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「認知症の教室(専門職用)」で記事を検索しました。

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2020.06.02

認知症の教室(専門職用)
オリンピックだってなくなる明日があるのだから(専門職向け) センター長の石川です 今回は少し厳しめの、専門職向け内容です。 昨年のことですが、私は認知症や虐待防止の講義でよく言っていた話があります。 「来年皆さん東京オリンピックが当たり前のように見られると思っているけど、どんなに医療保険や生命保険に入ってたって、東京オリンピックが見られるなんて保障は誰にもどこにもないのです。」と。 別に東京オリンピックが延期(恐らくは中止)されることを予言したわけではありません。 ところがこんな形で今年ほんとうにオリンピックがなくなって、昨年あんなことを言わなければよかったと、ちょっと後悔しております。 要は何を言いたかったかと言うと、 「人の人生、若かろうが高齢であろうが、誰もが明日の命が保障されているわけではないということなのです。つまり、不適切なケアをしたり、人の文句ばっかり言って時間を過ごすこと自体が、その人の人生の大変な無駄使いの時間なんですよということなのです。明日がないかもしれないというのに! それに自分の人生も一生に一回限り。そのたった一回だけの自分の大切な人生を、人を嘲り笑う、他の人から見て残念な人として見られて終わっていいのだろうか。 明日死ぬかもしれないのに!」 と言うことを言いたかったのですね。 人間ですから愚痴や文句も言いたいときは一杯あります。 でもそれだけで人生終わるのはあまりにも自分の価値を下げたまま終わるということです。 自分の価値が下がるのは人のせいと思っている限り、絶対その人の価値は上がりません。 もったいない。 一回しかない人生なのに。 尊鉢厄神釈迦院 自分の人生を大切にするということは、人の人生を大切にするということにも繋がります。 まずは自ら自分の価値を下げるような行動ばかりしないことです。 何故ならば、何度も書きますが、たった一度しかないあなたの人生の明日は、 誰にも保障されていないからです。 あれだけみんなが楽しみにしていたオリンピックだってなくなってしまうのですから。 唯一無二のあなたが(あなたの生きた人生が)「いやな人だったね」の評価で終わるなんて寂しすぎます。 「時間は有限です。人の文句ばかりを言う時間を、建設的なことを考える時間として使いましょう。そうでないと、人生を損します。」 尊鉢厄神釈迦院 人生の時間を無駄に使うケア職員ほど、認知症の人の人生も大切にしないのです。 「自分の人生の価値を下げるだけなら勝手にどうぞです。でも他の人の人生や認知症の人の大切な人生まで侵害しないでほしいのです。」 ケアの「専門職」ならば、その専門職の意味を問うてみてください。 専門職は、人の人生を侵害し、自分の価値を下げるためにあるのだろうか、と。 明日の保障がない、たった一度の人生で。 コロナも人の人生を侵害する人も許さないぞ!
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2020.04.01

認知症の教室(専門職用)
認知症の人とのケア物語② センター長の石川です M保健師が連れてきた二人の認知症の人。 Aさんはコミュニケーションがほとんど取れない方でしたが、穏やかな方でした。しかし生活上の何もかもがケアの必要な方です。 もう一人のBさんは、逆にアグレッシブな方でした。とにかく落ち着かない。 すぐに出て行こうとされるし、止めると大声を出し、そして噛みつかれます。 ここでもう一度、当時の特別養護老人ホームの状況を説明しておくと、デイやショートというサービスは、その制度そのものが、ようやく始まったばかりという状況です。 働くケアワーカーたちは、簡単なヘルパー研修を経たうえで働いていますので、今の介護福祉士のような専門的勉強と試験を受けてはいません。 いわゆるシロウト集団と言っても過言ではありません。 それはまだ駆け出しの私も同じようなものです。 まして認知症(当時は痴呆症)の症状については書かれてあっても、ケアの方法など書かれている書籍はほとんどありませんでした。 ですから全てが手探りです。 そして、施設もロックアウトするなどと言うことはなかったので、出て行こうと思えば、いくらでも出ていけたのです。 そのため、出て行く方(当時は徘徊者と呼んでいました)に対しては、一緒についていくしかなかったのです。 因みに当時の入所者へのケアは下記の写真のようなことが当たり前のように各地の施設で行われていました。 私がいた施設ではさすがにここまでのことはなかったですが、これに近いものはあったでしょう。 何をしているところかわからない人もいるかもしれません。 