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2021.02.20

必見!最新情報
あれから一年 センター長の石川です。 昨年の2月20日は、藤川幸之助氏の講演会があった日です。 未知のコロナウイルスの恐怖に怯え、世間が大騒ぎになり始めた時でした。 藤川幸之助氏講演会「支える側が支えられるとき」 講演会自体実施の有無が問われるほどの、ぎりぎりの状況での開催でした。 消毒、そして参加者は全員マスク。 今なら当たり前の景色も、当時はみんながマスクをしているのが異様に思えた時期でした。 まだおおらかな日でした そして心に残る藤川先生の講演は、 これからもあの日を境に… と、印象に残る講演会となりました。 思えば、たくさんの人が集まって心が和む話を聞けるのは、 今日時点において、この日が最後となりました。 和やかな雰囲気もこの日以降途絶えています 翌21日から、行事と言う行事は一斉に禁止。 そして面会もできない、鎖国状態と施設はなったのです。 まさかこんな状況が一年も続くとは、この時は誰も思わなかったでしょう。 それどころか、この時よりもはるかに感染者を多く出す第3波に襲われたのですから。 丸々一年間、面会できていないご家族の方も多くおられます。 本当に切ない、もどかしい日々だと思います。 職員も、つらく、長く、耐えることと、感染の恐怖に不安になる日々 「でした」と書きたいところですが、まだまだその日々は続きます。 ベランダ面会。話は携帯電話で行いました。 ワクチンも恐らくはかなり遅れるのではないでしょうか。 少なくても、あと半年、試練の日々が続くかもしれません。 今は耐え抜いていきましょう! トンネルの先の光は見えてきました。 まだ遠くにですが、でも着実にその光は大きくなっていきます。
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2021.02.05

必見!最新情報
問題発言高齢者を認知症だと言わないで センター長の石川です 世の中一部の権力を持つ高齢者の発言、行動で、若い世代から「老害」と言う言葉を盛んに聞きます。 確かに先日のフォレスト氏の発言や一階の上の人の行動や発言を聞いていると 全くもって酷いもので、多くの普通の高齢者まで迷惑してしまいます。 つまり、老人になると、「老害」しかないと思われ、 それが認知症と繋がってしまうのです。 SNSでのコメントでは、フォレスト氏は「痴呆だ」(認知症とも言わず) 「痴呆老人はさっさと、引退しろ!」みたいな言葉が次々と出てきます。 やはり、認知症の人を蔑視、軽蔑する風潮は世間に染みこんでいるのでしょうか。 特に若い世代に、このままでは老人イコール自分たちを害する人たちと思われてしまうでしょう。 つまり、しょうもないことでの世間の大騒ぎですが、 高齢者理解、認知症の人への理解と言う意味では、捨てておけないことなのです。 多くの高齢者は若い人達に知識をつたえる知恵者であり、学びの師なのです。 例えば入居者一人一人は若い世代にとって学びの師なのです。 認知症があったとしてもその人から学ぶことがものすごくあるのです。 ところが一部の権威的立場にある高齢者の行動や発言は、それらの思いを吹き飛ばしてしまいます。 そして、「老害」は「認知症」と結びつき、軽蔑だけが助長されてしまいます。 若い世代は高齢者を「ヨーダ」と思い、学ぶ姿勢を。 年取った世代は自分を「ヨーダ」と思い、出しゃばらず若い世代を見守り導くことを。 でも老いも若きもそんなことはどうでもいいよーだ…
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2021.02.04

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若年性認知症の方との関り(13)【なぜ若年性認知症になってしまったのか】 Bさんは40代後半で認知症を発症しました。 何故この若さで認知症を発症することになったのか。 その原因理由についてはかなり解明されてきました。(これについては長くなるのでまた別項で) しかし、若年性認知症発症の理由は、残念ながらまだまだ不明な点が多いのです。 B女医さんが発病された当時、今からもう30年近く前のことですが、 認知症になる原因理由は当然まだ不明なことが殆どでした。 当時、認知症の方を診断していた専門医(この先生には大変お世話になりました。いろいろ勉強もさせてもらいました)は、 Bさんの診察に際し、家族にBさんが認知症の人を診察していた経緯がないか、ということを聞かれていました。 先生は診察が終わると、必ず丁寧に手洗いを行い、イソジンでうがいをされていました。 今なら当たり前の光景かもしれませんが、当時は随分神経質だなと私は思っていました。 Bさんが何故認知症を発症したのか? もしかしたらウイルスによるものかもしれない。 