民用)
若年性認知症の方との関り(4)「偏見と衝撃」 「偏見と衝撃」 今でこそ若年性認知症は社会的理解がある程度深まったと思うのですが、 この当時、認知症は高齢者が罹るもの、まだ若いのに認知症?? などと怪訝な目で見られた時代でした。 まして仕事上のミスの頻発は、病気ではなくて、当の本人に問題があると厳しく問われていたのです。 つまりAさんは躊躇なく会社を辞めさせられたのです。 それは家族にとっても衝撃な出来事でした。 家族構成は妻と、遅くに生まれた長男。確かまだ中学生になったばかりだったかと。 つい最近までキャッチボールで楽しんだであろう父親が、家族からすれば信じられないような行動をする父親になってしまったのですから。 繰り返し書きますが、当時は「認知症(痴呆症)」への一般市民の理解は皆無な時代です。 Aさんの行動は、多くの人たちに蔑まれるのです。 世間の偏見、それをAさんの家族は、信じられない状況の中で、じっと耐えなければならなかったのです。 会社を辞めさせられたAさんは、そのことも理解できず、駅に向かい電車に乗ろうとしました。 結果は行方不明となり、やはりどうしていいかわからずに立ちすくむところを通報されていました。 そしてAさん家族を襲った最大の危機は、経済的苦境でした。 働き盛りのAさんが職を失い、収入がゼロになってしまったのです。 後々書こうと思いますが、福岡市の越智さん夫婦も同様でした。 (つづく) センター長石川
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2020.12.01

認知症の教室(一般市民用)
若年性認知症の方との関り(3)「駅に立ちすくむ」 若年性認知症の方との初めての出会い(2) 【駅に立ちすくむ】 センター長の石川です。 約35年前のことですが、若年性認知症の方との初めての出会いは、結構覚えているものです。 そして35年経っても、もしかしたら状況はあまり変わっていないのではないかとも思うのです。 過去に再び戻ります。 Aさんの最初の異変は駅でした。 改札を出てから、「え?家はどっちだ?」 と、帰る方向がわからなくなり、しばらく呆然と立ちすくんでいたのです。 不審に思った駅員が声を掛けたのです。   ここで押さえておいて欲しいことは、 今でこそ認知症の人のことを理解する人は増えてきて、 また若年性認知症があることも認識され始めてきている状況と言えます。 しかし、35年前は全く違う状況だったのです。 とてもきれいな空でした 「認知症」は「痴呆症」と言われ、痴呆性老人という、 まるで既に人間ではない扱い(あえて、扱いという言葉を使います)を受け、 社会的には「問題老人」としてのレッテルを貼られていたのです。 まして若年性認知症の方への風当たりは酷いものでした。 Aさんの家族は、家族で抱える、隠すしかないところまで追い込まれるのです。 昨夜はビーバームーンでした。 改札を出て、「あれ、どっちだっけ…」と立ちすくむときの、 Aさんの不安、恐怖、心細さは、筆舌しがたいものだったでしょう。     今、私たちは簡単に「徘徊」という言葉を使っています。(この「徘徊」は徐々に使われなくなってはきていますが) しかし、家に帰る道がわからなくなった時の本人の切ないほどの心細さを、 どこまで理解しているかというと、やはり起こった事象にしか目が行ってないのかもしれません。   50代初頭、会社でもミスが多くなったAさんは、退職へと追い込まれていったのです。 (つづく)  
ブログ投稿画像 当時私が勤めていた特別養護老人ホームには日本でも2~3番目に作られた、認知症高齢者専用フロアがありました。 もちろん、大阪ではここだけでした。 そこでS市はAさんの入所を頼み込んできたということになります。 この法人の当時の理事長は先駆的な考えの持ち主で、厚労省とも渡り合う人物でもあり、 現在ある介護保険制度サービスのベースをさきがけてきた人でした。 デイサービスやショートステイ、ナイトケア、認知症デイ、ホームヘルパーなど、 まさしく今ある高齢者サービスのスタイルを作った人でもありました。 陸軍中野学校(スパイ養成学校)出身のこの理事長は、職員に対しても厳しかったのですが、 常に高齢者に向いた考えを持つことを、私たちも鍛え上げられたとも言えます。 そして、認知症高齢者専用フロアも先進的に造られたのでした。 [caption id="attachment_2239" align="aligncenter" width="600"] 認知症専用フロアがあった施設 法人HPより[/caption] ただ、認知症の方への取り組みが先進的になったのは、 この地域の保健師やボランティアたちの認知症の方への取り組みが熱心だったということもあります。 当時は認知症で様々な症状が出ると、精神科の病院へ入院させられる状況でした。 そして薬漬けとなり、拘束されて亡くなっていったのです。 それはあまりにも酷い、何とか老人ホームで人間らしい生活を送らせてあげたいと、 当時の地元保健師が直談判に来られ、呼応した理事長の下、このホームでの認知症の人の受け入れがスタートしたのです。 今でも最初に来られた方の名前も顔もよく覚えています。 私たちケア職員にとっても未知の領域のケアが始まったのです。 まだ専用フロアがない時代、一般フロアしかない特別養護老人ホームに 堰を切ったかのように認知症の人の入所が始まったのです。 さて数年後に専用フロアが出来るまでの間の認知症の人へのケアは、今から振り返っても本当に凄いものでした。 出入口がロックされているわけではないので、皆さんいくらでも出て行かれます。 その都度私は一緒について行って、2時間でも3時間でもに街を彷徨うのです。(もちろん、携帯電話なんてありません!) この辺りのことを書きだすと、めちゃくちゃ長くなるので、年数を少し進め、 認知症高齢者専用フロアが出来、そしてAさんが入所してきたところまで話を戻さなければなりません。 S市からの「収容依頼書」そして電話は切迫した状況を訴えるものでした。 当時私は生活相談員として、入所の受け入れを担当していました。 施設長との相談の上、S市において年齢が55歳であっても特養該当者として認めていることもあり、 緊急性もあるのでAさんの入所が速やかに決定されたのです。 (つづく) センター長の石川でした
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 NHKドキュメントでも取り上げられた 認知症を発症された長谷川先生と娘さんのケアの様子が 一冊の本になりました。 販売に先駆けて、中央法規出版から送ってもらいました。 [caption id="attachment_2232" align="aligncenter" width="566"] 中央法規出版社 税別1300円です[/caption] 「生きている限り生き抜きたい」 「生かされるのではなく、自分の意志で生きたい」 と、長谷川先生は話されています。 シンプルにまとめられた、読みやすく、かつケア専門職も必読の言葉が織り込まれています。 是非とも皆様もお読みください! なお執筆協力者は寺田真理子さん 中央法規担当は寺田真理子さん。 同姓同名で、先生はびっくりされたようです(笑)   さて、話題は変わりますが、昨日は木星と土星が「見た目」の最接近の日でした。 目のいい人は、肉眼でも二つ見えたそうですが、 私の目には一つに見えました(苦笑) 望遠レンズで撮ると、まぁそれなりに離れてはいるのですが。 [caption id="attachment_2234" align="aligncenter" width="650"] 肉眼で見ると、ほぼほぼ合体しています[/caption] しかしこれだけ広い天空で、小さな光の点がほぼ重なると言うのも凄いものです。 今晩はまだ見れるそうですが、次回は60年後です。 今回見逃した人は、60年頑張ってください! [caption id="attachment_2235" align="aligncenter" width="695"] アーバンケア島之内の屋上から撮影しました[/caption] (木星の下の衛星はイオ。その横は山羊座の恒星。その下はエウロパ。木星の上の衛星はガニメデとカリスト。土星の近くにうっすらと見えるのが、土星の衛星タイタンです。因みにタイタンには生命がいるのではないかと言われています)
