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「認知症の教室(専門職用)」で記事を検索しました。

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2019.06.04

認知症の教室(専門職用)
認知症という希望とは センター長の石川です。 長らくお休みしてました。 認知症ケア学会での松本一生先生と永島徹さんの姿です。 学会でのテーマは「認知症という希望」でした。 ちょっと理解しにくいテーマでしたが、松本先生が明確に答えてくれました。 「ケアという経験から(それは介護者だけでなく、子どもたちも含めて)、世代を越えて人と人が繋がっていくことになること。だからこそ、認知症の人は未来の人と人とのきずなを深めていくための希望なのだ」と。 社会福祉法人由寿会が実施している「安心声掛けつながり訓練」はまさしく、この実践と言えますね。 松本先生には、今回の会場でも一番最初にお会いした人でした。 少しばかしお話しもさせてもらいましたが、 自らもお忙しい身、なのにいつも癒しを与えてくれる先生ですね。 永島徹さんも、「認知症の人は実によく私たち(ケア実践者)を見ている。私たちのことをしっかりと判断しているのだと。」また、「ケア実践者は時間で利用者を動かしているのではないか。」との問いかけも。まさしくその通りですね。 認知症という未来 6月15日、参加よろしくお願いします! カレーライス、今年も用意してます!    
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2019.05.27

認知症の教室(専門職用)
第20回認知症ケア学会報告(その1) 今年の認知症ケア学会が国立京都国際会館で、5月25日、26日行われました。 全国各地から5000人近い人が集まったようですが、私は観光客で溢れいている京都で泊まるところがあったのかな?と、余計な心配をしていました(笑) それにしても、暑かったこと! 数々の国際会議が開かれている場所ですね。不便です(笑) さて、毎年認知症ケア学会では、数多くの発表、講演があります。 私も何回か、発表や講演側になったことはありますが、今回はいち参加者として、色々な話を聴かせてもらい勉強させてもらいました。 メインホールです。1200名入ります。 これだけ多くの人たちが認知症ケアの向上のために全国から集まってくることに改めて驚きを感じるとともに、どんどん斬新な考えやアイデア、そして実践が行われる中で、二つの異なる考えを持ちました。 ひとつは、ケア学会に参加した人たち(組織)は、さらなる刺激を受けてどんどん前へ進み、学会に参加しなかった人たち(組織)との差がますます広がっていくであろうということ。これに関しては私自身も井の中の蛙になっていないかと感じてしまうのです。 沢山の発表内容が載っている、めちゃ重い冊子です。 もうひとつは全く反対のことなのですが、毎回これだけの多くの人が認知症ケア学会に参加しているのに、果たしてその質は上がっているのか?ということです。確かに一部では質の向上が顕著かもしれません。しかしそれが全体的(全国的)な底上げにつながらなければ、単に認知症ケア学会員だけの自己満足に終わるかもしれません。 さらに、ケア学会では「なるほどそうだ、明日から頑張ろう!」と思った人も、いざ帰ってみるとそんな思いも忘れ、オールドカルチャーなことを継続している、こともあるかもしれませんね。 誰もが参加できるわけではないので、参加した者は、継続して伝えていく必要があると言えます。 というわけで、何回かに分けて、次回から認知症ケア学会で学んだものを伝えていきたいと思います。
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2019.05.16

認知症の教室(専門職用)
記 憶 槇原敬之の歌に「記憶」という歌があります。 歌自体は、母を想う気持ちで作られたようですが、 認知症の人へのやさしい心づかいの歌詞ともとれるのです。 大丈夫だよと 微笑んであげたいとき 思い出せる特別な場面がある   何かの拍子に思い出す 言葉を超えた思いの記憶 もしも思い出せないなら 僕がやさしく伝えよう 何かの拍子に思い出す 言葉を超えた想いの記憶 記憶の軌跡は消すことはできないと、思います。 以前の認知症の教室で、ジグゾーパズルのピースが一つひとつの記憶ならば、その記憶がばらばらになってしまうけど、断片的にその記憶が思い出される時があると書きました。 何かの拍子に思い出す記憶 記憶は決して消し去られたのではなく、裏返しになっても小さくなってもきっとどこかに存在するのでしょう。でもそれを、表現する能力自体が失われてしまっているのです。 言葉にはできなくなっているのです。 バラバラになってしまっても、きっとどこかにその記憶はある だからこそ、大丈夫だよと、微笑んでそばにいてあげること そして、手を握りやさしく伝えてあげること。 言葉にできなくても、ふと思い浮かぶ記憶に、 人生を生きてきた証を感じられる瞬間がある、と言えるかもしれません。