そんな可能性もぬぐい切れない当時の状況だったからです。 認知症ウイルス説は今となっては問題外のことですが、 医者が若年性認知症になってしまったということは、ウイルス説を含めた脅威だったわけです。 残念ながら、これだけ科学が進んでも、若年性認知症の人が減ることはありません。 確実的に発症している病気でもあるのです。 他人事ではないのです。 センター長の石川でした。 (つづく) 最近話題にのぼる「ウレタンマスク」。 ウレタンマスクをしている人を攻撃する人も現れて「なんとか警察」の再登場です。 本当に困ったものです。 ただ、ウレタンマスクへの正しい理解は必要だと思うので、下記リンク先の記事を読んでもらえればと思います。 要は、マスクをしっかりと付け、密集を防ぎ、換気をガンガン行う。これに尽きるのかなと。 ただ、介護施設で働く者は、公私の時間ともに、ウレタンマスクの使用は避けた方がよいでしょう。 https://toyokeizai.net/articles/-/409607
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2021.01.20

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人は変われるか?ケアワークにおいて① センター長の石川です 人は変われるのか? その確信を持ったラグビー選手の話を前回書きました。 しかし、本当に人は変われるか?と言われると、かなり難しいことかもしれません。 一人ひとり違うということは、それぞれに個性があり、 その個性があるからこそ、この世の中は成り立っていると言えます。 もちろん、人は変われるかは、個性まで変えろと言ってるわけではありません。 ここでは、ケア職員としての在り方を問うと言うことになります。 つまり前回書いたラグビー選手が、自分の天性にかまけて努力もせず、チームワークも関係なく試合に出ていたのが、 人が変わったかのように練習に励み、チームワークに貢献したラグビー選手になったように、 ケアの世界で働くものとして、ケアワークに対しての心構えと言うか、在り方が変わっていけるのか? ということがテーマになります。 おそらくは、半日講座ぐらい開けるかなというぐらいのボリュームになりそうですが、 少しずつ小出しに書いていきます。 今日の生駒山です そもそも人には(と言うか生命体には)「生きていくためにあらゆる手段を使う」という本能が備わっています。 憎きコロナウイルスにしてもそうです。 ウイルスの変異が今私たちにとって脅威になっていますが、ウイルスにとっては生きていくがゆえの変異なのでしょう。 話が随分それてしまいました。 つまり人にも生きるための「自己防衛機能」が備わっているのです。 この自己防衛機能があるがゆえに、人の心構えが変わると言うのは至難の業になってきます。 例えば、何か失敗したときに上司から責められた時の「言い訳」はまさしく自己防衛機能が働いている姿だと言えます。 「仕方なかった、わからなかった、どうしようもなかった」などの言葉を並べて、 自分は悪くないと、自分の心のダメージや立場を悪くすることを防ぐための必死の行動と言えます。 昨夕、野口さんに手を振りました。 ニュアンスは異なりますが、私たちが認知症の人に押してしまう「作話」と言うレッテル。 はたから見れば、在りもしない、出来もしないことを必死になって話す姿は、 私たちにとって困った行動として「作話あり」と判断しますが、 しかしその行動は、認知症の人にとって、自分は大丈夫、しっかりしている、問題ないと、 必死に「認知症」という病魔に対抗し、生きていこうとする自己防衛反応の姿ともいえるのです。 では、ケアスタッフはどうすればその心構えが変わっていくのか? ひとつの方法として、この「自己防衛機能」を逆に活用すると言うものがあります。 ちょっと先まで、to be continued
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2021.01.18

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若年性認知症の方との集いと1月17日 1月16日(土)1月定例の若年性認知症の方との集い(楽カフェ)が開催されました。 今回は、ご家族様のグループに参加させてもらいました。 詳細は書けませんが、本当に苦労されている様子、 その中でも色々考えながらケアをされていること等 熱い思いが伝わってくるものでした。 デイサービスの利用などはあるものの、ほぼフルタイムでケアをして行かなければならないのが家族です。 その家族へのサポートを、もっと深めていかなければならないと思うのです。 さて、そのように本人、家族にとって大切な集いの時間ではあるので、開催はされるべきだとは思うのですが、 大阪は「緊急事態宣言」が出ているのです。 