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「認知症の教室(専門職用)」で記事を検索しました。

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2020.09.19

認知症の教室(専門職用)
職場を変えるのは一人一人の小さな力 センター長の石川です。 今日は、2019年5月に「認知症の人にやさしい街をめざして」と題した国際シンポジウム(主催:朝日新聞社、朝日新聞厚生文化事業団)が、大阪で開催された時の基調講演者、イギリス・プリマス大学で、認知症アカデミックパートナーシップリーダーを務めるイアン・シェリフさんのお話し「認知症フレンドリーコミュニティー構築の道のり」から、冒頭の部分を紹介したいと思います。 大きな世界を変える小さな個人 「世界を変えるのは、一人ひとりの小さな力」 アメリカの文化人類学者であるマーガレット・ミード(Margaret Mead)の言葉です。 Never doubt that a small group of thoughtful, committed, citizens can change the world. Indeed, it is the only thing that ever has. この言葉には、「思慮深く決意に満ちた人たちの小さなグループが、世界を変えられると疑ってはいけない」という意味が込められています。 つまり、これまでに世界を変えたのは、個人やグループによる小さな力なのです。 小さな力とは、皆さんのことです。 私たちが世界を変えるのです。 皆さんも一緒に、認知症の人たちにやさしい世界へ変えていきましょう。 *「なかまある」HPより引用 いい方向に変えていくって、ワクワクドキドキだね。 以上が冒頭の部分ですが、 この言葉の、「世界」を「職場」に読み替えてみてください。或いは「自分の街」でも読み替えられます。 「職場を変えるのは、一人ひとりの小さな力」ですね。 「小さな力とは、皆さんのことです。私たち(皆さんが)が職場を変えるのです。皆さんも一緒に、認知症の人たちにやさしい職場(街)へ変えていきましょう。」 となりますね。 この熱い思いこそが、具体的に何を行うかを考えるためのスタート地点になります。 「利用者(認知症の人)のより良い生活のために、職場を変える!」 そういう、ワクワクドキドキ感こそが、前へ進むエネルギーになるのですね! 国籍年齢関係なくみんなで話しあっていけば、ワンチームになる
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2020.09.18

認知症の教室(専門職用)
コロナ禍における認知症の人への影響について センター長の石川です。 暑い日がまだ続きますが、朝晩は少し過ごしやすいでしょうか。 さて、ぼちぼちコロナ禍における認知症の人への影響を調査したものが出てくるのではないかと思っていましたが、 以下のような調査結果が掲載されていました。 特にコロナが人々に脅威となり始めた2月から、緊急事態宣言中の調査となります。 東大阪の空 以下、「大学ジャーナル」より転載させていただきました。 広島大学、コロナ禍における認知症患者および家族への影響を調査 介護高齢者認知症新型コロナウイルス感染症広島大学 広島大学大学院医系科学研究科共生社会医学講座の石井伸弥寄附講座教授らのグループは、新型コロナウイルス感染症感染拡大下(2020年2月~6月頃)に、入院もしくは入所中の認知症者とその家族にどのような影響があったのかオンライン調査を行った。 研究は日本老年医学会、広島大学公衆衛生学講座と共同で行われた。 調査は全国の高齢者医療・介護施設および介護支援専門員を対象に実施し、945施設・介護支援専門員751人の回答を得た。 調査によると、コロナ禍における入所系医療・介護施設の運営状況については、32.5%に大きな変化が生じていたほか、ほぼ全ての施設が入所者の日常的な活動に制限が生じたことが分かった。 通所系や訪問系サービスに関しては、介護支援専門員の71.5%が事業所の運営状況に大きな変化があったと回答。 認知症者が少なくとも一部のサービスを「受けられなくなった」「受けなくなった」と回答したのは78.7%だった。 認知症患者への影響はどうだったか。 「影響が生じた」と回答したのは、医療・介護施設の38.5%、介護支援専門員の38.1%。みられた影響としては、特に行動心理症状の出現・悪化、認知機能の低下、身体活動量の低下等が挙げられた。 介護保険サービスが受けられなくなった際の家族への負担について聞くと、「家族が介護を行うことがあった」と72.6%の介護支援専門員が回答。 家族への影響については、「仕事を休んだ」が約4割で最多、身体的な負担、精神的な負担が生じたとする回答もそれぞれ2割を超えた。 今後、石井教授らは、コロナ禍における認知症者の実情についてさらに深く調査するため、秋田大学高齢者医療先端研究センター等と共同で、高齢者医療介護施設従業員や介護支援専門員を対象としたインタビュー調査を実施する予定。 調査結果は、認知症高齢者が感染拡大を予防する「新しい生活様式」を実践するため、どのような支援が適切か検討する基礎資料として活用されることが期待される。 参考:【広島大学】新型コロナウイルス感染症の拡大により、認知症の人の症状悪化 と家族の介護負担増の実態が明らかに ~ 全国 945 施設・介護支援専門員 751 人のオンライン調査結果 ~(PDF) みんなで助けあっていかないとね やはり認知症の人への影響は出ているということですね。 さらにこの調査の後は、長い梅雨、そして猛暑による熱中症が待っていました。 じわじわと認知症の人への悪影響、介護家族の疲労増大が増えてきていると思われます。 そして、一息ついた後には、インフルエンザや寒い冬が待ち受けています。 私たち自身大変ですが、認知症の人にはもっと大変な状況が待ち受けています。 さらに、これまでは認知症状がなかった人に認知症状が現れる、或いは体力低下が現れる人の増大も予想されます。 本当に大変な状況は、これからかもしれません。