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2019.04.22

認知症の教室(専門職用)
「ひとりの人としてリスペクトすること」 Aさんは現在、デイサービスとショートステイを利用されています。 1年前までは、まだカラオケも唄えていたのですが、今は逆にその音が本人の混乱へと繋がるなど、生活全般において不安定な状態になられています。 詳細は個人情報なので割愛しますが、ここで私自身、改めて勉強させてもらったことがあります。 ある方のサービス担当者会議における、Aさんの妻、Bさんの、しっかりとした考え方でした。 最近は特に体調がすぐれず、ショートステイをお願いすることが多くなったBさんですが、Aさんのことを「認知症状が大変で困った人」という捉え方ではなく、「ひとりの価値ある人」として常に接することに心掛けているとのことでした。 もちろん腹が立つことも、泣きたいくらい辛いこともあったでしょう。 しかし出来ないことに目を奪われず、Aさんの好きなことや、これまでの人生の中で頑張ってこられたことなどに敬意を表すこと。(一人の人としてリスペクトすること) つまり「Aさんは認知症だけど、人としてのプライドと尊厳を守っていく接し方をすること」という事を、しっかりと意識して接しておられるということが伝わってきたのです。 私たちケア実践者がベースに置かなければならない考え方を、Bさんは確実に実践されていたのでした。 私たちも謙虚に介護家族から学ぶことは必要ですし、ケア専門職として、その専門性を活かして介護者を支えることも必要でしょう。
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2019.01.10

認知症の教室(専門職用)
認知症の教室・専門職向け3「私たち以上に困っているのは…」 認知症の教室⑨ 前回は認知症が、認知機能が低下している状況であるとわかっていても、目の前で起こっている私たちが困ってしまう認知症の人の行動に、私たちが翻弄されていると書きました。 日々ケアの現場は認知症の人への関りでは、あたふたして「大変!」という状況と言えます。それは在宅においても入所においても同じでしょう。 また、一言に認知症と言っても、一人ひとりみな違う状況の中でケアを実践していかなければなりません。認知症の人の行動はケア実践者にとって頭の痛い行動なのです。 みんなの介護より しかしここで忘れてはならないのは、私たちも困っているかもしれないけれど、認知症の人は私たち以上に困っている状況におられるということなのです。 様々なことが不確かになっていく中で、私たちのように動けず判断できず戸惑いと不安の中にいる認知症の人は、私たち以上に大変な状況で生活しているということを理解してください。   順次、認知症ケアにおける基本となる「パーソン・センタード・ケア」について説明しますが、その前に医学面からの視点を今一度押さえながら、現場の状況と併せ持ってお話ししていきたいと考えています。 (つづく)
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2018.12.28

認知症の教室(専門職用)
専門職向け講座2「話が伝わらない」 認知症の教室⑦ センター長の石川です。 専門職向け認知症の教室、第2回目です。 認知症の人と関わる中で、ケア実践者が大変だと思うことに、「話が伝わらない」或いは「何を言ってるのかわからない」ということがあると思います。 つまり、コミュニケーションが成立しないということなのです。 それでなくても多くの仕事をこなしていかなければならない現場の人間にとって、例えばトイレに誘導するにも、お風呂に行くにも、食事に行くにも、コミュニケーションができる人の何倍もの時間を認知症の人には使わなければならないのです。 ケア側の意思が伝わらず、また認知症の人も自分の状況がわからず、危険な行動(歩行不安定なのに立ってしまうなど)を取られ、ケア側が冷や汗をかくということも多々あるでしょう。 