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「心の荷物預かり所」で記事を検索しました。

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2024.07.12

心の荷物預かり所
介護職員とマインドフルネス 昨日のNHKの番組「トリセツ」で取り上げられた「新・瞑想法」(マインドフルネス)。 見られた方もおられるかもしれませんが、 「わかったような、わからなかったような」そんな感じだったのではないでしょうか。 要は、「わかったような、わからなかったような」ということが「わかった」ことがポイントなのです。 介護職は、身体も動かしますが、感情労働とも言われます。 身体も疲れるけど、それ以上に心が(脳が)疲れてしまうとも言えます。 認知症の人とのケアでは、多分に感情労働が多く、心が(脳が)疲れてしまうことが多いでしょう。 その介護職の精神的安定性を得るもののひとつとして、「マインドフルネス」があります。 瞑想とかいうと、怪しい宗教なのかなと思ってしまいますが、 例えばアップル社のような大企業でも実践されているものなのです。 簡単に言えば、「迷走」している心を「瞑想」を通じて「整える」という感じでしょうか。 「瞑想」だけピックアップすると、座禅でも組むような感じですが、 簡単にできる呼吸法もありますし、 何かに打ち込むことも、それ自体が「瞑想の代わり」を行っていることがあります。 例えば、プチプチを潰すときの行動。 これもある意味、瞑想しているとも言えます。 「マンダラート」に集中して実践することも、ある意味マインドフルネスと言えます。 (「マンダラート」の効能についてはまた別の機会に) 心がネガティブな記憶で一杯になった時、その混乱を落ち着かせて、 整理をし、前へ向いて再び歩ける気持ちになるための行動が、マインドフルネスと言えます。 まぁ私自身は10年以上前から提唱しているのですが、 私自身あまりやってませんので(苦笑)、反省しきりですが、 マインドフルネスの実践で心が落ち着いた人も多くおられます。 「瞑想」=「無」になることではなく、むしろ様々な雑念がある中で、 それをありのままに受け止め、(雑念は悪と思わずに)心の中に散らかった余計な雑念の中で、 嫌な思いという雑念は、「いつまでも持っていても、役に立たない」なと思えば、 さっさと心から掃き出せばいいのです。 まぁこのように書いても、「難しいな」「ようわからん」と思うでしょう。 その「難しいな、ようわからん」という気持ちを持ったなということに気づけば、 「まぁとにかく一度やって見よかな、それからやないと、ほっといたらわからんままやから。」と、 一歩前へ進めるのです。 私の説明よりも、介護職向けのマインドフルネスの本が出ていますので、それらも参照してください。 https://www.chuohoki.co.jp/products/welfare/5572/ マインドフルネスについては、また別の機会に取り上げたいと思います。
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2024.06.10

心の荷物預かり所
~心が揺れる~ 家族会より 認知症の人を介護する家族の会「ほっこりなつどい」が開催されました。 今回は8名の方が参加されました。 娘、息子、夫、妻、嫁という様々な立場の方が参加されました。 個々それぞれの思いを打ち明けられていましたが、 共通していたのは、 「わかってはいても、つい怒ってしまう」と言うことです。 そしてそのあと、怒ってしまった自分を責めているのです。 そりゃそうですよね。 日頃から様々な認知症状に悩まされている介護者からすると、 ついついイラっとしてしまうことは当たり前と言えるでしょう。 そしてイラっとしてしまった自分を責める。 介護者にとっては逃げるに逃げられない状況の上、 毎日のこと。ついつい怒ってしまうことはあるでしょう。 「怒ったらあかんとわかっていても、怒ってしまう。」のです。 介護者の心は揺れまくりです。 また家での介護に限界を生じたときどうするか 家族の大いなる悩みは、「入所を考えるのか」 「入所後後悔しないだろうか」という 入所か否か、さらに入所してもらって、はたして心は落ち着くのだろうか? そんな悩みに心が揺れているという話も何人かから聞かれました。 