おむつ交換ですね。それを廊下で平気でやっていたのです。 おむつ交換が廊下で当たり前のように行われていました。中央法規出版「認知症の人の歴史を学びませんか」宮崎和加子著より つまり、認知症の人は特にですが、当時の老人ホームでは、人権や尊厳などなく、とにかく必要最低限のケアを行う状況です。 「めんどうみられている、面倒見たってる」という構図そのものだったのです。 さて、Aさんは私が初めて会った認知症の人ですが、今でも名前を憶えています。 やさしい笑顔を浮かべてくれる人でしたが、とにかく話が通じない。 今でこそ、認知症の人とのコミュニケーションについては色々と勉強もできますが、当時は「なんでわかれへんのや?」「それが認知症ちゃうの?」「じゃあどうして伝えるねん?」「こっちの言うことに従わせるしかないやろ」みたいな問答を職員としていたものです。 今となっては正しいとは言えない対応でしたが、とにかく私たちの誘導のままに動いてもらいました。 私たちが本当に困ったのが、アグレッシブでいつも噛みつかれたBさんへのアプローチでした。 (つづく)
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2020.03.31

認知症の教室(専門職用)
認知症の人とのケア物語① ~40年前~ センター長の石川です これまでの認知症ケアについて、書き綴っていたことがなかったと思い、ぼちぼちではありますが、このブログで書き綴っていこうかなと思います。 私と認知症の人との出会いはかれこれ40年以上も前になるかなと思います。 当時私はM市の特別養護老人ホームに勤務していました。 まだ右も左もわからない時代でしたが、生活相談員(当時は生活指導員と呼んでました)兼介護員(当時は介護福祉士の資格などなく、介護職員のことを寮母と呼んでました。)として、入所の受け入れも行っていました。もちろん当時は介護保険など存在せず、入所は行政による措置入所(「収容依頼書」が送られてくる)という時代です。 そんな時にM市にある保健所のN保健師が、ある人を入所させてほしいと強引に言ってきたのでした。 因みに、この時代は、老人保健施設もグループホームもありません。 サービスとしては、デイサービスもショートステイもようやく始まろうかという時代です。 つまり特別養護老人ホームという入所だけの施設があった時代なのです。 当時の特養は、8~12人部屋というのは当たり前。びっしりと高齢者が値がされていました。中央法規出版「認知症の人の歴史を学びませんか」宮崎和加子著より その時代にあって、私がいた施設はI理事長という全国的にも有名な人がおられる施設でした。 先見性のある人で、私が勤めた時にはデイサービス開設準備室があり、今では当たり前のようにあるデイサービスを、確か日本で2番目に始めた施設でもあるのです。 またショートステイ、ナイトケアなどのサービスも始めた、まさしく現在の高齢者サービスの礎を築いたのがI理事長だと言えます。 そのI理事長にN保健師が直談判してきたのです。 認知症(当時は痴呆性老人と呼んでいました)の人を入所させてほしい!と。 寝たきりになった認知症の人はおられるものの、アクティブな認知症の人を受け入れる特別養護老人ホームは、まだほとんどない時代のことです。 では当時の認知症の人はどこへ行っていたのか? 多くは精神科の病院に入れられ、薬を飲まされ、身体拘束を受け、そして死んでいくか、或いは、家族が丸抱えで家から出さないで介護をしていた時代だったのです。 中央法規出版「認知症の人の歴史を学びませんか」宮崎和加子著より 「あんな薬を飲まされて、縛られてしまうような病院には入れたくない!何とか人間らしく暮らせるようお願いしたい!I理事長の施設ならできるでしょ!」とN保健師は、半ば強引に二人の認知症の人を立て続けに連れてきたのです。 先進的な考えを持つI理事長が断るわけはありません。 当時は「認知症」(痴呆症)の人への知識もケアの方法も全く分からない、いや知らない状態の私たちケアの現場に、突然アクティブな認知症の人がやってきたのです。 (つづく)
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2019.12.27

認知症の教室(専門職用)
認知症予防の確立性 センター長の石川です。 最近特に注目されている認知症予防ですが、 ロンドン大学のクラウディア・クーパー教授によると、 確実に予防できるとわかっているものがあるそうです。 高血圧、肥満、糖尿病などのいわゆる生活習慣病、喫煙や運動不足、社会的孤立など、これらが認知症になる原因の35%と言われています。 つまり、これらのことにならないようにすることで、 認知症にならない確率が35%になるということです。 では残りの65%はというと、 確実に予防になる根拠が示されたものは、まだ、ないということです。 まずは確実な35%を増やすためには、生活習慣病に気を付け、喫煙せず、適度に運動して孤立をなくすということになります。 では残りの65%をどうすればいいのか? それは、来年のお楽しみということで。 さて、先日撮影した太陽の塔イルミナイトの風景です。 この季節、やはりイルミネーションが似合います。 夏が花火なら、冬はイルミネーション そういえば、最近は「家ナリエ」少なくなりましたね。 もう見栄張る君はブームが去ったのかな? ちなみに私の耳は耳鳴りで「ミミナリエ」状態ですが(苦笑)