では、なぜコミュニケーションができないのか、それは「相手が認知症だから」、イコール「理解できない人だから」ということになるでしょう。 ケア実践者の誰もが知ってることです。「認知症で理解できない人だから」と。 それでは理解できないとはどういうことなのでしょうか? 当たり前の話ですが、理解する機能がダメージを受けてしまっている状態と言えます。 理解する機能というのは「認知機能」のことになります。 つまり、本人の意思とは関係なく、様々なことを認知する機能が正常に働かなくなるということです。 この認知機能へのダメージが、ケア実践者も、認知症の人本人も、混乱の渦の中に巻き込んでしまう要因となるのです。 この当たり前の事実を、意外と私たちは忘れがちになってしまうのです。 それにはそれなりの理由があります。 何故ならば、目の前で起こっている様々な私たちが困ってしまう認知症の人の行動に、その見えている事実に、私たちが翻弄されてしまうからなのです。 (つづく)  
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2018.12.22

認知症の教室(専門職用)
認知症の教室⑥ 専門職向け講座(1)「認知症の人はケア実践者にとって…」 センター長の石川です。 ケア実践者にとって、今や認知症の人とのかかわりは必要不可欠なものになっています。 さらにケア実践者にとって難易度が高いケアが認知症の人との関りということになります。 認知症の人の行動、特にBPSDに振り回されたり、コミュニケーションが取れなくて、認知症の人の思いがわからないし、ケア側が伝えたいことが理解してもらえないもどかしさを持っている人も多いでしょう。 つまりケア実践者(ケアマネジャー、ヘルパー、介護職等々)にとって、自らの表情に表すあらわさないは別として、「認知症の人はイライラする存在(ストレスのたまる存在)」として認識されているのでしょう。 もちろんその感覚はケア実践者によって大小はあるでしょうが、多かれ少なかれ認知症の人はケア実践者にとって「困った存在」と言えるかもしれません。 その「困った」も認知症の人その人を示すのか、認知症の人の行動のひとつを示すのか差異はあるでしょう。 この専門職向けブログでは、ケア実践者の混乱やしんどさを、当然生じる気持ちとして受け止めつつ、 同時に認知症の人を理解し、どのようなケア実践が適切なのかを、 時間をかけて解説していきたいと考えています。   (つづく)
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 長らくお休みしてました。 認知症ケア学会での松本一生先生と永島徹さんの姿です。 学会でのテーマは「認知症という希望」でした。 ちょっと理解しにくいテーマでしたが、松本先生が明確に答えてくれました。 「ケアという経験から(それは介護者だけでなく、子どもたちも含めて)、世代を越えて人と人が繋がっていくことになること。だからこそ、認知症の人は未来の人と人とのきずなを深めていくための希望なのだ」と。 社会福祉法人由寿会が実施している「安心声掛けつながり訓練」はまさしく、この実践と言えますね。 松本先生には、今回の会場でも一番最初にお会いした人でした。 少しばかしお話しもさせてもらいましたが、 自らもお忙しい身、なのにいつも癒しを与えてくれる先生ですね。 永島徹さんも、「認知症の人は実によく私たち(ケア実践者)を見ている。私たちのことをしっかりと判断しているのだと。」また、「ケア実践者は時間で利用者を動かしているのではないか。」との問いかけも。まさしくその通りですね。 認知症という未来 6月15日、参加よろしくお願いします! [caption id="attachment_633" align="aligncenter" width="650"] カレーライス、今年も用意してます![/caption]    
ブログ投稿画像 今年の認知症ケア学会が国立京都国際会館で、5月25日、26日行われました。 全国各地から5000人近い人が集まったようですが、私は観光客で溢れいている京都で泊まるところがあったのかな?と、余計な心配をしていました(笑) それにしても、暑かったこと! [caption id="attachment_742" align="aligncenter" width="650"] 数々の国際会議が開かれている場所ですね。不便です(笑)[/caption] さて、毎年認知症ケア学会では、数多くの発表、講演があります。 私も何回か、発表や講演側になったことはありますが、今回はいち参加者として、色々な話を聴かせてもらい勉強させてもらいました。 [caption id="attachment_743" align="aligncenter" width="650"] メインホールです。1200名入ります。[/caption] これだけ多くの人たちが認知症ケアの向上のために全国から集まってくることに改めて驚きを感じるとともに、どんどん斬新な考えやアイデア、そして実践が行われる中で、二つの異なる考えを持ちました。 ひとつは、ケア学会に参加した人たち(組織)は、さらなる刺激を受けてどんどん前へ進み、学会に参加しなかった人たち(組織)との差がますます広がっていくであろうということ。これに関しては私自身も井の中の蛙になっていないかと感じてしまうのです。 [caption id="attachment_745" align="aligncenter" width="650"] 沢山の発表内容が載っている、めちゃ重い冊子です。[/caption] もうひとつは全く反対のことなのですが、毎回これだけの多くの人が認知症ケア学会に参加しているのに、果たしてその質は上がっているのか?ということです。確かに一部では質の向上が顕著かもしれません。しかしそれが全体的(全国的)な底上げにつながらなければ、単に認知症ケア学会員だけの自己満足に終わるかもしれません。 さらに、ケア学会では「なるほどそうだ、明日から頑張ろう!」と思った人も、いざ帰ってみるとそんな思いも忘れ、オールドカルチャーなことを継続している、こともあるかもしれませんね。 誰もが参加できるわけではないので、参加した者は、継続して伝えていく必要があると言えます。 というわけで、何回かに分けて、次回から認知症ケア学会で学んだものを伝えていきたいと思います。
ブログ投稿画像 槇原敬之の歌に「記憶」という歌があります。 歌自体は、母を想う気持ちで作られたようですが、 認知症の人へのやさしい心づかいの歌詞ともとれるのです。 大丈夫だよと 微笑んであげたいとき 思い出せる特別な場面がある   何かの拍子に思い出す 言葉を超えた思いの記憶 もしも思い出せないなら 僕がやさしく伝えよう 何かの拍子に思い出す 言葉を超えた想いの記憶 [caption id="attachment_721" align="aligncenter" width="650"] 記憶の軌跡は消すことはできないと、思います。[/caption] 以前の認知症の教室で、ジグゾーパズルのピースが一つひとつの記憶ならば、その記憶がばらばらになってしまうけど、断片的にその記憶が思い出される時があると書きました。 何かの拍子に思い出す記憶 記憶は決して消し去られたのではなく、裏返しになっても小さくなってもきっとどこかに存在するのでしょう。でもそれを、表現する能力自体が失われてしまっているのです。 言葉にはできなくなっているのです。 [caption id="attachment_720" align="aligncenter" width="650"] バラバラになってしまっても、きっとどこかにその記憶はある[/caption] だからこそ、大丈夫だよと、微笑んでそばにいてあげること そして、手を握りやさしく伝えてあげること。 言葉にできなくても、ふと思い浮かぶ記憶に、 人生を生きてきた証を感じられる瞬間がある、と言えるかもしれません。
ブログ投稿画像 Aさんは現在、デイサービスとショートステイを利用されています。 1年前までは、まだカラオケも唄えていたのですが、今は逆にその音が本人の混乱へと繋がるなど、生活全般において不安定な状態になられています。 詳細は個人情報なので割愛しますが、ここで私自身、改めて勉強させてもらったことがあります。 ある方のサービス担当者会議における、Aさんの妻、Bさんの、しっかりとした考え方でした。 最近は特に体調がすぐれず、ショートステイをお願いすることが多くなったBさんですが、Aさんのことを「認知症状が大変で困った人」という捉え方ではなく、「ひとりの価値ある人」として常に接することに心掛けているとのことでした。 もちろん腹が立つことも、泣きたいくらい辛いこともあったでしょう。 しかし出来ないことに目を奪われず、Aさんの好きなことや、これまでの人生の中で頑張ってこられたことなどに敬意を表すこと。(一人の人としてリスペクトすること) つまり「Aさんは認知症だけど、人としてのプライドと尊厳を守っていく接し方をすること」という事を、しっかりと意識して接しておられるということが伝わってきたのです。 私たちケア実践者がベースに置かなければならない考え方を、Bさんは確実に実践されていたのでした。 私たちも謙虚に介護家族から学ぶことは必要ですし、ケア専門職として、その専門性を活かして介護者を支えることも必要でしょう。