施設入所させることに対する罪の意識のようなもの そして施設入所しても、そのような意識が続くのではないか… とても大きな家族の決断と悩みと言えるかもしれません。 心の揺れは、どのような決断をしたとしても続くのかもしれません。 ひとつ大事なことは、介護者(家族)が倒れたら、 当事者共々大変な状況になってしまうということです。 介護者にも介護者の人生があります。 自分の時間が欲しいということがいくらでもあると言えるでしょう。 介護者自身の人生も大切にすること。 それが第一でしょう。 しかし、心の揺れはどのような状況であれ、ついて回るかもしれません。 その心の揺れを受け止め、支えることが専門職の役割でもあるのです。
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2024.06.03

心の荷物預かり所
靴の履き間違えから ~「なんでも包括」の背景にあるもの~ 靴を履き間違えてお出掛けしたことはありませんか? 例えば、他人の靴を履いて帰るとか、左右別の靴を履いていくとか… 幸い私はまだそのようなことはありませんが、 いつやってしまうかもしれない出来事なのです。 最近訪問先で、靴を間違えて履いて帰ったという職員の話を聞いて思い出したことがありました。 私が大阪市の地域包括支援センターに在籍していた頃です。 地域のある開業医から電話が入りました。 「患者のAさんが、別の患者さんの靴を履いて帰った、家に行って取り戻してほしい。」 という内容でした。 「なんでも包括」と言われるように、最近は多種多様なことで包括に電話が掛かってきます。 この時も、「なんやねんこのドクター、そんなことで電話してくんな!」と思いました。 頭の中では愚痴と文句が溢れてましたが、 もしかしたら認知症状がある方かもしれないと思い、訪問することにしました。 この街のシンボル「見返りトミー」   Aさんは独り暮らしなのですが、自宅を訪問すると、黒ピカの靴が一杯玄関にありました。 ドクターからエナメルの黒い靴と聞いていたのですが、 どれが病院から履いて帰って来たのかわかりません。 ご本人はとても陽気な女性で、 「そうか、すまんすまん、どれが履いてきた靴かわからんわ。みんな持って行ってええよ。」と言われたのです。 どうやらAさんはきれいな靴を見かけると、 自分の汚れた靴を置いて、きれいな靴を履いて帰ってくるようです。 仕方なく私は、きれいな靴を全部持って開業医のところへ行ったのですが、 「他人が履いた靴なんかもう履けない。」と患者が言っていたので、 もういいよとのドクターからの返事でした。 ムカッと来た私でしたが、本人が置いていった汚れた靴をプラスして、Aさんの家に帰りました。 これがきっかけで、Aさんと関わるようになり、 認知症状が明確に出ていることがわかり、支援が必要なところがいくつもあったため、 介護サービス導入へと繋がっていったのです。 最初は「間違った靴を取り戻してほしい」というドクターからのとんでもない電話でしたが、 結果、独居の認知症高齢者の支援に繋がりました。 「なんでも包括」は困ったものですが、 中にはその背景に支援と繋がるものが隠れているとも言えます。 因みにこの開業医とは、このことがきっかけになり、 その他のケースとも気軽に連携が取れるようになりました。 ある意味Aさんの行動が、色々な人とのつながりを生み出したとも言えます。 Aさんはお散歩好きで、道端で会うこともありました。 「これから、がんこへ(がんこ寿司)食べに行くねん。一緒に行こか?」と言われたことがあります。 陽気なAさんでしたが、その人生のラストシーンは哀しいものでした。
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2024.05.08

心の荷物預かり所