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2019.09.10

認知症の教室(専門職用)
認知症の人の頭の中はゴミで一杯なのか? センター長の石川です。 チームオレンジの説明会があった時のことです。 ある地域の方より、全国キャラバンメイト連絡協議会が発行した「つなぎのための情報整理・認知症の理解」という冊子の中の「ゴミのたまる認知症」という表現が、いかがなものかという意見がありました。 冊子7ページより 認知症の当事者の方が読み、「私たちの頭の中はゴミだらけなのか」と不快に思ったとのことでした。 最近では、認知症発症の要因として、たんぱく質のごみが脳に溜まって、そのたまったものが神経細胞を死滅させてしまうということがわかっており、諸先生方も講義でもよく使われています。 ある意味一般的に使われだしたとも言えます。それゆえ、この冊子にもごく普通に載っていたのでしょう。 しかし、「ゴミ」は汚いもの、不要なものという認識が私たちにはあります。 いくらたんぱく質のごみと説明されても、「私の頭の中は汚いゴミだらけなのか!?」と思ってしまい、不快な思いをされるのは当然のことだと思います。 特にこの冊子では、ゴミが強調され過ぎているとも言えます。 神経を死滅させる物質が蓄積されるなどの表現の方がいいかもしれません。 いつも何気なく使っている表現が、実はとても相手を傷つけているということあるかもしれませんね。 他人ごとではなく、自戒を込めて。
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2019.08.15

認知症の教室(専門職用)
輪の中にいると見えなくなる・吉田松陰 センター長の石川です。 台風襲来ですね。 自然が起こすこととはいえ、被害がないことを願いたいものですね。 さて、吉田松陰と言っても、今の人たちは知らない人の方が多いかもしれません。 知らなければ、調べてもらえばいいのですが、 要するに江戸時代末期の超有名人です。 松下村塾。吉田松陰が教えた場所。今でいえば大学ですね。(萩市観光協会より) その吉田松陰の言葉は現在に、そしてケアの世界に通じるものがあります。 まずは読んでみてください。 「輪の中にいると見えなくなる」 人が心ないことをしてしまう時、 当人にはそれが「ひどいこと」だとは自覚していないし、 少しも気にしていません。 もしも自分が部外者ならば、 はたから見て「ひどいこと」だってわかるはずです。 ですが人はひとたび輪の中に入ってしまうと、 どんなに賢い人でもその中に埋もれて、 自分のやっていることに、気づかなくなることがあるんです。 ですから、時々自分たちの行いを 客観的に考えてみることが大切です。 「もしかしたら私たちは、どうかしているのかもしれない」と。 超訳吉田松陰「覚悟の生き方」より   いじめはまさしくこのような感じでしょう。 人は複数になると、時に異常なことが正常に思えてしまいます。 残念ながら、人はそのようなダークサイドにはまりやすいのです。 ケアの世界でも同様と言えるでしょう。不適切なケアが不適切なケアと思わないこと。 ケアのことを何も知らない一般市民の方が突然ケアの現場を見たら、とても驚くかもしれません。 私自身も気を付けなけなければならないことですが、 あなたは、輪の中にいて正しいことが見えなくなっているかもしれないのです。 違う視点から見た人の意見はしっかりと聴く。 それは自分自身の人生を大切にすることに繋がります。 時々は、他の人の意見に耳を傾けることもやってみませんか? wikipedia  
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2019.08.09

認知症の教室(専門職用)