それは「人の動きを止める」ことが大切なのですが、宣言が出てもお構いなくという感じがします。 行政からして地域活動は止めるな!ですから、では何のための「緊急事態宣言」なのかと思ってしまいます。 単に飲食関係が、感染率が高いからと、まるで悪者にしているような感じですね。 震災メモリアル 昨日は1月17日 あれからもう26年も経過したのですね。 現地での救援活動は、今も深く脳裏に焼き付いて忘れられないものになっています。 というか、心の傷として残るくらいの衝撃だったかもしれません。 当時の救援活動を私は約3万7千字の文章として書き残していますが、そのうちのごく一部だけを転載します。 まずは初動の所から。正式救援隊の一員としてはこの時からですが、震災後すぐに先輩の安否確認のために現地には入っていました。ほぼ序章のようなところです。 JR神戸駅の時計 地震から10日後、大阪の老人福祉関係者の被災地支援策もようやくまとまり始め、被災地に対する援助が徐々に動きだした。阪神間の市街地には老人ホ-ムの数は少なく(当時)、大きな被害を受けている所は少なかった。殆どが北区や西区などの外周部にあり、建物自体には問題は少なかったが、市中心部からの緊急避難の高齢者が各施設に押し寄せ、どの施設も定員を遥かにオ-バ-した状態にあった。 そのため、まずそれらの施設に対する職員の応援派遣が実施された。大阪の各施設から選抜されたケア職員達が三田経由でそれらの施設に向かった。各施設ともライフラインは維持されており、派遣職員が寝食に困るということはなかったが、これらの施設とは対照的に、ライフラインが全く破壊されたうえに、目前に大きな被害を見つめることになった特別養護老人ホ-ムが二か所あった。芦屋市の「あしや聖徳園」と、長田区の「長田ケアホ-ム」だった。 「あしや聖徳園」は21歳の若いケア職員を失っている。山好きの女性で、休みの日にはいつも山に行っていたという。彼女の住む文化住宅は一階が崩壊、仲間達が懸命に瓦礫を掘り起こしたが、彼女の恋人が瓦礫の隙間から手を延ばし触れた彼女の手はすでに冷たくなっていた。彼は、嗚咽し泣き崩れたという。 阪神大震災は、数多くの恋人達の愛をも引き裂いていた…。(ケア職員の犠牲者も出た) 「長田ケアホ-ム」は施設の目の前までが火災で何もかもなくなってしまった。前一面が焼け野原となってしまったのだ。目前の火災の中で、多くの人達が生きながら焼かれてしまったのだ。 最初に救援に入った東灘区摂津本山付近 写真原本が不明のため、PCのワード画像より転写しているため、画像は見ずらいです. 次は実際の救援活動の一コマです。今も強く印象に残っているシーンです。 野寄公園にある自衛隊のテントの間に挟まれるように3~4人用の小さなテントが建っている。その小さなテントに寝たきりの母親を抱える息子夫婦が暮らしていた。3~4人用のテントといっても、ゆったりと寝ようと思えば2人までである。テントの中は非常に狭い空間なのだ。そのテントの外には辛うじて持ち出したと思われる洗面道具やバケツが置かれていた。 避難所の担当医師は、この老人の一般状態があまり良くないので入院の手配を進め、明日には入院出来るようになったと話してくれた。現在は点滴で何とか持ち堪えている状態だという。 しかし、寝たきりの彼女は私たちの前で、「家族と共に居たいから入院はしたくない。そのように、医者に伝えておいて欲しい。」と応えた。家族もその本人の意思を尊重した。 状態が悪化しつつある寝たきり老人が、劣悪な環境の続くテントでの生活を選んだ。 家を失い、生活を失い、全てのものを失った彼女にとって、家族は唯一失われずにそばに居てほしいものだった。ここで入院して離ればなれになって、家族までも失いたくなかったのだ。例え自分の命を縮めようとも、もうこれ以上、大切なものを失いたくはなかったのだ。 私たちは、そのテントをみつめることだけしかできなかった…。 その後、この家族がどうなったか、私は全く知らない。しかし、極限の中での人間の「絆」というものの強さを深く感じずにはいられなかった。 なす術なく立ちすくんでそのテントを見つめるだけの私達…。家族の「絆」を前にして、誰が「入院が最高の選択。」と云えるだろうか。 担当医師に本人と家族の意向を伝えると、その医師も何も云わなかった。いや、何も云えなかったのだ、きっと…。 厳しい寒さの中、その方はテントでの生活を選ばれた。人生最後の選択だったかもしれない。   センター長の石川でした。
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2021.01.12

