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「認知症の教室(専門職用)」で記事を検索しました。

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2021.01.26

認知症の教室(専門職用)
若年性認知症の方との関り(12)【私が崩壊していくということ】 Bさんの行動は激しいものでした。 常に動き回り、それでいて足元が不安定のため、 何度か転倒もありました。 そのため、頭にはラグビー選手のようなヘッドギアを付け、 腰にはパットの入ったズボンをはいてもらいました。 それでも常に目が離せない存在だったのです。 Bさんのその目はいつも潤み、いつも何かを訴えるかのように私たちを見ます。 そして大声。 恐らくは何かを訴えたい、何かを話したい、だけどその言葉が出てこない。 本当なら医者として、まだまだバリバリと働きたいはずなのに どうしようもなく自分が崩壊していく姿への悲愴な叫びだったのかもしれません。 職員の中にBさんの診療所で働いていた看護師がいて、 「先生、先生!」 と、声を掛けます。 一瞬、何かを感じたのか、穏やかな表情になります。 医者が医者たる姿を見せた一瞬だったのかもしれません。 認知症になってもその姿は人それぞれです。 穏やかな人もいれば、そうでない人もいます。 いずれにしても、自分で望んだ道ではなかったでしょう。 Bさんからは、「こんなはずじゃない!どうして!?」という思いが強く伝わってきたのでした。 その認知症と言う病魔に襲われて、悲壮な状況に追いやられてしまった人のことを 私たちはあまりにも冷酷な目で「認知症の大変な人」という思いで見ているのかもしれません。 (つづく) センター長の石川でした。
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2021.01.22

認知症の教室(専門職用)
若年性認知症の方との関り(11)【女医さんの心の叫び】 Bさんが、私が生活相談員をしている認知症専門フロアに来られた時、既に認知症状が進行していました。 小さな身体の方でした。50歳代でしたが可愛らしい表情の方で、 人気の女医さんだったということがよくわかります。 開業医として、評判の良い女医さんだったのです。 ところが、もの忘れが目立つようになり、時に精神的に不安定になり、 医療器具をひっくり返して暴れることもあったそうです。 人の命を守る仕事ゆえ、家族は早々に医師の仕事を辞めさせました。 しかし、使命として医師の仕事に誇りを持っていたBさんが、 その仕事が出来なくなったことで、認知症状は一気に進行してしまったのです。 「医者の仕事を奪ってしまったことが、本人にはつらかったのでしょう。それから一気に認知症が進んでしまいました。でも人の命を預かる仕事ですから、間違いがあってはならなかったので仕方なかったのです。」 と、娘さんが寂しく語ってくれました。 施設に来られてからのBさんの表情は、いつも険しく、そして哀しい表情でした。 そして、「ワァー!」と大声で泣き叫ぶのでした。 足元が不安定なのにもがくように歩き、悲壮感あふれる泣き叫び。 その叫びは、「なんでなんで!?どうしてどうして!?」と言う、 今の自分の状況が到底受け入れられない激しい心の叫びのように思われました。 その叫び声は「こんなはずじゃない!!」と言う、 認知症の人のすさまじい訴えの声として私の心に深く残ったのでした。 センター長の石川でした。 (つづく)
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2021.01.20