私たちはしっかりと見られている センター長の石川です。 昨日はグループホームのケースカンファレンスに行ってきました。 9名の入居者ではありますが、されど9名。スタッフさんたちは熱く話しあってくれます。反省点も踏まえ、一生懸命さが伝わってくる時間でした。 その中で思ったことは、やはり「入居者は私たちのことをしっかりと見ている」ということでしょうか。 デイサービスの方の作品です 認知症の入居者にとって、一人で生きていくのが無理なのは本人たちも感じているでしょう。 つまり私たちケアワーカーがいないと、たちどころに生活そのものが厳しくなってしまうのです。 それだけに認知症の人にとって、ケアワーカーとの関りは死活問題ともいえるのです。 だからこそ関わるケアワーカーがどのような人なのかということを、感覚的に観察し判断していると言えます。 生きていくからには嫌な思いはしたくないという自己防衛反応も働きますから、「いや」と感じたケアワーカーには、「いや」な対応で返すか、逃避するかという行動に繋がります。   普段は私たち側から見て感じて判断することが主体で仕事をしていますが、実は「見られ、観察され、判断されている」のは私たちケアワーカー側であるということを考えてみる必要があるのではないでしょうか。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 今回は本の紹介、その1です。 基本、ケアの専門職向けに書かれたものですが、どなたが読まれてもよいのかなと思います。 私自身は、宗教的なことや、スピリチュアルと名のつくものとは距離を置いている立場なのですが、 この本は、そのような面を取り除いても(気にしなくても)読める、 看取りの時のケア専門職や看取りのそばにいる人へのサポートになる本ではないでしょうか。 [caption id="attachment_1664" align="aligncenter" width="586"] 看取りに向き合うための13の戒め[/caption] この著者の方自身は存じてませんが、以前チャプレンの小西達也様とお話しさせてもらったことがあります。 人間が生きていくうえで付きまとう「苦悩」にどう向き合っていくのか。 少なくともケアの専門職として、多くの学びがありました。 [caption id="attachment_1665" align="aligncenter" width="650"] 書籍の帯説明[/caption] さてこの本の最終章に「二利を回す」と言う言葉があります。 自利、つまり自分の満足がなければ、他利、他の人の満足に繋がらないという意味だそうです。 私たちの世界にも繋がりますね。詳しくは書籍をご覧ください。 (玉置妙憂著 中央法規出版 1600円) 因みにこの本の題名は、私が選びました(笑)
ブログ投稿画像 センター長の石川です 今回は少し厳しめの、専門職向け内容です。 昨年のことですが、私は認知症や虐待防止の講義でよく言っていた話があります。 「来年皆さん東京オリンピックが当たり前のように見られると思っているけど、どんなに医療保険や生命保険に入ってたって、東京オリンピックが見られるなんて保障は誰にもどこにもないのです。」と。 別に東京オリンピックが延期(恐らくは中止)されることを予言したわけではありません。 ところがこんな形で今年ほんとうにオリンピックがなくなって、昨年あんなことを言わなければよかったと、ちょっと後悔しております。 要は何を言いたかったかと言うと、 「人の人生、若かろうが高齢であろうが、誰もが明日の命が保障されているわけではないということなのです。つまり、不適切なケアをしたり、人の文句ばっかり言って時間を過ごすこと自体が、その人の人生の大変な無駄使いの時間なんですよということなのです。明日がないかもしれないというのに! それに自分の人生も一生に一回限り。そのたった一回だけの自分の大切な人生を、人を嘲り笑う、他の人から見て残念な人として見られて終わっていいのだろうか。 明日死ぬかもしれないのに!」 と言うことを言いたかったのですね。 人間ですから愚痴や文句も言いたいときは一杯あります。 でもそれだけで人生終わるのはあまりにも自分の価値を下げたまま終わるということです。 自分の価値が下がるのは人のせいと思っている限り、絶対その人の価値は上がりません。 もったいない。 一回しかない人生なのに。 [caption id="attachment_1601" align="aligncenter" width="650"] 尊鉢厄神釈迦院[/caption] 自分の人生を大切にするということは、人の人生を大切にするということにも繋がります。 まずは自ら自分の価値を下げるような行動ばかりしないことです。 何故ならば、何度も書きますが、たった一度しかないあなたの人生の明日は、 誰にも保障されていないからです。 あれだけみんなが楽しみにしていたオリンピックだってなくなってしまうのですから。 唯一無二のあなたが(あなたの生きた人生が)「いやな人だったね」の評価で終わるなんて寂しすぎます。 「時間は有限です。人の文句ばかりを言う時間を、建設的なことを考える時間として使いましょう。そうでないと、人生を損します。」 [caption id="attachment_1603" align="aligncenter" width="650"] 尊鉢厄神釈迦院[/caption] 人生の時間を無駄に使うケア職員ほど、認知症の人の人生も大切にしないのです。 「自分の人生の価値を下げるだけなら勝手にどうぞです。でも他の人の人生や認知症の人の大切な人生まで侵害しないでほしいのです。」 ケアの「専門職」ならば、その専門職の意味を問うてみてください。 専門職は、人の人生を侵害し、自分の価値を下げるためにあるのだろうか、と。 明日の保障がない、たった一度の人生で。 [caption id="attachment_1301" align="aligncenter" width="650"] コロナも人の人生を侵害する人も許さないぞ![/caption]