ブログ投稿画像 センター長の石川です 本格的寒さの到来ですね。 今年はかなり寒い冬だとか。 さらにコロナの大襲撃! 高齢者は外に出るなと言われます。 確かにそうなのですが、 家にじっとしていることは、コロナ以上に怖いことが襲ってきます。 半年後には確実に。 [caption id="attachment_2220" align="aligncenter" width="650"] 来年の春にお花見ができるためにも健康管理!家にこもっていてはダメですよ![/caption] まず身体的には足腰が弱ります。 高齢者はたちどころに筋肉がなくなり、ちょっとしたことで転倒しやすくなります。 転倒すれば確実に入院、あとは悲壮な状況が待っています。 筋力の低下だけでなく、内臓系も弱り、様々な病気を発病します。 病気になっても、今は簡単には入院できません。 だから普段から健康でいなければならないのです。 そして何よりも、家でじっとしていることは、 認知症になる確率をかなり上げてしまいます。 [caption id="attachment_2221" align="aligncenter" width="650"] デイサービスに来て心身ともに働かせましょう![/caption] ではどうすればいいか? 家にじっとしていてはダメです。 介護認定を受けている人ならば、デイサービスに行きましょう。 皆さんの周りにおられれば、声を掛けてあげてください。 コロナより、寒波より怖いのは、家でじっとしていること。 確実に高齢者の心身を蝕んでいきます。 [caption id="attachment_2219" align="aligncenter" width="650"] 感染症対策をしっかりと行っています[/caption]   健康維持のためにも介護サービスを活用してください。 サービスの受け方がわからなければ、地域包括支援センターに連絡してください。 もちろん、アーバンケア島之内デイサービスセンターも、お待ちしています!  
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 12月16日、東大阪市役所で楽Caféメンバー(若年性認知症の方)4名による、 お弁当配布に伴う若年性認知症啓発活動がありました。 [caption id="attachment_2203" align="aligncenter" width="650"] 普段あまり来ることがないような課に注文確認です[/caption] 東大阪市地域包括ケア課が軸となり、今回は市役所の職員約180名からお弁当の注文を受け、 各セクションに回って配達をしてくれました。 [caption id="attachment_2210" align="aligncenter" width="650"] 東大阪市長は、ハンバーグ弁当のご注文でした。[/caption] 4名の方が回った先は、各部署の職員をはじめとして、 市長や議員まで。地域包括ケア課の地道な根回しが生きていました。 [caption id="attachment_2204" align="aligncenter" width="650"] 議員さんの所にも回ります。[/caption] [caption id="attachment_2207" align="aligncenter" width="650"] 議員さんの事務所に配達です[/caption] 注文内容の確認から、お弁当の準備、配達と、 スタッフたちに助けられながらも4名の方は、 普段「役割を持つ」ということからどんどん遠ざかって行ってしまう中、久しぶりの活躍の場だったのではないでしょうか。 それは皆さんの活き活きとした表情を見れば伝わってくるものでした。 取材も来ており、若年性認知症の方への理解に繋がるアピールにはなったと思います。 [caption id="attachment_2214" align="aligncenter" width="650"] 皆さんでお弁当の仕分けです[/caption] しかしあくまでも一過性のものなので、 当事者や家族を交えて継続的な形作りをどのようにしていくのかが今後の目指す道ですね。 [caption id="attachment_2205" align="aligncenter" width="650"] 22階レストランで作られたお弁当です[/caption] またこのような当事者が主体となって行うイベントは、「紙一重」の所があるので、 主催者側の振り返りは大切なことと言えます。 [caption id="attachment_2211" align="aligncenter" width="650"] 各課へのお弁当配達は、結構大変です。[/caption] いずれにしても、準備は大変だったでしょうし、 ここまでコツコツと積み上げてこられたことには大きな意味があるでしょう。 [caption id="attachment_2212" align="aligncenter" width="650"] ドリップコーヒーです.お弁当に添付しました。[/caption] 私も微力ながらサポートを継続していきたいと思います。  
