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「心の荷物預かり所」で記事を検索しました。

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2023.01.16

心の荷物預かり所
明日は誰にも保障されていない センター長の石川です。 先日は竹内まりやの「人生の扉」という歌を紹介しました。 竹内まりやには、もう一つ私たちの仕事に関わるであろう「いのちの歌」があります。 この歌はまた後日紹介します。 今日はケツメイシの唄を。 私もそれなりの歳になり、 いつのまにか自分より年下の友人、知人の訃報に接することが多くなりました。 子どものころから親しんだ有名人も次から次へと亡くなり、 誰が生きているのか死んでいるのかわからない始末です。 年齢の近い人の死亡記事では、その原因をつい読んでしまいます。 死を身近に感じるようになったということでしょうか。 私がこの仕事に入って間もないころ、昨日話をしていた人が亡くなって泣いたことがあります。 その人に限らず何回かは泣いたことがあるかな。 私が当時働いていた施設では、生活相談員は葬儀関係を取り仕切っていました。(多くの人は施設で葬儀を出したのです) 一応葬儀社は入ってくれますが、毎回斎場まで行き、お骨を拾うところまで行いました。 葬儀社が忙しい時は私が葬儀社の代わりとなって斎場の手続き (書類と心付けを渡す。心付けを渡すという風習はその後禁止されました)を行うなんてこともありました。 全く身寄りのない人のお通夜は寂しく、遅くまで祭壇のそばにいたこともあります。 生活保護の方は葬儀社も入れず、祭壇を組み立てもしました。 そうやって見送ってきた人は、多分100人を超えると思います。 でもそれを繰り返しているうちに、ひとつひとつの命の重さを感じる思いが希薄になり、 儀式が形式的になっていったとも言えます。 やはりお見送りは寂しくあってはならないと思うのです。 (黒澤明監督の「夢」では、お祭りのようなお葬式でした) でもさすがにこの歳になり、友人、知人を失うと、やはり身近なものとして感じてしまいます。 そして私はそれを温かく見送ることができるのだろうか? 私ならどう思うのか? もし明日は我が身と思うと、 私の心は広くも許容力もないので、耳を塞ぎ目を閉じるかも知れません。 ケツメイシのミュージックビデオは今見ると衝撃的ですね。 2016年制作ですから、まさかという感じです。 明日は、若い人にも保障されているものではないのです。 ダチョウ倶楽部の映像は、ちょっと哀しくなるけど、ケツメイシの「友よ~この先もずっと」です https://www.youtube.com/watch?v=IV7usfiEbms  
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2023.01.13

心の荷物預かり所
人生の扉 先日小学校3年生のキッズサポーター講座に行ってきました。 3年生は2クラスだけでしたが、本当に元気な子どもたち。 意表を突く質問もあったりして、子どもたちに話をするときは 私たちは即応できるようにしないとなりません。 同時にいい勉強になりますね。 さてそんな10歳の子どもたちも いつかは50歳になり、60歳になり70歳になっていきます。 みんなそれぞれにどんな人生をたどるのでしょうか。 彼らがその年齢になるころには認知症はなくなっているのかな? さて、歳を取ることはどうしてもネガティブに考えてしまうことが多いですが、 竹内まりやの「人生の扉」は、 歳を取ることに対してのリスペクトが感じられる名曲です。 ケアの仕事も、この歌の歌詞のように、 人生を(年齢を)リスペクトしたケアを心掛けていくことが必要でしょう。 歳を曲がりなりにも取った私には心に軽快に響く歌ですね。 歌詞付き↓ https://www.youtube.com/watch?v=GWgMb-9dzis I say its fine to be 60 60歳になるのは素晴らしい You say its alright to be 70 70歳になるのも悪くない And they say still good to be 80 80歳でもまだまだ大丈夫 But I`ll maybe live over 90 でも私は90歳以上生きる   竹内まりや本人の歌声↓ https://www.youtube.com/watch?v=K5IeHponvZ0