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 毎回コロナ情報をお伝えしたりしていますが、今回は認知症の人のお話。 私が時々研修で使う3分ほどの短いビデオがあります。 その短い時間の中に、今目の前に見えている認知症の人の行動の大変さに囚われるのではなく、 その人にも一生懸命生きてきた人生があるということ、 その一生懸命生きてきた人生に敬意を示すこと。 つまり、それが認知症ケアの基本的姿勢になること。 この短い映像の中に描かれています。 ご覧ください 👇 https://www.youtube.com/watch?v=tIudBRsTOw8&t=11s   と、なんとこのビデオ、種明かしすると「銀のさら」のCMなんですよね~ この「銀のさら」のCMは他にもたくさんあります。それは上記のようなまじめなものと言うより、笑えるCMがほとんどです。 この場ではその笑えるCMは不謹慎と思われても困るので載せませんが、 お家で楽しまれる分にはいいのではないでしょうか。 笑うことは大切です。難しく考えすぎず、笑いましょう。(人を馬鹿にした笑いはダメですよ!) 笑いは免疫力を高める薬にもなります。 [caption id="attachment_1445" align="aligncenter" width="650"] ソーシャルディスタンス守りましょう![/caption]
ブログ投稿画像 センター長の石川です M保健師が連れてきた二人の認知症の人。 Aさんはコミュニケーションがほとんど取れない方でしたが、穏やかな方でした。しかし生活上の何もかもがケアの必要な方です。 もう一人のBさんは、逆にアグレッシブな方でした。とにかく落ち着かない。 すぐに出て行こうとされるし、止めると大声を出し、そして噛みつかれます。 ここでもう一度、当時の特別養護老人ホームの状況を説明しておくと、デイやショートというサービスは、その制度そのものが、ようやく始まったばかりという状況です。 働くケアワーカーたちは、簡単なヘルパー研修を経たうえで働いていますので、今の介護福祉士のような専門的勉強と試験を受けてはいません。 いわゆるシロウト集団と言っても過言ではありません。 それはまだ駆け出しの私も同じようなものです。 まして認知症(当時は痴呆症)の症状については書かれてあっても、ケアの方法など書かれている書籍はほとんどありませんでした。 ですから全てが手探りです。 そして、施設もロックアウトするなどと言うことはなかったので、出て行こうと思えば、いくらでも出ていけたのです。 そのため、出て行く方(当時は徘徊者と呼んでいました)に対しては、一緒についていくしかなかったのです。 因みに当時の入所者へのケアは下記の写真のようなことが当たり前のように各地の施設で行われていました。 私がいた施設ではさすがにここまでのことはなかったですが、これに近いものはあったでしょう。 何をしているところかわからない人もいるかもしれません。 おむつ交換ですね。それを廊下で平気でやっていたのです。 [caption id="attachment_1402" align="aligncenter" width="650"] おむつ交換が廊下で当たり前のように行われていました。中央法規出版「認知症の人の歴史を学びませんか」宮崎和加子著より[/caption] つまり、認知症の人は特にですが、当時の老人ホームでは、人権や尊厳などなく、とにかく必要最低限のケアを行う状況です。 「めんどうみられている、面倒見たってる」という構図そのものだったのです。 さて、Aさんは私が初めて会った認知症の人ですが、今でも名前を憶えています。 やさしい笑顔を浮かべてくれる人でしたが、とにかく話が通じない。 今でこそ、認知症の人とのコミュニケーションについては色々と勉強もできますが、当時は「なんでわかれへんのや?」「それが認知症ちゃうの?」「じゃあどうして伝えるねん?」「こっちの言うことに従わせるしかないやろ」みたいな問答を職員としていたものです。 今となっては正しいとは言えない対応でしたが、とにかく私たちの誘導のままに動いてもらいました。 私たちが本当に困ったのが、アグレッシブでいつも噛みつかれたBさんへのアプローチでした。 (つづく)