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天理大学ラグビー部のレジリエンス センター長の石川です 関西に住む昔からの、そして根っからのラグビーファンとして 36年ぶりの関西勢の優勝はめっちゃ嬉しかったですね。 関西では抜きんでて強くなった天理大学ですが、 高校を卒業した有名選手はみんな東京の大学に行き、 関東の大学は切磋琢磨した試合を経験しています。 しかし天理大学はそのような経験のない中での闘いでした。 何よりも、無名の戦士たちの集まりなのです。 天理大学様HPよりお借りしました   4トライを挙げた市川敬太 英田中学の卒業生です。 高校は日進高校。ラグビー部は点を一杯取られるだけの無名校です。 目の前に花園ラグビー場がありながら、縁遠い場所だったのです。 市川選手は英田出身の選手だったのですね。 天理大学様HPよりお借りしました。松岡主将と市川選手(12番) まるで高校生の選手宣誓かと言うような松岡主将 彼も全くのラグビー無名校からの出身です。 フィフタのような大きな選手もいますが、 多くの選手が必ずしも秀でた才能を持って入学してきたわけではないのです。 そのラグビー部を襲ったコロナウイルス。 ラグビー部員だけでなく、天理市そのものが天地をひっくり返したような大騒ぎとなり、 誹謗中傷はラグビー部員のみならず、天理大学生にまで及びました。 練習もろくにできない、そんな中からの出発 まさしく天理大学ラグビー部のレジリエンス(逆境力)だったのです。 あの時誹謗中傷した人々は、今、どんな思いなのでしょうか。 弱さに負けて人を中傷する人と、逆境の中で耐えて進む人と、さて…   足の激痛を、大声をあげて堪えた松岡主将 「あの元気さこそが、この時代に必要なリーダーだ」と解説者。 まさしくこの時代を映し出した、天理大学ラグビー部の優勝だったのかもしれません。 天理市の皆さん、おめでとう! 天理市のマスコットです。名前は、忘れました!   *余談ですが、天理大学にはでかい外国人選手がいてずるいという声があります。 今やラグビーの世界でも国際化は進んでいます。日本代表は強くなったと言っても諸外国はもっと大きく強いのです。 大学の頃から大きな相手にどう戦っていくかという経験は大切になります。 また、でかい選手がいるだけでは勝てません。周りの無名の選手たちが頑張ってこそですね。 市川のトライもフィフタとの阿吽の呼吸から生まれたものと言えます。 介護の世界も同じだと思います。 天理大学様より拝借しました
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2020.12.29

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誇るべきプロジェクトメンバー センター長の石川です 今年は本当にとんでもない一年でしたね。 でも、皆様よく耐えられたと思います。 地域の皆様はじめ、多くの方々、本当に我慢と不安の一年でしたね。 ただ、年が変わっても、この冬の間はまだまだ我慢と不安の日が残念ながら続くと思います。 でも、来年は「レジリエンスresilience(逆境力、回復力、復元力などの意味)」の年です。 春を待ち、じっと地中で耐える虫や根っこのように、今少し耐えていきましょう。 今を耐えることが、ウイルス最前線(命の現場だけでなく、生活を支える多くの方々)で働く方々への応援になるのです。 今年はあまり写真を撮りにいけませんでしたが、この写真は今年を表す、お気に入りの写真となりました。 最後に、手前味噌になりますが、島之内のメンバーに感謝の言葉を。 めっちゃ大変な一年でした。 毎日が心身ともにしんどいと思います。 でも皆さんは、一介の介護職員、一介の相談員、看護職員、洗濯、清掃員、給食員ではないのです。 ただのケア職員の一員ではないのです。 皆さんはショートステイ含めて75名の方の、 人生のラストにケアが必要になった方を支えていく プロジェクトメンバーなのです。 それも年齢層を越えた国際チームの一人なのです。 このプロジェクトメンバーがいなければ、75名の方は悲惨な人生のラストを送ることになったかもしれません。 そうではないエンディングに向けて働いている皆さん。 認知症の方も皆さんを頼りにしているのです。 そんなプロジェクトメンバーの皆さんのことを私は誇りに思いますし、 誇りを持てる仕事として、自信を持ってもらえればと思います。 もちろん、在宅分野のプロジェクトメンバーの皆さんにも感謝です。 皆様の存在があってこそ、このコロナウイルスの苦境を地域の人は乗り越えていけるのです。 「ありがとうございます」の一言に尽きますね。     でも、愚痴をこぼしたいこともあるでしょう。 悩むこともあるでしょう。 聴くことしかできませんが、しんどくなったら 遠慮なく私を使ってください。 そして最後の最後に、そのプロジェクトメンバーの皆さんを引張っていく施設長。 本当にしんどい日々がまだまだ続きますが、施設長あってのプロジェクトメンバーです。 一番気苦労多い折れそうな細い体をみんなで支えていきましょう! それでは、今年のブログはこれにて終了です。 皆様、良い年をお迎えください。 来年は、レジリエンスです!