音楽は人と人を繋げられるか 昨夜家に遅めに帰り、つけたテレビの番組。 何故人類は音楽を生み出したのか、途中から見たので、そんな題名だったと思います。 その番組で、認知症の人と音楽についても、脳科学的にその効果について説明されていました。 詳細は映像を見直してからでないと書けませんが、 イギリスの認知症病棟の人々が、ビートルズの歌をみんなで合唱するシーンは圧巻でした。 特に脳の機能がフルパワーになる、 思春期に聞いた音楽は、強力に脳に残るようです。 認知症の人への音楽の効用は、これまで多くの研究で言われていることなので、 今更言うまでもないことなのですが、療法と構えるだけでなく、 日頃から気軽にそして身近に使えるものとして、音楽があるということでしょう。 注意する点は音楽をかける側にあります。 果たしてその音楽が、その方にあっているのかどうか、 そして聞かせてほったらかしにしていないかどうか、 認知症の人ではなく、ケア側の問題が大きいのかなと思います。 音楽が何故人類に生まれたか?  化石として残っているものではないので、その研究はまだ途上だそうですが、 恐らくは、「音楽は人と人を繋げる」ために生まれたのではないかということです。 ですから、認知症の人と音楽を聴く場合、 ともに楽しむということを忘れてはならないでしょう。   もしかしたら、音楽は、世界の人々を結び付けられる力を持ったものだと思うのですが、 残念ながら、銃声や破壊音、そして人が殺されていく悲惨な戦争の前に、 音楽はかき消され、失われてしまっているのかもしれません。
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2024.04.25

心の荷物預かり所
日々楽しむこと(澤井梨丘さん情報含む) 日々楽しむこと それは毎日が貴重な人生の一日だからです。 普段はそんなこと考えて過ごすことはないでしょうけど、 人生の一日一日は、確実にその数を減らしていくのです。 それも冷酷なほどに。 月の出です。   それだけに、大きなイベントだけでなく、ささやかな楽しみでもその日一日に持つことですね。 仕事で疲れたときの、スイッチオフの時間を活かした使い方をしましょう。 認知症の人も、不安な一日よりも、楽しい一日の方が、有意義ある時間になるのです。 ということで、テレビドラマを楽しむのもいいですね。 シンポジウムで会場中の人を虜にした澤井梨丘さんが、 今日から始まる木村拓哉、天海祐希主演の「Believe」に出演(準レギュラー?)しています。 見てくださいね! それにしても、こんな有名人たちと共演する澤井さん 今から思えば、よくも私どものシンポジウムに来てくれたな~って、思ってしまいます。 さて、美味しいものを食べに行くのも、日々楽しむことの一つです。 神戸花隈駅近くの「Sion」さんでは、旧オリエンタルホテルのビーフカレーがいただけます。 なるほど! と、思うめっちゃ美味いカレーです。 オーナーシェフの一枝さんは、元阪神タイガースのヘッドコーチ一枝修平さんのご子息の方です。 気さくにお話しできる方なので、カレーの味を出すまでの苦労話も聞くことができるでしょう。 写真も気軽に撮らせていただきました。 どんなことでもいいので、日々楽しむこと。 皆さんも、ちょっとした楽しみ、大それた楽しみ、持って見ましょう!      
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2024.02.14

心の荷物預かり所
木浪選手の心意気 朝の通勤時は色々なゲストの話をラジオで聞いています。 多様な職種の人の話を聞けるのは、知らない世界の話が一杯聞けて楽しいですね。 ラジオなので想像力をも働かせます。 今朝は、阪神タイガースの木浪選手のインタビューでした。 まぁ野球という、比較的皆さんが知っている世界の話ですが、 おもしろかったのは、8番バッターとしての木浪選手の心意気でした。 8番バッターというのは、野球の世界では、 レギュラー選手でも一番期待されていない打順の選手というイメージがあります。 しかし昨年の阪神タイガースで、最恐の8番バッターとして、 その存在の大きさを示した選手でした。 最強ではなく、最も恐れられる8番バッターとして君臨したのです。 その木浪選手、今年も8番バッターを希望したそうです。 普通なら昨年の活躍から、もっと早い打順も希望できるのにかかわらず。 木浪選手自体も最初は「8番バッターかぁ…」という残念な気持ちは当初あったそうです。 しかし8番バッターが何かと頑張る中で、得点や勝利に繋がっているということが見えてきて、 8番バッターの大切さがわかってきたとのことでした。 今は、「8番バッターのイメージを変えたい。8番バッターの存在感を示したい」と、 進んで希望しているとのこと。 さらに数値目標は?と聞かれたことに対して、 「日々の努力があれば、結果として数字がついてくるので、数値を目標にしているわけではない」とのこと。 まさしくその通りで、数字を気にしすぎると、その数字に縛られ、 毎日をプレッシャーの中で過ごすことになりかねないのです。 「8番バッターのこれまでのイメージを変えたい」 かっこいいですね! 決して3番や4番の選手のような主役ではないけれど、 このような8番バッターがいるからこそ、チームは強くなると、言えます。 誰もが4番バッターになるわけではないし、4番バッターだけで勝てるものではない。 でも誰かが8番バッターを頑張ることで、最強のチームとなる。 ケアの現場も同じかもですね。 リーダーだけが頑張っても強いチームにはなれないのです。  