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2023.01.09

心の荷物預かり所
見かたを変えれば こうだとしか思えていなかったものが 全く違った捉え方ができる でもなかなか自分の中の固定化された景色は変えられないのですが ちょっと見かたを変えて見る時間を持てば 或は試してみれば 違う思考が広がって、「なるほど!」という世界が広がるかもしれません。 先日の恩蔵先生のドキュメントを見ても感じました。 認知症の母から出てくる「私はバカだから」とか「早く死んだほうがいいね」という言葉に、 娘の恩蔵先生は落胆するのですが、 しかし捉え方を変えると、 何かがわからなかったりできなかったりした時に発するその言葉は 実は自分の状況がわかっているからこそ出てきた言葉ではないかと。 認知機能を働かせるうえでの生活上の動作は難しくなっても、 感情はしっかりと生きていて、自分のことも周囲のこともわかっているのではないかと。 つい表面上だけで捉えてしまう私たちですが、見かたを変えると、 「認知症の人」から、「ひとりの人」としての感情が見えてくるのではないでしょうか。 数年前の西武・そごうの広告で有名になったこの言葉 以前もブログでアップしたかもしれませんが、再掲します。 上から読むのと、下から読むのでは 違った世界がそこに広がります。 上から読んだ後、下の行から上の行へ読んでいってください。      大逆転は、起こりうる。  わたしは、その言葉を信じない。  どうせ奇跡なんて起こらない。  それでも人々は無責任に言うだろう。  小さな者でも大きな相手に立ち向かえ。  誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え。  今こそ自分を貫くときだ。  しかし、そんな考え方は馬鹿げている。  勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。  わたしはただ、為す術もなく押し込まれる。  土俵際、もはや絶体絶命。   さて、お堀の水に映る松本城 どちらが実際の写真でしょうか?
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2022.12.14

心の荷物預かり所
感情に響く風景(その2) ~心がある場所~ 心に響くとか、心に伝わるとかという言葉があります。 私もよく使いますが、それでは、その心って、脳のどこにあるのかな? っていう疑問は愚問ですかね? 脳科学的に証明されれば、「認知症の人は心を失ったわけではない。むしろ快活に感じている」と、 情緒的ではなく、明確に言えるのですが、 私はまだ勉強不足。今度脳科学者の恩蔵絢子先生に会ったときに聞いてみることにします。   しかし、「きれいなもの」を見たときに、 私たちが望むような明るい反応が認知症の人になかったとしても、 何も感じられなくなったと思うのは早計かもしれません。 表現できる機能がダメージを受けているから「きれい!」とわかってもそれが表現できない、 若しくは、「きれいなもの」がいわゆる「心」に届きにくくなっているからかもしれません。 でもそれは、届きにくくなっているだけで、届いてないわけではないのです。 それゆえ、「認知症の人は心も失われている」と考えていいものでしょうか。 むしろ、ディスプレイに表出される情報だけに左右されて、 その中で誹謗中傷する人の方が、脳は働いていても、心は消えてしまっていると言えるかもしれません。 ディスプレイに表示された言葉でストレスを感じるようならば、 思い切ってデジタルデトックス(デジタル断ち・ディスプレイから離れる)して、 自然の空気を吸い、花々と会話する方がずっと自分の人生にプラスになります。 認知症の人は、デイスプレイ以外の世界をしっかりと感じておられます。 その心の働きは私たち以上に豊かかもしれません。 以前「心に彩を添える」というブログを書きましたが、 きれいな景色、楽しかった思い出話や写真、暖かな家族との団らんや写真等・・・。 認知症になるとわからなくなるではなく、認知症の人ほど、 ほのぼのとした時間が必要(認知機能より、感情や感性の動きが豊かになるため)なのです。 その感情への関りが逆の状況、つまり不快なかかわりをすると、当然ネガティブな反応になります。 それは認知症の人だけでなく、私たちも同じでしょう。 そして人は対立や憤りや苛立ちを感じてしまい、ケア側ではそれが表出してしまいがちです。 つまり、「心」は周囲の人たちの影響を大きく受ける場所と言えるでしょう。 (つづく)