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 昨年の2月20日は、藤川幸之助氏の講演会があった日です。 未知のコロナウイルスの恐怖に怯え、世間が大騒ぎになり始めた時でした。 [caption id="attachment_2386" align="aligncenter" width="650"] 藤川幸之助氏講演会「支える側が支えられるとき」[/caption] 講演会自体実施の有無が問われるほどの、ぎりぎりの状況での開催でした。 消毒、そして参加者は全員マスク。 今なら当たり前の景色も、当時はみんながマスクをしているのが異様に思えた時期でした。 [caption id="attachment_2384" align="aligncenter" width="650"] まだおおらかな日でした[/caption] そして心に残る藤川先生の講演は、 これからもあの日を境に… と、印象に残る講演会となりました。 思えば、たくさんの人が集まって心が和む話を聞けるのは、 今日時点において、この日が最後となりました。 [caption id="attachment_2387" align="aligncenter" width="650"] 和やかな雰囲気もこの日以降途絶えています[/caption] 翌21日から、行事と言う行事は一斉に禁止。 そして面会もできない、鎖国状態と施設はなったのです。 まさかこんな状況が一年も続くとは、この時は誰も思わなかったでしょう。 それどころか、この時よりもはるかに感染者を多く出す第3波に襲われたのですから。 丸々一年間、面会できていないご家族の方も多くおられます。 本当に切ない、もどかしい日々だと思います。 職員も、つらく、長く、耐えることと、感染の恐怖に不安になる日々 「でした」と書きたいところですが、まだまだその日々は続きます。 [caption id="attachment_1584" align="aligncenter" width="297"] ベランダ面会。話は携帯電話で行いました。[/caption] ワクチンも恐らくはかなり遅れるのではないでしょうか。 少なくても、あと半年、試練の日々が続くかもしれません。 今は耐え抜いていきましょう! トンネルの先の光は見えてきました。 まだ遠くにですが、でも着実にその光は大きくなっていきます。
ブログ投稿画像 センター長の石川です 世の中一部の権力を持つ高齢者の発言、行動で、若い世代から「老害」と言う言葉を盛んに聞きます。 確かに先日のフォレスト氏の発言や一階の上の人の行動や発言を聞いていると 全くもって酷いもので、多くの普通の高齢者まで迷惑してしまいます。 つまり、老人になると、「老害」しかないと思われ、 それが認知症と繋がってしまうのです。 SNSでのコメントでは、フォレスト氏は「痴呆だ」(認知症とも言わず) 「痴呆老人はさっさと、引退しろ!」みたいな言葉が次々と出てきます。 やはり、認知症の人を蔑視、軽蔑する風潮は世間に染みこんでいるのでしょうか。 特に若い世代に、このままでは老人イコール自分たちを害する人たちと思われてしまうでしょう。 つまり、しょうもないことでの世間の大騒ぎですが、 高齢者理解、認知症の人への理解と言う意味では、捨てておけないことなのです。 多くの高齢者は若い人達に知識をつたえる知恵者であり、学びの師なのです。 例えば入居者一人一人は若い世代にとって学びの師なのです。 認知症があったとしてもその人から学ぶことがものすごくあるのです。 ところが一部の権威的立場にある高齢者の行動や発言は、それらの思いを吹き飛ばしてしまいます。 そして、「老害」は「認知症」と結びつき、軽蔑だけが助長されてしまいます。 若い世代は高齢者を「ヨーダ」と思い、学ぶ姿勢を。 年取った世代は自分を「ヨーダ」と思い、出しゃばらず若い世代を見守り導くことを。 でも老いも若きもそんなことはどうでもいいよーだ…
ブログ投稿画像 Bさんは40代後半で認知症を発症しました。 何故この若さで認知症を発症することになったのか。 その原因理由についてはかなり解明されてきました。(これについては長くなるのでまた別項で) しかし、若年性認知症発症の理由は、残念ながらまだまだ不明な点が多いのです。 B女医さんが発病された当時、今からもう30年近く前のことですが、 認知症になる原因理由は当然まだ不明なことが殆どでした。 当時、認知症の方を診断していた専門医(この先生には大変お世話になりました。いろいろ勉強もさせてもらいました)は、 Bさんの診察に際し、家族にBさんが認知症の人を診察していた経緯がないか、ということを聞かれていました。 先生は診察が終わると、必ず丁寧に手洗いを行い、イソジンでうがいをされていました。 今なら当たり前の光景かもしれませんが、当時は随分神経質だなと私は思っていました。 Bさんが何故認知症を発症したのか? もしかしたらウイルスによるものかもしれない。 そんな可能性もぬぐい切れない当時の状況だったからです。 