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2020.09.02

認知症の教室(専門職用)
インプットとアウトプット センター長の石川です。 「インプットとアウトプット」 よく聞く言葉ですね。 インプットはもちろん、色々と勉強したことや体験を取り込むことですね。 テキストの内容を読み込んでいくことはインプットになります。 しかし、インプットだけではその知識はすぐに忘れ去られてしまうとのこと。 大事なのは、インプットしたことはアウトプットするということなのです。 アウトプットする方法は、インプットした内容を書き出したり、言葉に出して読むなどの方法があります。 インプットしたものを他の人に伝える(アウトプットする)ためにまとめるのも一つの方法です。 他の人に正しく伝えるためにまとめることを「言葉に出す、書き出す」ことをすると、 インプットの内容が自分のものになっていきます。 では独り言はアウトプットになっているのか? 私もよく独り言を言います。特に「なんでやねん!」的な独り言を。 でも単にぶつぶつ言うのと、意識して文章を読んで声に出すのとは違います。 身に付く独り言(アウトプット)は、その独り言を意識しているかどうかでしょうか。   認知症の人の場合、まずインプットすることが厳しいのですが、 伝えた言葉(例えば、「お風呂に行きましょうか」と言う声掛けをゆっくりと繰り返す)を、 本人にも言ってもらう(「え?お風呂か?」)ことにより、本人には理解しやすいのではないかと思います。 インプットしたら、アウトプットする。 ミーティングなども同じです。 言葉に出して、書いてみて。その行為の中でインプットした内容を理解し、まとめ、そして他の人にも正しく伝えられるようになっていくのです。    
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2020.08.31

認知症の教室(専門職用)
いつまで私たち視点(或いは上から視点)で認知症の人を見るのだろう センター長の石川です。 今日は、硬派の話になります。 長くなりますが、意見提言として読んでいただければと思います。 「認知症高齢者の日常生活自立度判定基準」と言うのがあることは皆さんご存知ですよね。 特に専門職は、把握しておかなければならない基準です。 関わる認知症の人がどの程度の認知症の状態なのかを把握するためにも必要になってきます。 ですから私たちは、ケアする認知症の人が、大体どのくらいの認知症状で、その方の生活の不具合がどれだけ進行しているのかを確認しておく必要があります。 認知症高齢者の日常生活自立度判定基準 このように、その人の認知症の度合いをみるために使われていますが、 基準の右欄「判断にあたっての留意事項~」の欄を読めばわかるように、 まずは、基本として在宅でどこまで支えていける状態であるのか、 まさしく「日常生活の自立度のための判定基準」なのです。 ここではⅢbまでは、在宅生活が基本と書かれています。 この判定基準を、認知症の重症度だけを見るものという間違った見方をしないようにしてください。 捉え方を間違うと、恐ろしい黒雲が襲ってきます しかしながら、何故認知症の重症度を見るものと思ってしまうのかと言うと、 基準の「みられる症状・行動の例」に問題があるからかもしれません。 あえて言わせてもらうと、「いつまで私たち視点(或いは上から視点)で認知症の人を見るのだろう」と思うのです。 「どれだけ大変な人かを計測する指標」みたいに思ってしまうのです。 例えば、見られる症状・行動の例(Ⅲa)では、「着替え、食事、排便、排尿が上手にできない、時間がかかる。やたらに物を口に入れる、物を拾い集める、徘徊、失禁、大声・奇声をあげる、火の不始末、不潔行為、性的異常行為等」という文言があります。 これは明らかに認知症の人を一人の人として敬意を表さない、私たち側からの上から視点の捉え方と言えます。 まるで犯罪履歴でも読むかのようなこの文言の列挙には不快感を覚えます。 また、ここに書かれている行動の多くは、周囲の人たちの影響にも左右されるものです。 ここは重要なポイントです。 私たち側に問題があるかもしれないのに、私たちが大変な目に合う行動だからと、全てを本人に擦り付けているのです。 これを認知症の人から見たらどう思われるでしょうか? もし私がⅢaに該当するのなら、「Ⅲaの大変な認知症の人」というレッテルを貼られるのでしょうか。 いつまでたっても認知症の人を蔑む視点が消えていないと言えるのではないでしょうか。 読み方を間違えないよう、正しく基準を理解しましょう。 出来ないこと、やれないこと、困った行動の列挙ではなく、 やれること、出来ること、わかっていることを拾い上げて、 出来る限りその方の自立を助けていくことが、本当の自立度ではないでしょうか。 ネガティブな見方の基準からポジティブな見方の基準へと捉え方を変えていく時期ではないかと思うのです。 因みに医師と調査員とが全く違うマーキングをすることが多々あります。 調査員がⅢaと思っているのに医師がⅠと判断したり、医師がⅣ、調査員がⅠなどという判断の食い違いは多々あります。 私たちはこの「認知症高齢者の日常生活自立度判定基準」を指標として把握しながらも、 決してそれがその人の全てではないということを頭に入れて、 その方の状況をしっかりと見てください。 つまり、正しく理解するということです。 皆さんの温かいハートが認知症の人を支えます。 そして目の前の認知症の人を一人の人として敬意を示し、 視点を「認知症で大変な人」ではなくて 「認知症はあるけれど、色々な可能性がまだまだ一杯残っているひとりの人」という視点で捉えれば、 様々な症状・行動も減少していくと思うのです。 それこそが、ケアワークに関わる者の真骨頂と言えるのではないでしょうか。