ブログ投稿画像 センター長の石川です これまでの認知症ケアについて、書き綴っていたことがなかったと思い、ぼちぼちではありますが、このブログで書き綴っていこうかなと思います。 私と認知症の人との出会いはかれこれ40年以上も前になるかなと思います。 当時私はM市の特別養護老人ホームに勤務していました。 まだ右も左もわからない時代でしたが、生活相談員(当時は生活指導員と呼んでました)兼介護員(当時は介護福祉士の資格などなく、介護職員のことを寮母と呼んでました。)として、入所の受け入れも行っていました。もちろん当時は介護保険など存在せず、入所は行政による措置入所(「収容依頼書」が送られてくる)という時代です。 そんな時にM市にある保健所のN保健師が、ある人を入所させてほしいと強引に言ってきたのでした。 因みに、この時代は、老人保健施設もグループホームもありません。 サービスとしては、デイサービスもショートステイもようやく始まろうかという時代です。 つまり特別養護老人ホームという入所だけの施設があった時代なのです。 [caption id="attachment_1395" align="aligncenter" width="650"] 当時の特養は、8~12人部屋というのは当たり前。びっしりと高齢者が値がされていました。中央法規出版「認知症の人の歴史を学びませんか」宮崎和加子著より[/caption] その時代にあって、私がいた施設はI理事長という全国的にも有名な人がおられる施設でした。 先見性のある人で、私が勤めた時にはデイサービス開設準備室があり、今では当たり前のようにあるデイサービスを、確か日本で2番目に始めた施設でもあるのです。 またショートステイ、ナイトケアなどのサービスも始めた、まさしく現在の高齢者サービスの礎を築いたのがI理事長だと言えます。 そのI理事長にN保健師が直談判してきたのです。 認知症(当時は痴呆性老人と呼んでいました)の人を入所させてほしい!と。 寝たきりになった認知症の人はおられるものの、アクティブな認知症の人を受け入れる特別養護老人ホームは、まだほとんどない時代のことです。 では当時の認知症の人はどこへ行っていたのか? 多くは精神科の病院に入れられ、薬を飲まされ、身体拘束を受け、そして死んでいくか、或いは、家族が丸抱えで家から出さないで介護をしていた時代だったのです。 [caption id="attachment_1396" align="aligncenter" width="650"] 中央法規出版「認知症の人の歴史を学びませんか」宮崎和加子著より[/caption] 「あんな薬を飲まされて、縛られてしまうような病院には入れたくない!何とか人間らしく暮らせるようお願いしたい!I理事長の施設ならできるでしょ!」とN保健師は、半ば強引に二人の認知症の人を立て続けに連れてきたのです。 先進的な考えを持つI理事長が断るわけはありません。 当時は「認知症」(痴呆症)の人への知識もケアの方法も全く分からない、いや知らない状態の私たちケアの現場に、突然アクティブな認知症の人がやってきたのです。 (つづく)
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 最近特に注目されている認知症予防ですが、 ロンドン大学のクラウディア・クーパー教授によると、 確実に予防できるとわかっているものがあるそうです。 高血圧、肥満、糖尿病などのいわゆる生活習慣病、喫煙や運動不足、社会的孤立など、これらが認知症になる原因の35%と言われています。 つまり、これらのことにならないようにすることで、 認知症にならない確率が35%になるということです。 では残りの65%はというと、 確実に予防になる根拠が示されたものは、まだ、ないということです。 まずは確実な35%を増やすためには、生活習慣病に気を付け、喫煙せず、適度に運動して孤立をなくすということになります。 では残りの65%をどうすればいいのか? それは、来年のお楽しみということで。 さて、先日撮影した太陽の塔イルミナイトの風景です。 この季節、やはりイルミネーションが似合います。 夏が花火なら、冬はイルミネーション そういえば、最近は「家ナリエ」少なくなりましたね。 もう見栄張る君はブームが去ったのかな? ちなみに私の耳は耳鳴りで「ミミナリエ」状態ですが(苦笑)