認知症ウイルス説は今となっては問題外のことですが、 医者が若年性認知症になってしまったということは、ウイルス説を含めた脅威だったわけです。 残念ながら、これだけ科学が進んでも、若年性認知症の人が減ることはありません。 確実的に発症している病気でもあるのです。 他人事ではないのです。 センター長の石川でした。 (つづく) 最近話題にのぼる「ウレタンマスク」。 ウレタンマスクをしている人を攻撃する人も現れて「なんとか警察」の再登場です。 本当に困ったものです。 ただ、ウレタンマスクへの正しい理解は必要だと思うので、下記リンク先の記事を読んでもらえればと思います。 要は、マスクをしっかりと付け、密集を防ぎ、換気をガンガン行う。これに尽きるのかなと。 ただ、介護施設で働く者は、公私の時間ともに、ウレタンマスクの使用は避けた方がよいでしょう。 https://toyokeizai.net/articles/-/409607
ブログ投稿画像 センター長の石川です 人は変われるのか? その確信を持ったラグビー選手の話を前回書きました。 しかし、本当に人は変われるか?と言われると、かなり難しいことかもしれません。 一人ひとり違うということは、それぞれに個性があり、 その個性があるからこそ、この世の中は成り立っていると言えます。 もちろん、人は変われるかは、個性まで変えろと言ってるわけではありません。 ここでは、ケア職員としての在り方を問うと言うことになります。 つまり前回書いたラグビー選手が、自分の天性にかまけて努力もせず、チームワークも関係なく試合に出ていたのが、 人が変わったかのように練習に励み、チームワークに貢献したラグビー選手になったように、 ケアの世界で働くものとして、ケアワークに対しての心構えと言うか、在り方が変わっていけるのか? ということがテーマになります。 おそらくは、半日講座ぐらい開けるかなというぐらいのボリュームになりそうですが、 少しずつ小出しに書いていきます。 [caption id="attachment_2318" align="aligncenter" width="650"] 今日の生駒山です[/caption] そもそも人には(と言うか生命体には)「生きていくためにあらゆる手段を使う」という本能が備わっています。 憎きコロナウイルスにしてもそうです。 ウイルスの変異が今私たちにとって脅威になっていますが、ウイルスにとっては生きていくがゆえの変異なのでしょう。 話が随分それてしまいました。 つまり人にも生きるための「自己防衛機能」が備わっているのです。 この自己防衛機能があるがゆえに、人の心構えが変わると言うのは至難の業になってきます。 例えば、何か失敗したときに上司から責められた時の「言い訳」はまさしく自己防衛機能が働いている姿だと言えます。 「仕方なかった、わからなかった、どうしようもなかった」などの言葉を並べて、 自分は悪くないと、自分の心のダメージや立場を悪くすることを防ぐための必死の行動と言えます。 [caption id="attachment_2317" align="aligncenter" width="650"] 昨夕、野口さんに手を振りました。[/caption] ニュアンスは異なりますが、私たちが認知症の人に押してしまう「作話」と言うレッテル。 はたから見れば、在りもしない、出来もしないことを必死になって話す姿は、 私たちにとって困った行動として「作話あり」と判断しますが、 しかしその行動は、認知症の人にとって、自分は大丈夫、しっかりしている、問題ないと、 必死に「認知症」という病魔に対抗し、生きていこうとする自己防衛反応の姿ともいえるのです。 では、ケアスタッフはどうすればその心構えが変わっていくのか? ひとつの方法として、この「自己防衛機能」を逆に活用すると言うものがあります。 ちょっと先まで、to be continued
ブログ投稿画像 1月16日(土)1月定例の若年性認知症の方との集い(楽カフェ)が開催されました。 今回は、ご家族様のグループに参加させてもらいました。 詳細は書けませんが、本当に苦労されている様子、 その中でも色々考えながらケアをされていること等 熱い思いが伝わってくるものでした。 デイサービスの利用などはあるものの、ほぼフルタイムでケアをして行かなければならないのが家族です。 その家族へのサポートを、もっと深めていかなければならないと思うのです。 さて、そのように本人、家族にとって大切な集いの時間ではあるので、開催はされるべきだとは思うのですが、 大阪は「緊急事態宣言」が出ているのです。 それは「人の動きを止める」ことが大切なのですが、宣言が出てもお構いなくという感じがします。 行政からして地域活動は止めるな!ですから、では何のための「緊急事態宣言」なのかと思ってしまいます。 単に飲食関係が、感染率が高いからと、まるで悪者にしているような感じですね。 [caption id="attachment_2310" align="aligncenter" width="650"] 震災メモリアル[/caption] 昨日は1月17日 あれからもう26年も経過したのですね。 