ブログ投稿画像 認知症の教室⑨ 前回は認知症が、認知機能が低下している状況であるとわかっていても、目の前で起こっている私たちが困ってしまう認知症の人の行動に、私たちが翻弄されていると書きました。 日々ケアの現場は認知症の人への関りでは、あたふたして「大変!」という状況と言えます。それは在宅においても入所においても同じでしょう。 また、一言に認知症と言っても、一人ひとりみな違う状況の中でケアを実践していかなければなりません。認知症の人の行動はケア実践者にとって頭の痛い行動なのです。 [caption id="attachment_305" align="aligncenter" width="600"] みんなの介護より[/caption] しかしここで忘れてはならないのは、私たちも困っているかもしれないけれど、認知症の人は私たち以上に困っている状況におられるということなのです。 様々なことが不確かになっていく中で、私たちのように動けず判断できず戸惑いと不安の中にいる認知症の人は、私たち以上に大変な状況で生活しているということを理解してください。   順次、認知症ケアにおける基本となる「パーソン・センタード・ケア」について説明しますが、その前に医学面からの視点を今一度押さえながら、現場の状況と併せ持ってお話ししていきたいと考えています。 (つづく)
ブログ投稿画像 認知症の教室⑦ センター長の石川です。 専門職向け認知症の教室、第2回目です。 認知症の人と関わる中で、ケア実践者が大変だと思うことに、「話が伝わらない」或いは「何を言ってるのかわからない」ということがあると思います。 つまり、コミュニケーションが成立しないということなのです。 それでなくても多くの仕事をこなしていかなければならない現場の人間にとって、例えばトイレに誘導するにも、お風呂に行くにも、食事に行くにも、コミュニケーションができる人の何倍もの時間を認知症の人には使わなければならないのです。 ケア側の意思が伝わらず、また認知症の人も自分の状況がわからず、危険な行動(歩行不安定なのに立ってしまうなど)を取られ、ケア側が冷や汗をかくということも多々あるでしょう。 では、なぜコミュニケーションができないのか、それは「相手が認知症だから」、イコール「理解できない人だから」ということになるでしょう。 ケア実践者の誰もが知ってることです。「認知症で理解できない人だから」と。 それでは理解できないとはどういうことなのでしょうか? 当たり前の話ですが、理解する機能がダメージを受けてしまっている状態と言えます。 理解する機能というのは「認知機能」のことになります。 つまり、本人の意思とは関係なく、様々なことを認知する機能が正常に働かなくなるということです。 この認知機能へのダメージが、ケア実践者も、認知症の人本人も、混乱の渦の中に巻き込んでしまう要因となるのです。 この当たり前の事実を、意外と私たちは忘れがちになってしまうのです。 それにはそれなりの理由があります。 何故ならば、目の前で起こっている様々な私たちが困ってしまう認知症の人の行動に、その見えている事実に、私たちが翻弄されてしまうからなのです。 (つづく)  
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 ケア実践者にとって、今や認知症の人とのかかわりは必要不可欠なものになっています。 さらにケア実践者にとって難易度が高いケアが認知症の人との関りということになります。 認知症の人の行動、特にBPSDに振り回されたり、コミュニケーションが取れなくて、認知症の人の思いがわからないし、ケア側が伝えたいことが理解してもらえないもどかしさを持っている人も多いでしょう。 つまりケア実践者(ケアマネジャー、ヘルパー、介護職等々)にとって、自らの表情に表すあらわさないは別として、「認知症の人はイライラする存在(ストレスのたまる存在)」として認識されているのでしょう。 もちろんその感覚はケア実践者によって大小はあるでしょうが、多かれ少なかれ認知症の人はケア実践者にとって「困った存在」と言えるかもしれません。 その「困った」も認知症の人その人を示すのか、認知症の人の行動のひとつを示すのか差異はあるでしょう。 この専門職向けブログでは、ケア実践者の混乱やしんどさを、当然生じる気持ちとして受け止めつつ、 同時に認知症の人を理解し、どのようなケア実践が適切なのかを、 時間をかけて解説していきたいと考えています。   (つづく)