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2020.08.18

認知症の教室(専門職用)
認知症でもひとりの人として敬意をもって センター長の石川です。 17日、稲田地域包括支援センターの介護者教室に、A小学校のB校長先生が来られました。 B校長先生の認知症ケア体験をお話ししていただくためです。 B校長先生に来ていただくきっかけは、私たちがA小学校へキッズサポーター講座に行った折りに、 B校長先生も自らの介護体験を子どもたちにお話しされたことによります。 その時のB校長先生のお話を、児童たちは、目を真ん丸にして聞いていました。 校長先生のめっちゃ大変だった認知症介護話を真剣に聞く児童たち B校長先生の今回のお話は、ある意味「達観」されていました。 認知症になられたお母様の介護体験話なのですが、ケアの大変さだけを語られるのではなく、 認知症になった母でも、本来の母らしさを取り戻す時があり、 とかく認知症になって大変な状況の所しか見えなくなる中で、 一人の人としての姿を見ることが出来ることを温かく語っておられました。 コロナ禍 校長先生もフェイスシールドつけてのお話しです。 その人の生きざまを受け止め、 そして認知症であってもひとりの人としての尊厳を大切にしなければならない。 体験者ならではのお話しであると同時に、専門職も学ばなければならないお話しであったのではないかと感じました。 いわゆる「大変さだけを訴える体験談」ではない、 「認知症であってもひとりの人として敬意を持つ」こと。 介護を全うした多くの家族の方から聞くことが出来る言葉ではないでしょうか。 こんな時だからこそ前向きに考えましょう!と、校長先生 こんな時期ですが、ネガティブに考えてしまってもどうしようもないので、 何事も前向きに捉えて考えていきましょうというB校長先生。 その通りだと思います。  
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2020.08.08

認知症の教室(専門職用)
私のことをわかって センター長の石川です。 暴力行為があるとレッテルを貼られた ある認知症の人の思いです。 私は或る日 お兄さんとお姉さんに連れられて 小さなバスに乗せられ、大きな建物の前までやって来ました 笑顔のお姉さんに誘導されて、どこやら広い部屋に ここは一体何処だろう 私はどうしてここに連れて来られたの? 周りは見知らぬ人ばかりで、なんだかとっても怖い とっても不安 誰か教えて、ここは何処なの? あなたたちは誰なの? わけがわからないから、家へ帰ろうと 出口を探していると 後ろから笑顔のお姉さんに声をかけられて 元の場所に戻された 食事もお茶も出されたけれど、わけがわからなくて 食べる気がしない 寂しいし、不安だし だからやっぱり家に帰ろうと、出口を探していたら 後ろから笑顔がなくなったお姉さんに声をかけられて また、元の場所に戻された 何度も今日からここに泊まるんだと言われるけど なんのことだかわからない 私にはちゃんと家があるのに 頭の中が混乱して、どうしたらいいかわからない 泣きたいくらい不安 私、家に帰りたい、帰らせて すると笑顔の若いお兄さんがやってきた 私の話聞いてくれるのかな、安心できるのかな お兄さんはなにやら言うと、私を何処かへ誘導してくれる 安心できるのかな、家へ帰れるのかな 安心できるのかな、優しいお兄さんかな 連れられた場所 ここはお風呂? どうしてここに? なんで、どうして なんで服を脱がなきゃならないの なんでお風呂場にいるの 家に帰らせて! ここから出して! 気がついたら、お兄さんを叩いてた 叩くつもりはなかったのに 怖かったし、不安だったし わけがわからなかったから いつのまにか、大勢の人に囲まれて 冷たい視線で私のことを見ている 家に帰りたいだけなのに 悪いことしていないのに どうしてそんな目で私を見るの? 私はただ 色々なことが理解できなくて 寂しくて、怖くて、家に帰りたい ただそれだけなのに そんな気持ちをわかって欲しい 聴いて欲しい やさしくして欲しい ただそれだけなのに 誰もわかってくれない やさしく話を聴いて欲しい ただそれだけのことなのに それだけで 安心できるのに 私のことをわかって お願い… あるショートステイ利用者への複数回の聞き取りから、本人視点で考えてわかったこと (大府センター指導者による。石川が編集 2007)
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2020.08.04

認知症の教室(専門職用)
「けど」と言う前に、視点をリセットしてみよう センター長の石川です 今回は専門職向けのちょっと難しいお話しです。 私たちには自我がありますから、どうしても物事を主体的に捉えてしまいます。 極端な場合は、自分自身がコロナ感染したくない不安感や不満が、感染した人(或いはその患者の治療に従事している医療職の人に対しても)に対する激しい攻撃を行ってしまうことがあります。 感染した人やその対応をしている人の苦痛や不安を考えもせずに。 相手の気持ちなど考えないのです。 自分が大事 だからといって人を傷つける権利なんかない 私たち、ケアの職場はどうでしょうか? 相手の気持ちを考え、その人の立場に立って考える。 大切な理念ですよね。 それでもやはり、職員集団の一員となると、 職員集団の状況のことをあれやこれやと考えてしまいます。 どうしても自分のことや、私たち職員側主体で考えてしまうのです。 私たちの仕事の都合や職員関係を優先させて物事を判断しがちになります。 つまり、「利用者の気持ちはわかるけど」と、「けど」が付くようになるのです。   しかしここで視点のリセットしてみましょう。 利用者の立場から見たらどうなのか。 利用者のAさん、Bさん、Cさんから、私たちを見たらどうみえているのか? 