ブログ投稿画像 昨日のNHKの番組「トリセツ」で取り上げられた「新・瞑想法」(マインドフルネス)。 見られた方もおられるかもしれませんが、 「わかったような、わからなかったような」そんな感じだったのではないでしょうか。 要は、「わかったような、わからなかったような」ということが「わかった」ことがポイントなのです。 介護職は、身体も動かしますが、感情労働とも言われます。 身体も疲れるけど、それ以上に心が(脳が)疲れてしまうとも言えます。 認知症の人とのケアでは、多分に感情労働が多く、心が(脳が)疲れてしまうことが多いでしょう。 その介護職の精神的安定性を得るもののひとつとして、「マインドフルネス」があります。 瞑想とかいうと、怪しい宗教なのかなと思ってしまいますが、 例えばアップル社のような大企業でも実践されているものなのです。 簡単に言えば、「迷走」している心を「瞑想」を通じて「整える」という感じでしょうか。 「瞑想」だけピックアップすると、座禅でも組むような感じですが、 簡単にできる呼吸法もありますし、 何かに打ち込むことも、それ自体が「瞑想の代わり」を行っていることがあります。 例えば、プチプチを潰すときの行動。 これもある意味、瞑想しているとも言えます。 「マンダラート」に集中して実践することも、ある意味マインドフルネスと言えます。 (「マンダラート」の効能についてはまた別の機会に) 心がネガティブな記憶で一杯になった時、その混乱を落ち着かせて、 整理をし、前へ向いて再び歩ける気持ちになるための行動が、マインドフルネスと言えます。 まぁ私自身は10年以上前から提唱しているのですが、 私自身あまりやってませんので(苦笑)、反省しきりですが、 マインドフルネスの実践で心が落ち着いた人も多くおられます。 「瞑想」=「無」になることではなく、むしろ様々な雑念がある中で、 それをありのままに受け止め、(雑念は悪と思わずに)心の中に散らかった余計な雑念の中で、 嫌な思いという雑念は、「いつまでも持っていても、役に立たない」なと思えば、 さっさと心から掃き出せばいいのです。 まぁこのように書いても、「難しいな」「ようわからん」と思うでしょう。 その「難しいな、ようわからん」という気持ちを持ったなということに気づけば、 「まぁとにかく一度やって見よかな、それからやないと、ほっといたらわからんままやから。」と、 一歩前へ進めるのです。 私の説明よりも、介護職向けのマインドフルネスの本が出ていますので、それらも参照してください。 https://www.chuohoki.co.jp/products/welfare/5572/ マインドフルネスについては、また別の機会に取り上げたいと思います。
ブログ投稿画像 認知症の人を介護する家族の会「ほっこりなつどい」が開催されました。 今回は8名の方が参加されました。 娘、息子、夫、妻、嫁という様々な立場の方が参加されました。 個々それぞれの思いを打ち明けられていましたが、 共通していたのは、 「わかってはいても、つい怒ってしまう」と言うことです。 そしてそのあと、怒ってしまった自分を責めているのです。 そりゃそうですよね。 日頃から様々な認知症状に悩まされている介護者からすると、 ついついイラっとしてしまうことは当たり前と言えるでしょう。 そしてイラっとしてしまった自分を責める。 介護者にとっては逃げるに逃げられない状況の上、 毎日のこと。ついつい怒ってしまうことはあるでしょう。 「怒ったらあかんとわかっていても、怒ってしまう。」のです。 介護者の心は揺れまくりです。 また家での介護に限界を生じたときどうするか 家族の大いなる悩みは、「入所を考えるのか」 「入所後後悔しないだろうか」という 入所か否か、さらに入所してもらって、はたして心は落ち着くのだろうか? そんな悩みに心が揺れているという話も何人かから聞かれました。 施設入所させることに対する罪の意識のようなもの そして施設入所しても、そのような意識が続くのではないか… とても大きな家族の決断と悩みと言えるかもしれません。 心の揺れは、どのような決断をしたとしても続くのかもしれません。 ひとつ大事なことは、介護者(家族)が倒れたら、 当事者共々大変な状況になってしまうということです。 介護者にも介護者の人生があります。 自分の時間が欲しいということがいくらでもあると言えるでしょう。 介護者自身の人生も大切にすること。 それが第一でしょう。 しかし、心の揺れはどのような状況であれ、ついて回るかもしれません。 その心の揺れを受け止め、支えることが専門職の役割でもあるのです。