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 チームオレンジの説明会があった時のことです。 ある地域の方より、全国キャラバンメイト連絡協議会が発行した「つなぎのための情報整理・認知症の理解」という冊子の中の「ゴミのたまる認知症」という表現が、いかがなものかという意見がありました。 [caption id="attachment_991" align="aligncenter" width="650"] 冊子7ページより[/caption] 認知症の当事者の方が読み、「私たちの頭の中はゴミだらけなのか」と不快に思ったとのことでした。 最近では、認知症発症の要因として、たんぱく質のごみが脳に溜まって、そのたまったものが神経細胞を死滅させてしまうということがわかっており、諸先生方も講義でもよく使われています。 ある意味一般的に使われだしたとも言えます。それゆえ、この冊子にもごく普通に載っていたのでしょう。 しかし、「ゴミ」は汚いもの、不要なものという認識が私たちにはあります。 いくらたんぱく質のごみと説明されても、「私の頭の中は汚いゴミだらけなのか!?」と思ってしまい、不快な思いをされるのは当然のことだと思います。 特にこの冊子では、ゴミが強調され過ぎているとも言えます。 神経を死滅させる物質が蓄積されるなどの表現の方がいいかもしれません。 いつも何気なく使っている表現が、実はとても相手を傷つけているということあるかもしれませんね。 他人ごとではなく、自戒を込めて。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 台風襲来ですね。 自然が起こすこととはいえ、被害がないことを願いたいものですね。 さて、吉田松陰と言っても、今の人たちは知らない人の方が多いかもしれません。 知らなければ、調べてもらえばいいのですが、 要するに江戸時代末期の超有名人です。 [caption id="attachment_945" align="aligncenter" width="500"] 松下村塾。吉田松陰が教えた場所。今でいえば大学ですね。(萩市観光協会より)[/caption] その吉田松陰の言葉は現在に、そしてケアの世界に通じるものがあります。 まずは読んでみてください。 「輪の中にいると見えなくなる」 人が心ないことをしてしまう時、 当人にはそれが「ひどいこと」だとは自覚していないし、 少しも気にしていません。 もしも自分が部外者ならば、 はたから見て「ひどいこと」だってわかるはずです。 ですが人はひとたび輪の中に入ってしまうと、 どんなに賢い人でもその中に埋もれて、 自分のやっていることに、気づかなくなることがあるんです。 ですから、時々自分たちの行いを 客観的に考えてみることが大切です。 「もしかしたら私たちは、どうかしているのかもしれない」と。 超訳吉田松陰「覚悟の生き方」より   いじめはまさしくこのような感じでしょう。 人は複数になると、時に異常なことが正常に思えてしまいます。 残念ながら、人はそのようなダークサイドにはまりやすいのです。 ケアの世界でも同様と言えるでしょう。不適切なケアが不適切なケアと思わないこと。 ケアのことを何も知らない一般市民の方が突然ケアの現場を見たら、とても驚くかもしれません。 私自身も気を付けなけなければならないことですが、 あなたは、輪の中にいて正しいことが見えなくなっているかもしれないのです。 違う視点から見た人の意見はしっかりと聴く。 それは自分自身の人生を大切にすることに繋がります。 時々は、他の人の意見に耳を傾けることもやってみませんか? [caption id="attachment_943" align="aligncenter" width="650"] wikipedia[/caption]  
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 昨日はグループホームのケースカンファレンスに行ってきました。 9名の入居者ではありますが、されど9名。スタッフさんたちは熱く話しあってくれます。反省点も踏まえ、一生懸命さが伝わってくる時間でした。 その中で思ったことは、やはり「入居者は私たちのことをしっかりと見ている」ということでしょうか。 [caption id="attachment_925" align="aligncenter" width="650"] デイサービスの方の作品です[/caption] 認知症の入居者にとって、一人で生きていくのが無理なのは本人たちも感じているでしょう。 つまり私たちケアワーカーがいないと、たちどころに生活そのものが厳しくなってしまうのです。 それだけに認知症の人にとって、ケアワーカーとの関りは死活問題ともいえるのです。 だからこそ関わるケアワーカーがどのような人なのかということを、感覚的に観察し判断していると言えます。 生きていくからには嫌な思いはしたくないという自己防衛反応も働きますから、「いや」と感じたケアワーカーには、「いや」な対応で返すか、逃避するかという行動に繋がります。   普段は私たち側から見て感じて判断することが主体で仕事をしていますが、実は「見られ、観察され、判断されている」のは私たちケアワーカー側であるということを考えてみる必要があるのではないでしょうか。