「常勤であろうが非常勤であろうが、外国人であろうが新人であろうが、他の職域の職員であろうが、私を心地よく生活させてくれる人ならば…」 と、思っているのではないでしょうか。 利用者から見れば、常勤もパートも新人も関係ないのです。 職員の都合も関係ないのです。 要は自分が生きていく上においてプラスになってくれる職員か否かなのです。 何故ならば、その命や生活をケアスタッフに委ねなければ生きていけない中で、 利用者にとっての主体的選択といえるのではないでしょうか。 「あんた、外国から来てるのによう頑張ってくれて、ありがとうなぁ~」 利用者は自分の心が安心できる人を、しっかりと見ているのです。 不思議なことに、ベテランや管理的立場になるほど「けど」が多くなり、 新人ほど素直に視点をリセットして見れることが出来るようです。 「人生の卒業式」に寄り添える仕事に誇りを持つこと。 皆さん、いい仕事に就いてますね! ラグビー日本代表姫野選手です。熱いプレー、熱い仕事は心を刺激します。
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2020.08.01

認知症の教室(専門職用)
それぞれに… 7月末、そして8月最初と 梅雨明けと同時に様々な方との関りがありました。 センター長の石川です。 長かった梅雨が明けました それぞれに、それぞれなりに一生懸命生きておられる姿がそこにありました。   最初の関りから約4年、一人暮らしに終止符を打ち、息子さんがいる関東に行かれる方 扉の向こうには新たな生活が… あまりにも思い出深く、デイサービスのお別れ際はきっと私は泣いてしまうだろうからと、 訪問を入れたりしました。   その訪問先の方は若年性認知症の方。 この方とも長いサポートですが、いよいよ身体的に転機を迎えてきたのかなと。 若年性認知症の方は、5年で20年分進んでしまったような感じです。 施設の前では、家を飛び出した認知症の夫を必死で追いかけてきた妻と本人の姿が。 認知症になっても一生懸命生きていかなければ 冷たいものを飲んで一息。 出て行った本人の思い、そして妻のつらさ。 これから長いお付き合いになりそうなお二人でした。   そして施設の近くのお家では、 なかなかサービスに繋がらない包括支援センターが四苦八苦している方が行方知らずに…(無事帰られました) この方とも長いお付き合いになりそうです。 デイサービスに来られた方の作品です それぞれに、それぞれなりに必死に生きて、必死に苦しんで… 何よりも、それらの方々を一生懸命に支えようとしている職員たちがいる。 人生と言う名の模様の中で、ほんの少しでも支えになれればと思います。
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2020.07.28

認知症の教室(専門職用)
使命感 センター長の石川です。 最近立て続けに、学生さんの投稿に「頑張ってるな~!」と感心させられる投稿を見つけました。 いずれも朝日新聞「声」欄、7月26,27日の分です。 コロナ禍で大変な状況 最近の罹患者は若者が圧倒的に多く、実のところ高齢者の端くれの私は、 自由奔放過ぎてコロナなんかどこ吹く風みたいな若者がいるとやはり距離を置いてしまいます。 ただこの投稿のように使命感に燃えた若者がいることも素敵だなと思います。 朝日新聞「声」欄 7月26日 「たかがスーパーのレジバイト」ではなく、私たちの生活に必要不可欠な役割を担ってくれている若者なのです。 「地域の人々の生活を支えているんだという使命感」 私たちケアの仕事も同じですね。 その使命感に誇りを持つことです。 昨日と同じ虹です。レインボーではなく、レイン棒ですね。 そして、昨日のブログにも載せた投稿。 コロナ禍で、ともすれば人と人の繋がりが希薄になって行きます。 そのような中でも創意工夫をしてコミュニケーションを深めようとする姿があります。 朝日新聞「声」欄7月27日 多くの制限が生じている現状。 単にやれないできないだけでなく、 このような状況だからこそ創意工夫をして人との繋がりを深めていこうという姿勢が必要だと思います。 それこそが、「介護とは、自分の未来を創ること」に繋がるのではないでしょうか。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 今日は、2019年5月に「認知症の人にやさしい街をめざして」と題した国際シンポジウム(主催:朝日新聞社、朝日新聞厚生文化事業団)が、大阪で開催された時の基調講演者、イギリス・プリマス大学で、認知症アカデミックパートナーシップリーダーを務めるイアン・シェリフさんのお話し「認知症フレンドリーコミュニティー構築の道のり」から、冒頭の部分を紹介したいと思います。 [caption id="attachment_1880" align="aligncenter" width="650"] 大きな世界を変える小さな個人[/caption] 「世界を変えるのは、一人ひとりの小さな力」 アメリカの文化人類学者であるマーガレット・ミード(Margaret Mead)の言葉です。 Never doubt that a small group of thoughtful, committed, citizens can change the world. Indeed, it is the only thing that ever has. この言葉には、「思慮深く決意に満ちた人たちの小さなグループが、世界を変えられると疑ってはいけない」という意味が込められています。 つまり、これまでに世界を変えたのは、個人やグループによる小さな力なのです。 小さな力とは、皆さんのことです。 私たちが世界を変えるのです。 皆さんも一緒に、認知症の人たちにやさしい世界へ変えていきましょう。 *「なかまある」HPより引用 [caption id="attachment_1935" align="aligncenter" width="650"] いい方向に変えていくって、ワクワクドキドキだね。