ブログ投稿画像 【施設入所が収容と言われていた時代】 Aさんの妻にとって頼れるところは行政でした。 市役所へ赴きますが、障がい課なのか、高齢福祉課なのかわかりません。 当然地域包括支援センターも介護保険もない時代です。 50歳代の相談が果たして高齢福祉課でよいのかわからないまま、 認知症という診断を頼りに高齢福祉課へ相談に行きます。 相談を受けた高齢福祉課は、65歳以上が担当です。 そのため果たして自分たちの管轄であるのかどうか迷った末、 認知症(当時は痴呆症)という診断があるため、相談を受理しました。 そして担当のワーカーが自宅を訪れ、その悲壮な状況に愕然としたのでした。 当時高齢福祉課は、特別養護老人ホームへの入所手続きを担っていました。 いわゆる「措置」の時代で、「このような入所希望者(必要者)がいるので、入所をよろしく」という通知を各施設に送る役割を担っていたのでした。 当時はそれを「収容依頼書」と呼んでいました。 「収容」という、まるで刑務所に送るような文言ですね。 また収容(入所)依頼先は、全国どこの施設でもよかったのです。 S市の高齢福祉課にとっても若年性認知症の方への入所判断に苦慮したようです。 なにせ法律上は65歳以上の人が対象で、50代の高齢者ではない人の入所依頼を出すのはどうなのかと課内でももめたそうです。 今なら若年性認知症の人のことがよくわかっていても、当時はどう対処していいかわからないという状況でした。 考察でも書きますが、今は地域包括やデイサービスやショートステイ、そしてケアマネジャーやホームヘルパーがいる時代です。当時はそれら全てのものがなかったのです。 何を言いたいのかと言うと、これだけサービスや専門スタッフが充実している今でも、 (若年性)認知症の人への関わりはどれだけ進歩しているのだろうか??  と言うことなのです。 さて、今の家族丸抱えの状況の中、特例の措置としてAさんの入所依頼を掛けることになったS市。 その依頼先として選んだのが、当時私が勤めていたM市の老人ホームでした。 (つづく) センター長の石川でした。 [caption id="attachment_2198" align="aligncenter" width="650"] 大阪はレッドアラート発令中です。[/caption]
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 最近テレビでナッジ理論が紹介されてました。 あ、そうそう、忘れてた!と思いました。 勉強していたのにすっかりと忘れていました。 ナッジとは強制でもなく、自由でもなく、そっとその人の心が動くように押すこと。 経済学などでよく使われます。 [caption id="attachment_1989" align="aligncenter" width="650"] 心にゆとりができる空間が必要ですね[/caption] よくあるのは、勝手に自転車を止めていく場所に「禁止!」ではなく、 「ここは自転車捨て場です」という看板を立てたこと。 ちょっときつめですが、洗面所で「隣の人はしっかりと手を洗っていますか?」と書かれたものを貼ったこと。 感謝の思いをくすぐるものとして、「いつもトイレをきれいに使っていただきありがとうございます。」という文章などがあります。 基本的に「自由な選択できる状態を損なわないこと」となります。 だから強圧的な禁止でもなく、好き勝手してもいいよでもないのです。 確かに人間は「禁止」ばかりがあると、精神的に窮屈に感じますし、その反動が生じます。 その反動と言う火に油を注いだのが、GOTOなんとかでしょう。 また禁止の文言が一杯書かれていても、それは自然に景色の一部となり、意識しなくなるのです。 一方自由奔放も細事のことに注意を払わなくなります。 実はその細事に注意を払うということこそ大事を防ぐことに繋がるのです。 強制でも好き勝手でもなく、自分であるべき道を決めてもらうのが、ナッジ理論です。 「マスクなしの会話禁止!」の「禁止!」の言葉を並べるよりも(景色の一部になり意識しなくなります) 少し緊張感を持たせるなら「コロナに感染したくなければマスクをしよう!」とか、 感謝的に「いつも感染予防のためにマスクしての会話ありがとうございます。」と言うのもいいでしょう。 「孫」を使った言葉も効果的です。(例えば、「孫が可愛ければ、マスクで会話」など) そして景色の一部にならないよう、一週間に一度は文言を変えて見るのもいいでしょう。 