ブログ投稿画像 靴を履き間違えてお出掛けしたことはありませんか? 例えば、他人の靴を履いて帰るとか、左右別の靴を履いていくとか… 幸い私はまだそのようなことはありませんが、 いつやってしまうかもしれない出来事なのです。 最近訪問先で、靴を間違えて履いて帰ったという職員の話を聞いて思い出したことがありました。 私が大阪市の地域包括支援センターに在籍していた頃です。 地域のある開業医から電話が入りました。 「患者のAさんが、別の患者さんの靴を履いて帰った、家に行って取り戻してほしい。」 という内容でした。 「なんでも包括」と言われるように、最近は多種多様なことで包括に電話が掛かってきます。 この時も、「なんやねんこのドクター、そんなことで電話してくんな!」と思いました。 頭の中では愚痴と文句が溢れてましたが、 もしかしたら認知症状がある方かもしれないと思い、訪問することにしました。 [caption id="attachment_5662" align="alignnone" width="1024"] この街のシンボル「見返りトミー」[/caption]   Aさんは独り暮らしなのですが、自宅を訪問すると、黒ピカの靴が一杯玄関にありました。 ドクターからエナメルの黒い靴と聞いていたのですが、 どれが病院から履いて帰って来たのかわかりません。 ご本人はとても陽気な女性で、 「そうか、すまんすまん、どれが履いてきた靴かわからんわ。みんな持って行ってええよ。」と言われたのです。 どうやらAさんはきれいな靴を見かけると、 自分の汚れた靴を置いて、きれいな靴を履いて帰ってくるようです。 仕方なく私は、きれいな靴を全部持って開業医のところへ行ったのですが、 「他人が履いた靴なんかもう履けない。」と患者が言っていたので、 もういいよとのドクターからの返事でした。 ムカッと来た私でしたが、本人が置いていった汚れた靴をプラスして、Aさんの家に帰りました。 これがきっかけで、Aさんと関わるようになり、 認知症状が明確に出ていることがわかり、支援が必要なところがいくつもあったため、 介護サービス導入へと繋がっていったのです。 最初は「間違った靴を取り戻してほしい」というドクターからのとんでもない電話でしたが、 結果、独居の認知症高齢者の支援に繋がりました。 「なんでも包括」は困ったものですが、 中にはその背景に支援と繋がるものが隠れているとも言えます。 因みにこの開業医とは、このことがきっかけになり、 その他のケースとも気軽に連携が取れるようになりました。 ある意味Aさんの行動が、色々な人とのつながりを生み出したとも言えます。 Aさんはお散歩好きで、道端で会うこともありました。 「これから、がんこへ(がんこ寿司)食べに行くねん。一緒に行こか?」と言われたことがあります。 陽気なAさんでしたが、その人生のラストシーンは哀しいものでした。
ブログ投稿画像 昨夜家に遅めに帰り、つけたテレビの番組。 何故人類は音楽を生み出したのか、途中から見たので、そんな題名だったと思います。 その番組で、認知症の人と音楽についても、脳科学的にその効果について説明されていました。 詳細は映像を見直してからでないと書けませんが、 イギリスの認知症病棟の人々が、ビートルズの歌をみんなで合唱するシーンは圧巻でした。 特に脳の機能がフルパワーになる、 思春期に聞いた音楽は、強力に脳に残るようです。 認知症の人への音楽の効用は、これまで多くの研究で言われていることなので、 今更言うまでもないことなのですが、療法と構えるだけでなく、 日頃から気軽にそして身近に使えるものとして、音楽があるということでしょう。 注意する点は音楽をかける側にあります。 果たしてその音楽が、その方にあっているのかどうか、 そして聞かせてほったらかしにしていないかどうか、 認知症の人ではなく、ケア側の問題が大きいのかなと思います。 音楽が何故人類に生まれたか?  化石として残っているものではないので、その研究はまだ途上だそうですが、 恐らくは、「音楽は人と人を繋げる」ために生まれたのではないかということです。 ですから、認知症の人と音楽を聴く場合、 ともに楽しむということを忘れてはならないでしょう。   もしかしたら、音楽は、世界の人々を結び付けられる力を持ったものだと思うのですが、 残念ながら、銃声や破壊音、そして人が殺されていく悲惨な戦争の前に、 音楽はかき消され、失われてしまっているのかもしれません。