[/caption] 以上が冒頭の部分ですが、 この言葉の、「世界」を「職場」に読み替えてみてください。或いは「自分の街」でも読み替えられます。 「職場を変えるのは、一人ひとりの小さな力」ですね。 「小さな力とは、皆さんのことです。私たち(皆さんが)が職場を変えるのです。皆さんも一緒に、認知症の人たちにやさしい職場(街)へ変えていきましょう。」 となりますね。 この熱い思いこそが、具体的に何を行うかを考えるためのスタート地点になります。 「利用者(認知症の人)のより良い生活のために、職場を変える!」 そういう、ワクワクドキドキ感こそが、前へ進むエネルギーになるのですね! [caption id="attachment_1938" align="aligncenter" width="650"] 国籍年齢関係なくみんなで話しあっていけば、ワンチームになる[/caption]
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 暑い日がまだ続きますが、朝晩は少し過ごしやすいでしょうか。 さて、ぼちぼちコロナ禍における認知症の人への影響を調査したものが出てくるのではないかと思っていましたが、 以下のような調査結果が掲載されていました。 特にコロナが人々に脅威となり始めた2月から、緊急事態宣言中の調査となります。 [caption id="attachment_1873" align="aligncenter" width="650"] 東大阪の空[/caption] 以下、「大学ジャーナル」より転載させていただきました。 広島大学、コロナ禍における認知症患者および家族への影響を調査 介護高齢者認知症新型コロナウイルス感染症広島大学 広島大学大学院医系科学研究科共生社会医学講座の石井伸弥寄附講座教授らのグループは、新型コロナウイルス感染症感染拡大下(2020年2月~6月頃)に、入院もしくは入所中の認知症者とその家族にどのような影響があったのかオンライン調査を行った。 研究は日本老年医学会、広島大学公衆衛生学講座と共同で行われた。 調査は全国の高齢者医療・介護施設および介護支援専門員を対象に実施し、945施設・介護支援専門員751人の回答を得た。 調査によると、コロナ禍における入所系医療・介護施設の運営状況については、32.5%に大きな変化が生じていたほか、ほぼ全ての施設が入所者の日常的な活動に制限が生じたことが分かった。 通所系や訪問系サービスに関しては、介護支援専門員の71.5%が事業所の運営状況に大きな変化があったと回答。 認知症者が少なくとも一部のサービスを「受けられなくなった」「受けなくなった」と回答したのは78.7%だった。 認知症患者への影響はどうだったか。 「影響が生じた」と回答したのは、医療・介護施設の38.5%、介護支援専門員の38.1%。みられた影響としては、特に行動心理症状の出現・悪化、認知機能の低下、身体活動量の低下等が挙げられた。 介護保険サービスが受けられなくなった際の家族への負担について聞くと、「家族が介護を行うことがあった」と72.6%の介護支援専門員が回答。 家族への影響については、「仕事を休んだ」が約4割で最多、身体的な負担、精神的な負担が生じたとする回答もそれぞれ2割を超えた。 今後、石井教授らは、コロナ禍における認知症者の実情についてさらに深く調査するため、秋田大学高齢者医療先端研究センター等と共同で、高齢者医療介護施設従業員や介護支援専門員を対象としたインタビュー調査を実施する予定。 調査結果は、認知症高齢者が感染拡大を予防する「新しい生活様式」を実践するため、どのような支援が適切か検討する基礎資料として活用されることが期待される。 参考:【広島大学】新型コロナウイルス感染症の拡大により、認知症の人の症状悪化 と家族の介護負担増の実態が明らかに ~ 全国 945 施設・介護支援専門員 751 人のオンライン調査結果 ~(PDF) [caption id="attachment_1930" align="aligncenter" width="650"] みんなで助けあっていかないとね[/caption] やはり認知症の人への影響は出ているということですね。 さらにこの調査の後は、長い梅雨、そして猛暑による熱中症が待っていました。 じわじわと認知症の人への悪影響、介護家族の疲労増大が増えてきていると思われます。 そして、一息ついた後には、インフルエンザや寒い冬が待ち受けています。 私たち自身大変ですが、認知症の人にはもっと大変な状況が待ち受けています。 さらに、これまでは認知症状がなかった人に認知症状が現れる、或いは体力低下が現れる人の増大も予想されます。 本当に大変な状況は、これからかもしれません。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 少しどのようなテーマで書こうか悩んで、しばらくブログをお休みしてました。 そして、そうこうしているうちに少しずつネタが溜まってきました。 今日は、私たち自身、とても気を付けなければならないことです。 まずは、下記の投稿をお読みください。 [caption id="attachment_1925" align="aligncenter" width="650"] 朝日新聞9月17日声欄より[/caption] ケアの仕事でも十分起こりうることです。 自分では何気なく言ってる言葉が相手を著しく傷つけていることは多々あるのではないでしょうか。 ましてその日、その日一日を必死に生きている高齢者に対しての 厳しい言葉は、人を死に追いやるナイフと何ら変わりはありません。 反面、言葉で救われることも多々あります。 同じ言葉を使うなら、人が安心する言葉を使いましょう。 そのほうがきっとその安心する言葉を使う人の人生にとっても、 お得な人生になるのですから。 たった一度しかない、限られた時間の枠でしか生きられない人生なのですから。 [caption id="attachment_1924" align="aligncenter" width="650"] 笑顔が一番![/caption]   コロナ禍で特に人々の心がぎすぎすする現状だからこそ、 闇に光を灯す言葉が使えるかどうかは 一人一人の胸の内にあると言えるのでしょう。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 「インプットとアウトプット」 よく聞く言葉ですね。 インプットはもちろん、色々と勉強したことや体験を取り込むことですね。 テキストの内容を読み込んでいくことはインプットになります。 しかし、インプットだけではその知識はすぐに忘れ去られてしまうとのこと。 大事なのは、インプットしたことはアウトプットするということなのです。 アウトプットする方法は、インプットした内容を書き出したり、言葉に出して読むなどの方法があります。 インプットしたものを他の人に伝える(アウトプットする)ためにまとめるのも一つの方法です。 他の人に正しく伝えるためにまとめることを「言葉に出す、書き出す」ことをすると、 インプットの内容が自分のものになっていきます。 では独り言はアウトプットになっているのか? 私もよく独り言を言います。特に「なんでやねん!」的な独り言を。 でも単にぶつぶつ言うのと、意識して文章を読んで声に出すのとは違います。 身に付く独り言(アウトプット)は、その独り言を意識しているかどうかでしょうか。   認知症の人の場合、まずインプットすることが厳しいのですが、 伝えた言葉(例えば、「お風呂に行きましょうか」と言う声掛けをゆっくりと繰り返す)を、 本人にも言ってもらう(「え?お風呂か?」)ことにより、本人には理解しやすいのではないかと思います。 インプットしたら、アウトプットする。 ミーティングなども同じです。 言葉に出して、書いてみて。その行為の中でインプットした内容を理解し、まとめ、そして他の人にも正しく伝えられるようになっていくのです。    
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 今日は、硬派の話になります。 長くなりますが、意見提言として読んでいただければと思います。 「認知症高齢者の日常生活自立度判定基準」と言うのがあることは皆さんご存知ですよね。 特に専門職は、把握しておかなければならない基準です。 関わる認知症の人がどの程度の認知症の状態なのかを把握するためにも必要になってきます。 ですから私たちは、ケアする認知症の人が、大体どのくらいの認知症状で、その方の生活の不具合がどれだけ進行しているのかを確認しておく必要があります。 [caption id="attachment_1879" align="aligncenter" width="650"] 認知症高齢者の日常生活自立度判定基準[/caption] このように、その人の認知症の度合いをみるために使われていますが、 基準の右欄「判断にあたっての留意事項~」の欄を読めばわかるように、 まずは、基本として在宅でどこまで支えていける状態であるのか、 まさしく「日常生活の自立度のための判定基準」なのです。 ここではⅢbまでは、在宅生活が基本と書かれています。 この判定基準を、認知症の重症度だけを見るものという間違った見方をしないようにしてください。 [caption id="attachment_1877" align="aligncenter" width="960"] 捉え方を間違うと、恐ろしい黒雲が襲ってきます[/caption] しかしながら、何故認知症の重症度を見るものと思ってしまうのかと言うと、 基準の「みられる症状・行動の例」に問題があるからかもしれません。 あえて言わせてもらうと、「いつまで私たち視点(或いは上から視点)で認知症の人を見るのだろう」と思うのです。 「どれだけ大変な人かを計測する指標」みたいに思ってしまうのです。 例えば、見られる症状・行動の例(Ⅲa)では、「着替え、食事、排便、排尿が上手にできない、時間がかかる。やたらに物を口に入れる、物を拾い集める、徘徊、失禁、大声・奇声をあげる、火の不始末、不潔行為、性的異常行為等」という文言があります。 これは明らかに認知症の人を一人の人として敬意を表さない、私たち側からの上から視点の捉え方と言えます。 まるで犯罪履歴でも読むかのようなこの文言の列挙には不快感を覚えます。 また、ここに書かれている行動の多くは、周囲の人たちの影響にも左右されるものです。 ここは重要なポイントです。 私たち側に問題があるかもしれないのに、私たちが大変な目に合う行動だからと、全てを本人に擦り付けているのです。 これを認知症の人から見たらどう思われるでしょうか? もし私がⅢaに該当するのなら、「Ⅲaの大変な認知症の人」というレッテルを貼られるのでしょうか。 いつまでたっても認知症の人を蔑む視点が消えていないと言えるのではないでしょうか。 [caption id="attachment_1878" align="aligncenter" width="2560"] 読み方を間違えないよう、正しく基準を理解しましょう。[/caption] 出来ないこと、やれないこと、困った行動の列挙ではなく、 やれること、出来ること、わかっていることを拾い上げて、 出来る限りその方の自立を助けていくことが、本当の自立度ではないでしょうか。 ネガティブな見方の基準からポジティブな見方の基準へと捉え方を変えていく時期ではないかと思うのです。 因みに医師と調査員とが全く違うマーキングをすることが多々あります。 調査員がⅢaと思っているのに医師がⅠと判断したり、医師がⅣ、調査員がⅠなどという判断の食い違いは多々あります。 私たちはこの「認知症高齢者の日常生活自立度判定基準」を指標として把握しながらも、 決してそれがその人の全てではないということを頭に入れて、 その方の状況をしっかりと見てください。 つまり、正しく理解するということです。 [caption id="attachment_1880" align="aligncenter" width="1771"] 皆さんの温かいハートが認知症の人を支えます。[/caption] そして目の前の認知症の人を一人の人として敬意を示し、 視点を「認知症で大変な人」ではなくて 「認知症はあるけれど、色々な可能性がまだまだ一杯残っているひとりの人」という視点で捉えれば、 様々な症状・行動も減少していくと思うのです。 それこそが、ケアワークに関わる者の真骨頂と言えるのではないでしょうか。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 17日、稲田地域包括支援センターの介護者教室に、A小学校のB校長先生が来られました。 B校長先生の認知症ケア体験をお話ししていただくためです。 B校長先生に来ていただくきっかけは、私たちがA小学校へキッズサポーター講座に行った折りに、 B校長先生も自らの介護体験を子どもたちにお話しされたことによります。 その時のB校長先生のお話を、児童たちは、目を真ん丸にして聞いていました。 [caption id="attachment_979" align="aligncenter" width="650"] 校長先生のめっちゃ大変だった認知症介護話を真剣に聞く児童たち[/caption] B校長先生の今回のお話は、ある意味「達観」されていました。 認知症になられたお母様の介護体験話なのですが、ケアの大変さだけを語られるのではなく、 認知症になった母でも、本来の母らしさを取り戻す時があり、 とかく認知症になって大変な状況の所しか見えなくなる中で、 一人の人としての姿を見ることが出来ることを温かく語っておられました。 [caption id="attachment_1848" align="aligncenter" width="650"] コロナ禍 校長先生もフェイスシールドつけてのお話しです。[/caption] その人の生きざまを受け止め、 そして認知症であってもひとりの人としての尊厳を大切にしなければならない。 体験者ならではのお話しであると同時に、専門職も学ばなければならないお話しであったのではないかと感じました。 いわゆる「大変さだけを訴える体験談」ではない、 「認知症であってもひとりの人として敬意を持つ」こと。 介護を全うした多くの家族の方から聞くことが出来る言葉ではないでしょうか。 [caption id="attachment_1849" align="aligncenter" width="650"] こんな時だからこそ前向きに考えましょう!と、校長先生[/caption] こんな時期ですが、ネガティブに考えてしまってもどうしようもないので、 何事も前向きに捉えて考えていきましょうというB校長先生。 その通りだと思います。  
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 暴力行為があるとレッテルを貼られた ある認知症の人の思いです。 私は或る日 お兄さんとお姉さんに連れられて 小さなバスに乗せられ、大きな建物の前までやって来ました 笑顔のお姉さんに誘導されて、どこやら広い部屋に ここは一体何処だろう 私はどうしてここに連れて来られたの? 周りは見知らぬ人ばかりで、なんだかとっても怖い とっても不安 誰か教えて、ここは何処なの? あなたたちは誰なの? わけがわからないから、家へ帰ろうと 出口を探していると 後ろから笑顔のお姉さんに声をかけられて 元の場所に戻された 食事もお茶も出されたけれど、わけがわからなくて 食べる気がしない 寂しいし、不安だし だからやっぱり家に帰ろうと、出口を探していたら 後ろから笑顔がなくなったお姉さんに声をかけられて また、元の場所に戻された 何度も今日からここに泊まるんだと言われるけど なんのことだかわからない 私にはちゃんと家があるのに 頭の中が混乱して、どうしたらいいかわからない 泣きたいくらい不安 私、家に帰りたい、帰らせて すると笑顔の若いお兄さんがやってきた 私の話聞いてくれるのかな、安心できるのかな お兄さんはなにやら言うと、私を何処かへ誘導してくれる 安心できるのかな、家へ帰れるのかな 安心できるのかな、優しいお兄さんかな 連れられた場所 ここはお風呂? どうしてここに? なんで、どうして なんで服を脱がなきゃならないの なんでお風呂場にいるの 家に帰らせて! ここから出して! 気がついたら、お兄さんを叩いてた 叩くつもりはなかったのに 怖かったし、不安だったし わけがわからなかったから いつのまにか、大勢の人に囲まれて 冷たい視線で私のことを見ている 家に帰りたいだけなのに 悪いことしていないのに どうしてそんな目で私を見るの? 私はただ 色々なことが理解できなくて 寂しくて、怖くて、家に帰りたい ただそれだけなのに そんな気持ちをわかって欲しい 聴いて欲しい やさしくして欲しい ただそれだけなのに 誰もわかってくれない やさしく話を聴いて欲しい ただそれだけのことなのに それだけで 安心できるのに 私のことをわかって お願い… あるショートステイ利用者への複数回の聞き取りから、本人視点で考えてわかったこと (大府センター指導者による。石川が編集 2007)