現地での救援活動は、今も深く脳裏に焼き付いて忘れられないものになっています。 というか、心の傷として残るくらいの衝撃だったかもしれません。 当時の救援活動を私は約3万7千字の文章として書き残していますが、そのうちのごく一部だけを転載します。 まずは初動の所から。正式救援隊の一員としてはこの時からですが、震災後すぐに先輩の安否確認のために現地には入っていました。ほぼ序章のようなところです。 [caption id="attachment_2309" align="aligncenter" width="650"] JR神戸駅の時計[/caption] 地震から10日後、大阪の老人福祉関係者の被災地支援策もようやくまとまり始め、被災地に対する援助が徐々に動きだした。阪神間の市街地には老人ホ-ムの数は少なく(当時)、大きな被害を受けている所は少なかった。殆どが北区や西区などの外周部にあり、建物自体には問題は少なかったが、市中心部からの緊急避難の高齢者が各施設に押し寄せ、どの施設も定員を遥かにオ-バ-した状態にあった。 そのため、まずそれらの施設に対する職員の応援派遣が実施された。大阪の各施設から選抜されたケア職員達が三田経由でそれらの施設に向かった。各施設ともライフラインは維持されており、派遣職員が寝食に困るということはなかったが、これらの施設とは対照的に、ライフラインが全く破壊されたうえに、目前に大きな被害を見つめることになった特別養護老人ホ-ムが二か所あった。芦屋市の「あしや聖徳園」と、長田区の「長田ケアホ-ム」だった。 「あしや聖徳園」は21歳の若いケア職員を失っている。山好きの女性で、休みの日にはいつも山に行っていたという。彼女の住む文化住宅は一階が崩壊、仲間達が懸命に瓦礫を掘り起こしたが、彼女の恋人が瓦礫の隙間から手を延ばし触れた彼女の手はすでに冷たくなっていた。彼は、嗚咽し泣き崩れたという。 阪神大震災は、数多くの恋人達の愛をも引き裂いていた…。(ケア職員の犠牲者も出た) 「長田ケアホ-ム」は施設の目の前までが火災で何もかもなくなってしまった。前一面が焼け野原となってしまったのだ。目前の火災の中で、多くの人達が生きながら焼かれてしまったのだ。 最初に救援に入った東灘区摂津本山付近 写真原本が不明のため、PCのワード画像より転写しているため、画像は見ずらいです. 次は実際の救援活動の一コマです。今も強く印象に残っているシーンです。 野寄公園にある自衛隊のテントの間に挟まれるように3~4人用の小さなテントが建っている。その小さなテントに寝たきりの母親を抱える息子夫婦が暮らしていた。3~4人用のテントといっても、ゆったりと寝ようと思えば2人までである。テントの中は非常に狭い空間なのだ。そのテントの外には辛うじて持ち出したと思われる洗面道具やバケツが置かれていた。 避難所の担当医師は、この老人の一般状態があまり良くないので入院の手配を進め、明日には入院出来るようになったと話してくれた。現在は点滴で何とか持ち堪えている状態だという。 しかし、寝たきりの彼女は私たちの前で、「家族と共に居たいから入院はしたくない。そのように、医者に伝えておいて欲しい。」と応えた。家族もその本人の意思を尊重した。 状態が悪化しつつある寝たきり老人が、劣悪な環境の続くテントでの生活を選んだ。 家を失い、生活を失い、全てのものを失った彼女にとって、家族は唯一失われずにそばに居てほしいものだった。ここで入院して離ればなれになって、家族までも失いたくなかったのだ。例え自分の命を縮めようとも、もうこれ以上、大切なものを失いたくはなかったのだ。 私たちは、そのテントをみつめることだけしかできなかった…。 その後、この家族がどうなったか、私は全く知らない。しかし、極限の中での人間の「絆」というものの強さを深く感じずにはいられなかった。 なす術なく立ちすくんでそのテントを見つめるだけの私達…。家族の「絆」を前にして、誰が「入院が最高の選択。」と云えるだろうか。 担当医師に本人と家族の意向を伝えると、その医師も何も云わなかった。いや、何も云えなかったのだ、きっと…。 [caption id="attachment_2312" align="aligncenter" width="650"] 厳しい寒さの中、その方はテントでの生活を選ばれた。人生最後の選択だったかもしれない。[/caption]   センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 センター長の石川です 関西に住む昔からの、そして根っからのラグビーファンとして 36年ぶりの関西勢の優勝はめっちゃ嬉しかったですね。 関西では抜きんでて強くなった天理大学ですが、 高校を卒業した有名選手はみんな東京の大学に行き、 関東の大学は切磋琢磨した試合を経験しています。 しかし天理大学はそのような経験のない中での闘いでした。 何よりも、無名の戦士たちの集まりなのです。 [caption id="attachment_2293" align="aligncenter" width="650"] 天理大学様HPよりお借りしました[/caption]   4トライを挙げた市川敬太 英田中学の卒業生です。 高校は日進高校。ラグビー部は点を一杯取られるだけの無名校です。 目の前に花園ラグビー場がありながら、縁遠い場所だったのです。 市川選手は英田出身の選手だったのですね。 [caption id="attachment_2294" align="aligncenter" width="650"] 天理大学様HPよりお借りしました。松岡主将と市川選手(12番)[/caption] まるで高校生の選手宣誓かと言うような松岡主将 彼も全くのラグビー無名校からの出身です。 フィフタのような大きな選手もいますが、 多くの選手が必ずしも秀でた才能を持って入学してきたわけではないのです。 そのラグビー部を襲ったコロナウイルス。 ラグビー部員だけでなく、天理市そのものが天地をひっくり返したような大騒ぎとなり、 誹謗中傷はラグビー部員のみならず、天理大学生にまで及びました。 練習もろくにできない、そんな中からの出発 まさしく天理大学ラグビー部のレジリエンス(逆境力)だったのです。 あの時誹謗中傷した人々は、今、どんな思いなのでしょうか。 弱さに負けて人を中傷する人と、逆境の中で耐えて進む人と、さて…   足の激痛を、大声をあげて堪えた松岡主将 「あの元気さこそが、この時代に必要なリーダーだ」と解説者。 まさしくこの時代を映し出した、天理大学ラグビー部の優勝だったのかもしれません。 天理市の皆さん、おめでとう! [caption id="attachment_2087" align="aligncenter" width="240"] 天理市のマスコットです。名前は、忘れました![/caption]   *余談ですが、天理大学にはでかい外国人選手がいてずるいという声があります。 今やラグビーの世界でも国際化は進んでいます。日本代表は強くなったと言っても諸外国はもっと大きく強いのです。 大学の頃から大きな相手にどう戦っていくかという経験は大切になります。 また、でかい選手がいるだけでは勝てません。周りの無名の選手たちが頑張ってこそですね。 市川のトライもフィフタとの阿吽の呼吸から生まれたものと言えます。 介護の世界も同じだと思います。 [caption id="attachment_2296" align="aligncenter" width="650"] 天理大学様より拝借しました[/caption]
ブログ投稿画像 センター長の石川です 今年は本当にとんでもない一年でしたね。 でも、皆様よく耐えられたと思います。 地域の皆様はじめ、多くの方々、本当に我慢と不安の一年でしたね。 ただ、年が変わっても、この冬の間はまだまだ我慢と不安の日が残念ながら続くと思います。 でも、来年は「レジリエンスresilience(逆境力、回復力、復元力などの意味)」の年です。 春を待ち、じっと地中で耐える虫や根っこのように、今少し耐えていきましょう。 今を耐えることが、ウイルス最前線(命の現場だけでなく、生活を支える多くの方々)で働く方々への応援になるのです。 [caption id="attachment_1601" align="aligncenter" width="650"] 今年はあまり写真を撮りにいけませんでしたが、この写真は今年を表す、お気に入りの写真となりました。[/caption] 最後に、手前味噌になりますが、島之内のメンバーに感謝の言葉を。 めっちゃ大変な一年でした。 毎日が心身ともにしんどいと思います。 でも皆さんは、一介の介護職員、一介の相談員、看護職員、洗濯、清掃員、給食員ではないのです。 ただのケア職員の一員ではないのです。 皆さんはショートステイ含めて75名の方の、 人生のラストにケアが必要になった方を支えていく プロジェクトメンバーなのです。 それも年齢層を越えた国際チームの一人なのです。 このプロジェクトメンバーがいなければ、75名の方は悲惨な人生のラストを送ることになったかもしれません。 そうではないエンディングに向けて働いている皆さん。 認知症の方も皆さんを頼りにしているのです。 そんなプロジェクトメンバーの皆さんのことを私は誇りに思いますし、 誇りを持てる仕事として、自信を持ってもらえればと思います。 もちろん、在宅分野のプロジェクトメンバーの皆さんにも感謝です。 皆様の存在があってこそ、このコロナウイルスの苦境を地域の人は乗り越えていけるのです。 「ありがとうございます」の一言に尽きますね。     でも、愚痴をこぼしたいこともあるでしょう。 悩むこともあるでしょう。 聴くことしかできませんが、しんどくなったら 遠慮なく私を使ってください。 そして最後の最後に、そのプロジェクトメンバーの皆さんを引張っていく施設長。 本当にしんどい日々がまだまだ続きますが、施設長あってのプロジェクトメンバーです。 一番気苦労多い折れそうな細い体をみんなで支えていきましょう! それでは、今年のブログはこれにて終了です。 皆様、良い年をお迎えください。 来年は、レジリエンスです!