ブログ投稿画像 日々楽しむこと それは毎日が貴重な人生の一日だからです。 普段はそんなこと考えて過ごすことはないでしょうけど、 人生の一日一日は、確実にその数を減らしていくのです。 それも冷酷なほどに。 [caption id="attachment_5392" align="alignnone" width="1024"] 月の出です。[/caption]   それだけに、大きなイベントだけでなく、ささやかな楽しみでもその日一日に持つことですね。 仕事で疲れたときの、スイッチオフの時間を活かした使い方をしましょう。 認知症の人も、不安な一日よりも、楽しい一日の方が、有意義ある時間になるのです。 ということで、テレビドラマを楽しむのもいいですね。 シンポジウムで会場中の人を虜にした澤井梨丘さんが、 今日から始まる木村拓哉、天海祐希主演の「Believe」に出演(準レギュラー?)しています。 見てくださいね! それにしても、こんな有名人たちと共演する澤井さん 今から思えば、よくも私どものシンポジウムに来てくれたな~って、思ってしまいます。 さて、美味しいものを食べに行くのも、日々楽しむことの一つです。 神戸花隈駅近くの「Sion」さんでは、旧オリエンタルホテルのビーフカレーがいただけます。 なるほど! と、思うめっちゃ美味いカレーです。 オーナーシェフの一枝さんは、元阪神タイガースのヘッドコーチ一枝修平さんのご子息の方です。 気さくにお話しできる方なので、カレーの味を出すまでの苦労話も聞くことができるでしょう。 写真も気軽に撮らせていただきました。 どんなことでもいいので、日々楽しむこと。 皆さんも、ちょっとした楽しみ、大それた楽しみ、持って見ましょう!      
ブログ投稿画像 朝の通勤時は色々なゲストの話をラジオで聞いています。 多様な職種の人の話を聞けるのは、知らない世界の話が一杯聞けて楽しいですね。 ラジオなので想像力をも働かせます。 今朝は、阪神タイガースの木浪選手のインタビューでした。 まぁ野球という、比較的皆さんが知っている世界の話ですが、 おもしろかったのは、8番バッターとしての木浪選手の心意気でした。 8番バッターというのは、野球の世界では、 レギュラー選手でも一番期待されていない打順の選手というイメージがあります。 しかし昨年の阪神タイガースで、最恐の8番バッターとして、 その存在の大きさを示した選手でした。 最強ではなく、最も恐れられる8番バッターとして君臨したのです。 その木浪選手、今年も8番バッターを希望したそうです。 普通なら昨年の活躍から、もっと早い打順も希望できるのにかかわらず。 木浪選手自体も最初は「8番バッターかぁ…」という残念な気持ちは当初あったそうです。 しかし8番バッターが何かと頑張る中で、得点や勝利に繋がっているということが見えてきて、 8番バッターの大切さがわかってきたとのことでした。 今は、「8番バッターのイメージを変えたい。8番バッターの存在感を示したい」と、 進んで希望しているとのこと。 さらに数値目標は?と聞かれたことに対して、 「日々の努力があれば、結果として数字がついてくるので、数値を目標にしているわけではない」とのこと。 まさしくその通りで、数字を気にしすぎると、その数字に縛られ、 毎日をプレッシャーの中で過ごすことになりかねないのです。 「8番バッターのこれまでのイメージを変えたい」 かっこいいですね! 決して3番や4番の選手のような主役ではないけれど、 このような8番バッターがいるからこそ、チームは強くなると、言えます。 誰もが4番バッターになるわけではないし、4番バッターだけで勝てるものではない。 でも誰かが8番バッターを頑張ることで、最強のチームとなる。 ケアの現場も同じかもですね。 リーダーだけが頑張っても強いチームにはなれないのです。