そうすれば、必ず読みますから。 特に大阪弁はナッジ効果を生み出します。 「禁止!」よりも「あかんあかん、マスクしてないとコロナ移るでぇ」とか 「マスクは大阪を守るんやで、ほんまやで、ほんま!」など、禁止ばかりの窮屈な心にするのではなく、 ユーモアを交えられるというのが大阪弁のいいところではないでしょうか。   まさしく、「マスクは大阪を救うし、家族を救うし、あなたの命も救う」なのです。 ほんまやで~ほんま!   「マスクは大阪を救う!あなたも大阪を救ってくれる方ですね」みたいな。この文言、知事に言おうかな(笑) 「マスクは日本を救う」って首相に売り込んでも興味なさそうだし(苦笑)  
ブログ投稿画像 【壮絶な日々】 Aさんが住んでいる市には、当時としては珍しい認知症の専門医がいました。 その病院で若年性の痴呆症(当時)と診断され、なんでこの年齢で!と、妻は仰天したそうです。 しかしAさんの症状は猛スピードで進行していきます。 コミュニケーションは厳しくなり、行動も全てにおいて付き添いが必要でした。 そして世間は奇異な目でAさんを見ます。 一家の大黒柱が職を失い、妻が働きに出ます。 しかし、自宅にいるAさんは水を出しっぱなしにして、階下に迷惑を掛けます。(団地に住んでおられました) そして、ふらっと出て行っては行方が分からなくなるのです。 [caption id="attachment_2186" align="aligncenter" width="650"] 筑波大学都市研究より引用(本文の団地ではありません)[/caption]   このような状況では妻はおちおち働きにも出れません。 担当医は、当時としてはまだ数が多くないデイケアセンターにAさんが行けるよう手配してくれました。 ところがそのデイケアで便を壁に塗り付けてしまったため、まだまだ認知症の人への介護経験のないスタッフたちは、 Aさんのデイケアを断ってしまいます。 入院させたらという声もありましたが、とても入院費を払える状況でもなかったのです。 結局妻が取った行動は、あらゆる出口を全て外から鍵を掛け、電気水道ガスも全て元栓を閉めて、 要するにAさんを家に閉じ込めて仕事に出たのでした。 今ではそれを虐待と定義します。 しかし誰も助けてくれない状況では、そうするしか方法がなかったのです。 そしてさらにつらい思いをしたのが中学生の息子でした。 彼が最初に家に帰ってくるのですが、一歩家の中に入ると、 閉じ込められた混乱状況の中で暴れまわったAさんによって、家の中はぐちゃぐちゃになっています。 Aさんからすると誰も助けのない混乱と不安と恐怖の中に一日いることになります。 下半身裸になってAさんは、毎日のように壁に便を塗りつけていたのです。 その父の姿を横目で見ながら、壁に塗られた便をふき取るのが、中学生の息子の帰宅後の仕事だったのです。 (つづく) センター長の石川でした
ブログ投稿画像 センター長の石川です 12月5日の土曜日、若年性認知症の方の集いが若江岩田にある花園生活支援センターでありました。 今回は4名の当事者の方とその家族、ケアマネジャーなどのケア担当者も参加、 また見学参加で5地域の包括支援センターのスタッフも来られてました。 集いでは、家族組と、当事者組に分かれ、近況報告などを行います。 私は当事者の方のグループに。 若いスタッフさんが知らない流れていた歌を、一緒に歌えるのは私が同年齢であるからというところでしょうか。 それぞれの人なりに悩みはあるものの、明るい表情の皆さんで、 サポートしているワーカーさんやケアマネジャーさんとの信頼関係も深いようでした。 [caption id="attachment_2175" align="aligncenter" width="650"] 大人の都合で、団らん風景の写真はありません。[/caption] ただ、集いの後の家族グループからの報告会では、かなり大変な状況の訴えもあったとのことです。 集いでは笑顔の当事者も、家へ帰ると介護者との軋轢が発生するのは当然かもしれません。 当事者を支えるのはサービスの活用など、専門職が何らかの形でサポートしていきます。 しかし家族の心身の疲労に対してのサポートをもっと重要視していく必要があります。 ショートやデイを利用している間、家族は休めてるではないかと考えるのは、私たち側の思い込みかもしれません。 もっと深い心の疲労感を、受け止める人がいないと言えるかもしれません。 