ブログ投稿画像 センター長の石川です 今回は専門職向けのちょっと難しいお話しです。 私たちには自我がありますから、どうしても物事を主体的に捉えてしまいます。 極端な場合は、自分自身がコロナ感染したくない不安感や不満が、感染した人(或いはその患者の治療に従事している医療職の人に対しても)に対する激しい攻撃を行ってしまうことがあります。 感染した人やその対応をしている人の苦痛や不安を考えもせずに。 相手の気持ちなど考えないのです。 [caption id="attachment_1501" align="aligncenter" width="650"] 自分が大事 だからといって人を傷つける権利なんかない[/caption] 私たち、ケアの職場はどうでしょうか? 相手の気持ちを考え、その人の立場に立って考える。 大切な理念ですよね。 それでもやはり、職員集団の一員となると、 職員集団の状況のことをあれやこれやと考えてしまいます。 どうしても自分のことや、私たち職員側主体で考えてしまうのです。 私たちの仕事の都合や職員関係を優先させて物事を判断しがちになります。 つまり、「利用者の気持ちはわかるけど」と、「けど」が付くようになるのです。   しかしここで視点のリセットしてみましょう。 利用者の立場から見たらどうなのか。 利用者のAさん、Bさん、Cさんから、私たちを見たらどうみえているのか? 「常勤であろうが非常勤であろうが、外国人であろうが新人であろうが、他の職域の職員であろうが、私を心地よく生活させてくれる人ならば…」 と、思っているのではないでしょうか。 利用者から見れば、常勤もパートも新人も関係ないのです。 職員の都合も関係ないのです。 要は自分が生きていく上においてプラスになってくれる職員か否かなのです。 何故ならば、その命や生活をケアスタッフに委ねなければ生きていけない中で、 利用者にとっての主体的選択といえるのではないでしょうか。 「あんた、外国から来てるのによう頑張ってくれて、ありがとうなぁ~」 利用者は自分の心が安心できる人を、しっかりと見ているのです。 不思議なことに、ベテランや管理的立場になるほど「けど」が多くなり、 新人ほど素直に視点をリセットして見れることが出来るようです。 「人生の卒業式」に寄り添える仕事に誇りを持つこと。 皆さん、いい仕事に就いてますね! [caption id="attachment_1785" align="aligncenter" width="650"] ラグビー日本代表姫野選手です。熱いプレー、熱い仕事は心を刺激します。[/caption]
ブログ投稿画像 7月末、そして8月最初と 梅雨明けと同時に様々な方との関りがありました。 センター長の石川です。 [caption id="attachment_1807" align="aligncenter" width="650"] 長かった梅雨が明けました[/caption] それぞれに、それぞれなりに一生懸命生きておられる姿がそこにありました。   最初の関りから約4年、一人暮らしに終止符を打ち、息子さんがいる関東に行かれる方 [caption id="attachment_1806" align="aligncenter" width="650"] 扉の向こうには新たな生活が…[/caption] あまりにも思い出深く、デイサービスのお別れ際はきっと私は泣いてしまうだろうからと、 訪問を入れたりしました。   その訪問先の方は若年性認知症の方。 この方とも長いサポートですが、いよいよ身体的に転機を迎えてきたのかなと。 若年性認知症の方は、5年で20年分進んでしまったような感じです。 施設の前では、家を飛び出した認知症の夫を必死で追いかけてきた妻と本人の姿が。 [caption id="attachment_1808" align="aligncenter" width="650"] 認知症になっても一生懸命生きていかなければ[/caption] 冷たいものを飲んで一息。 出て行った本人の思い、そして妻のつらさ。 これから長いお付き合いになりそうなお二人でした。   そして施設の近くのお家では、 なかなかサービスに繋がらない包括支援センターが四苦八苦している方が行方知らずに…(無事帰られました) この方とも長いお付き合いになりそうです。 [caption id="attachment_1809" align="aligncenter" width="650"] デイサービスに来られた方の作品です[/caption] それぞれに、それぞれなりに必死に生きて、必死に苦しんで… 何よりも、それらの方々を一生懸命に支えようとしている職員たちがいる。 人生と言う名の模様の中で、ほんの少しでも支えになれればと思います。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 最近立て続けに、学生さんの投稿に「頑張ってるな~!」と感心させられる投稿を見つけました。 いずれも朝日新聞「声」欄、7月26,27日の分です。 コロナ禍で大変な状況 最近の罹患者は若者が圧倒的に多く、実のところ高齢者の端くれの私は、 自由奔放過ぎてコロナなんかどこ吹く風みたいな若者がいるとやはり距離を置いてしまいます。 ただこの投稿のように使命感に燃えた若者がいることも素敵だなと思います。 [caption id="attachment_1792" align="aligncenter" width="650"] 朝日新聞「声」欄 7月26日[/caption] 「たかがスーパーのレジバイト」ではなく、私たちの生活に必要不可欠な役割を担ってくれている若者なのです。 「地域の人々の生活を支えているんだという使命感」 私たちケアの仕事も同じですね。 その使命感に誇りを持つことです。 [caption id="attachment_1791" align="aligncenter" width="650"] 昨日と同じ虹です。レインボーではなく、レイン棒ですね。[/caption] そして、昨日のブログにも載せた投稿。 コロナ禍で、ともすれば人と人の繋がりが希薄になって行きます。 そのような中でも創意工夫をしてコミュニケーションを深めようとする姿があります。 [caption id="attachment_1793" align="aligncenter" width="650"] 朝日新聞「声」欄7月27日[/caption] 多くの制限が生じている現状。 単にやれないできないだけでなく、 このような状況だからこそ創意工夫をして人との繋がりを深めていこうという姿勢が必要だと思います。 それこそが、「介護とは、自分の未来を創ること」に繋がるのではないでしょうか。