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 先日は竹内まりやの「人生の扉」という歌を紹介しました。 竹内まりやには、もう一つ私たちの仕事に関わるであろう「いのちの歌」があります。 この歌はまた後日紹介します。 今日はケツメイシの唄を。 私もそれなりの歳になり、 いつのまにか自分より年下の友人、知人の訃報に接することが多くなりました。 子どものころから親しんだ有名人も次から次へと亡くなり、 誰が生きているのか死んでいるのかわからない始末です。 年齢の近い人の死亡記事では、その原因をつい読んでしまいます。 死を身近に感じるようになったということでしょうか。 私がこの仕事に入って間もないころ、昨日話をしていた人が亡くなって泣いたことがあります。 その人に限らず何回かは泣いたことがあるかな。 私が当時働いていた施設では、生活相談員は葬儀関係を取り仕切っていました。(多くの人は施設で葬儀を出したのです) 一応葬儀社は入ってくれますが、毎回斎場まで行き、お骨を拾うところまで行いました。 葬儀社が忙しい時は私が葬儀社の代わりとなって斎場の手続き (書類と心付けを渡す。心付けを渡すという風習はその後禁止されました)を行うなんてこともありました。 全く身寄りのない人のお通夜は寂しく、遅くまで祭壇のそばにいたこともあります。 生活保護の方は葬儀社も入れず、祭壇を組み立てもしました。 そうやって見送ってきた人は、多分100人を超えると思います。 でもそれを繰り返しているうちに、ひとつひとつの命の重さを感じる思いが希薄になり、 儀式が形式的になっていったとも言えます。 やはりお見送りは寂しくあってはならないと思うのです。 (黒澤明監督の「夢」では、お祭りのようなお葬式でした) でもさすがにこの歳になり、友人、知人を失うと、やはり身近なものとして感じてしまいます。 そして私はそれを温かく見送ることができるのだろうか? 私ならどう思うのか? もし明日は我が身と思うと、 私の心は広くも許容力もないので、耳を塞ぎ目を閉じるかも知れません。 ケツメイシのミュージックビデオは今見ると衝撃的ですね。 2016年制作ですから、まさかという感じです。 明日は、若い人にも保障されているものではないのです。 ダチョウ倶楽部の映像は、ちょっと哀しくなるけど、ケツメイシの「友よ~この先もずっと」です https://www.youtube.com/watch?v=IV7usfiEbms  
ブログ投稿画像 先日小学校3年生のキッズサポーター講座に行ってきました。 3年生は2クラスだけでしたが、本当に元気な子どもたち。 意表を突く質問もあったりして、子どもたちに話をするときは 私たちは即応できるようにしないとなりません。 同時にいい勉強になりますね。 さてそんな10歳の子どもたちも いつかは50歳になり、60歳になり70歳になっていきます。 みんなそれぞれにどんな人生をたどるのでしょうか。 彼らがその年齢になるころには認知症はなくなっているのかな? さて、歳を取ることはどうしてもネガティブに考えてしまうことが多いですが、 竹内まりやの「人生の扉」は、 歳を取ることに対してのリスペクトが感じられる名曲です。 ケアの仕事も、この歌の歌詞のように、 人生を(年齢を)リスペクトしたケアを心掛けていくことが必要でしょう。 歳を曲がりなりにも取った私には心に軽快に響く歌ですね。 歌詞付き↓ https://www.youtube.com/watch?v=GWgMb-9dzis I say its fine to be 60 60歳になるのは素晴らしい You say its alright to be 70 70歳になるのも悪くない And they say still good to be 80 80歳でもまだまだ大丈夫 But I`ll maybe live over 90 でも私は90歳以上生きる   竹内まりや本人の歌声↓ https://www.youtube.com/watch?v=K5IeHponvZ0