認知症の人のケアだけでも心にダメージを受ける家族の方は多くおられます。 若年性の方を支えるとなった時の精神的ダメージはなおさらと言えるでしょう。 当事者の支援と介護家族の支援は両輪と言うのは皆様もわかってもらえると思うのですが、 家族への支援はまだまだ弱いと言えるでしょう。 [caption id="attachment_2174" align="aligncenter" width="650"] 乗鞍岳からの紅葉[/caption] さて、12月16日には当事者の方々が市役所でのお弁当発注、配達を頑張ってくれます。 市長さんや議員さんにも届けてくれるそうです。 もちろん、私もお手伝いに行かせてもらいます。 市内にはまだ多くの若年性認知症の方がおられると思います。 それもそれぞれ違った状況の中で。若年性認知症の方だけでなく、やるべきことは多々ありますね。 コロナ禍ではありますが、認知症の人のつらさは自粛できないのですから。
ブログ投稿画像 「偏見と衝撃」 今でこそ若年性認知症は社会的理解がある程度深まったと思うのですが、 この当時、認知症は高齢者が罹るもの、まだ若いのに認知症?? などと怪訝な目で見られた時代でした。 まして仕事上のミスの頻発は、病気ではなくて、当の本人に問題があると厳しく問われていたのです。 つまりAさんは躊躇なく会社を辞めさせられたのです。 それは家族にとっても衝撃な出来事でした。 家族構成は妻と、遅くに生まれた長男。確かまだ中学生になったばかりだったかと。 つい最近までキャッチボールで楽しんだであろう父親が、家族からすれば信じられないような行動をする父親になってしまったのですから。 繰り返し書きますが、当時は「認知症(痴呆症)」への一般市民の理解は皆無な時代です。 Aさんの行動は、多くの人たちに蔑まれるのです。 世間の偏見、それをAさんの家族は、信じられない状況の中で、じっと耐えなければならなかったのです。 会社を辞めさせられたAさんは、そのことも理解できず、駅に向かい電車に乗ろうとしました。 結果は行方不明となり、やはりどうしていいかわからずに立ちすくむところを通報されていました。 そしてAさん家族を襲った最大の危機は、経済的苦境でした。 働き盛りのAさんが職を失い、収入がゼロになってしまったのです。 後々書こうと思いますが、福岡市の越智さん夫婦も同様でした。 (つづく) センター長石川
ブログ投稿画像 若年性認知症の方との初めての出会い(2) 【駅に立ちすくむ】 センター長の石川です。 約35年前のことですが、若年性認知症の方との初めての出会いは、結構覚えているものです。 そして35年経っても、もしかしたら状況はあまり変わっていないのではないかとも思うのです。 過去に再び戻ります。 Aさんの最初の異変は駅でした。 改札を出てから、「え?家はどっちだ?」 と、帰る方向がわからなくなり、しばらく呆然と立ちすくんでいたのです。 不審に思った駅員が声を掛けたのです。   ここで押さえておいて欲しいことは、 今でこそ認知症の人のことを理解する人は増えてきて、 また若年性認知症があることも認識され始めてきている状況と言えます。 しかし、35年前は全く違う状況だったのです。 [caption id="attachment_2160" align="aligncenter" width="650"] とてもきれいな空でした[/caption] 「認知症」は「痴呆症」と言われ、痴呆性老人という、 まるで既に人間ではない扱い(あえて、扱いという言葉を使います)を受け、 社会的には「問題老人」としてのレッテルを貼られていたのです。 まして若年性認知症の方への風当たりは酷いものでした。 Aさんの家族は、家族で抱える、隠すしかないところまで追い込まれるのです。 [caption id="attachment_2159" align="aligncenter" width="650"] 昨夜はビーバームーンでした。[/caption] 改札を出て、「あれ、どっちだっけ…」と立ちすくむときの、 Aさんの不安、恐怖、心細さは、筆舌しがたいものだったでしょう。     今、私たちは簡単に「徘徊」という言葉を使っています。(この「徘徊」は徐々に使われなくなってはきていますが) しかし、家に帰る道がわからなくなった時の本人の切ないほどの心細さを、 どこまで理解しているかというと、やはり起こった事象にしか目が行ってないのかもしれません。   50代初頭、会社でもミスが多くなったAさんは、退職へと追い込まれていったのです。 (つづく)