ブログ投稿画像 こうだとしか思えていなかったものが 全く違った捉え方ができる でもなかなか自分の中の固定化された景色は変えられないのですが ちょっと見かたを変えて見る時間を持てば 或は試してみれば 違う思考が広がって、「なるほど!」という世界が広がるかもしれません。 先日の恩蔵先生のドキュメントを見ても感じました。 認知症の母から出てくる「私はバカだから」とか「早く死んだほうがいいね」という言葉に、 娘の恩蔵先生は落胆するのですが、 しかし捉え方を変えると、 何かがわからなかったりできなかったりした時に発するその言葉は 実は自分の状況がわかっているからこそ出てきた言葉ではないかと。 認知機能を働かせるうえでの生活上の動作は難しくなっても、 感情はしっかりと生きていて、自分のことも周囲のこともわかっているのではないかと。 つい表面上だけで捉えてしまう私たちですが、見かたを変えると、 「認知症の人」から、「ひとりの人」としての感情が見えてくるのではないでしょうか。 数年前の西武・そごうの広告で有名になったこの言葉 以前もブログでアップしたかもしれませんが、再掲します。 上から読むのと、下から読むのでは 違った世界がそこに広がります。 上から読んだ後、下の行から上の行へ読んでいってください。      大逆転は、起こりうる。  わたしは、その言葉を信じない。  どうせ奇跡なんて起こらない。  それでも人々は無責任に言うだろう。  小さな者でも大きな相手に立ち向かえ。  誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え。  今こそ自分を貫くときだ。  しかし、そんな考え方は馬鹿げている。  勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。  わたしはただ、為す術もなく押し込まれる。  土俵際、もはや絶体絶命。   さて、お堀の水に映る松本城 どちらが実際の写真でしょうか?
ブログ投稿画像 心に響くとか、心に伝わるとかという言葉があります。 私もよく使いますが、それでは、その心って、脳のどこにあるのかな? っていう疑問は愚問ですかね? 脳科学的に証明されれば、「認知症の人は心を失ったわけではない。むしろ快活に感じている」と、 情緒的ではなく、明確に言えるのですが、 私はまだ勉強不足。今度脳科学者の恩蔵絢子先生に会ったときに聞いてみることにします。   しかし、「きれいなもの」を見たときに、 私たちが望むような明るい反応が認知症の人になかったとしても、 何も感じられなくなったと思うのは早計かもしれません。 表現できる機能がダメージを受けているから「きれい!」とわかってもそれが表現できない、 若しくは、「きれいなもの」がいわゆる「心」に届きにくくなっているからかもしれません。 でもそれは、届きにくくなっているだけで、届いてないわけではないのです。 それゆえ、「認知症の人は心も失われている」と考えていいものでしょうか。 むしろ、ディスプレイに表出される情報だけに左右されて、 その中で誹謗中傷する人の方が、脳は働いていても、心は消えてしまっていると言えるかもしれません。 ディスプレイに表示された言葉でストレスを感じるようならば、 思い切ってデジタルデトックス(デジタル断ち・ディスプレイから離れる)して、 自然の空気を吸い、花々と会話する方がずっと自分の人生にプラスになります。 認知症の人は、デイスプレイ以外の世界をしっかりと感じておられます。 その心の働きは私たち以上に豊かかもしれません。 以前「心に彩を添える」というブログを書きましたが、 きれいな景色、楽しかった思い出話や写真、暖かな家族との団らんや写真等・・・。 認知症になるとわからなくなるではなく、認知症の人ほど、 ほのぼのとした時間が必要(認知機能より、感情や感性の動きが豊かになるため)なのです。 その感情への関りが逆の状況、つまり不快なかかわりをすると、当然ネガティブな反応になります。 それは認知症の人だけでなく、私たちも同じでしょう。 そして人は対立や憤りや苛立ちを感じてしまい、ケア側ではそれが表出してしまいがちです。 つまり、「心」は周囲の人たちの影響を大きく受ける場所と言えるでしょう。 (つづく)