認知症の教室(専門職用)
人は変われるか?ケアワークにおいて① センター長の石川です 人は変われるのか? その確信を持ったラグビー選手の話を前回書きました。 しかし、本当に人は変われるか?と言われると、かなり難しいことかもしれません。 一人ひとり違うということは、それぞれに個性があり、 その個性があるからこそ、この世の中は成り立っていると言えます。 もちろん、人は変われるかは、個性まで変えろと言ってるわけではありません。 ここでは、ケア職員としての在り方を問うと言うことになります。 つまり前回書いたラグビー選手が、自分の天性にかまけて努力もせず、チームワークも関係なく試合に出ていたのが、 人が変わったかのように練習に励み、チームワークに貢献したラグビー選手になったように、 ケアの世界で働くものとして、ケアワークに対しての心構えと言うか、在り方が変わっていけるのか? ということがテーマになります。 おそらくは、半日講座ぐらい開けるかなというぐらいのボリュームになりそうですが、 少しずつ小出しに書いていきます。 今日の生駒山です そもそも人には(と言うか生命体には)「生きていくためにあらゆる手段を使う」という本能が備わっています。 憎きコロナウイルスにしてもそうです。 ウイルスの変異が今私たちにとって脅威になっていますが、ウイルスにとっては生きていくがゆえの変異なのでしょう。 話が随分それてしまいました。 つまり人にも生きるための「自己防衛機能」が備わっているのです。 この自己防衛機能があるがゆえに、人の心構えが変わると言うのは至難の業になってきます。 例えば、何か失敗したときに上司から責められた時の「言い訳」はまさしく自己防衛機能が働いている姿だと言えます。 「仕方なかった、わからなかった、どうしようもなかった」などの言葉を並べて、 自分は悪くないと、自分の心のダメージや立場を悪くすることを防ぐための必死の行動と言えます。 昨夕、野口さんに手を振りました。 ニュアンスは異なりますが、私たちが認知症の人に押してしまう「作話」と言うレッテル。 はたから見れば、在りもしない、出来もしないことを必死になって話す姿は、 私たちにとって困った行動として「作話あり」と判断しますが、 しかしその行動は、認知症の人にとって、自分は大丈夫、しっかりしている、問題ないと、 必死に「認知症」という病魔に対抗し、生きていこうとする自己防衛反応の姿ともいえるのです。 では、ケアスタッフはどうすればその心構えが変わっていくのか? ひとつの方法として、この「自己防衛機能」を逆に活用すると言うものがあります。 ちょっと先まで、to be continued
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2021.01.18

認知症の教室(専門職用)
若年性認知症の方との集いと1月17日 1月16日(土)1月定例の若年性認知症の方との集い(楽カフェ)が開催されました。 今回は、ご家族様のグループに参加させてもらいました。 詳細は書けませんが、本当に苦労されている様子、 その中でも色々考えながらケアをされていること等 熱い思いが伝わってくるものでした。 デイサービスの利用などはあるものの、ほぼフルタイムでケアをして行かなければならないのが家族です。 その家族へのサポートを、もっと深めていかなければならないと思うのです。 さて、そのように本人、家族にとって大切な集いの時間ではあるので、開催はされるべきだとは思うのですが、 大阪は「緊急事態宣言」が出ているのです。 それは「人の動きを止める」ことが大切なのですが、宣言が出てもお構いなくという感じがします。 行政からして地域活動は止めるな!ですから、では何のための「緊急事態宣言」なのかと思ってしまいます。 単に飲食関係が、感染率が高いからと、まるで悪者にしているような感じですね。 震災メモリアル 昨日は1月17日 あれからもう26年も経過したのですね。 現地での救援活動は、今も深く脳裏に焼き付いて忘れられないものになっています。 というか、心の傷として残るくらいの衝撃だったかもしれません。 当時の救援活動を私は約3万7千字の文章として書き残していますが、そのうちのごく一部だけを転載します。 まずは初動の所から。正式救援隊の一員としてはこの時からですが、震災後すぐに先輩の安否確認のために現地には入っていました。ほぼ序章のようなところです。 JR神戸駅の時計 地震から10日後、大阪の老人福祉関係者の被災地支援策もようやくまとまり始め、被災地に対する援助が徐々に動きだした。阪神間の市街地には老人ホ-ムの数は少なく(当時)、大きな被害を受けている所は少なかった。殆どが北区や西区などの外周部にあり、建物自体には問題は少なかったが、市中心部からの緊急避難の高齢者が各施設に押し寄せ、どの施設も定員を遥かにオ-バ-した状態にあった。 そのため、まずそれらの施設に対する職員の応援派遣が実施された。大阪の各施設から選抜されたケア職員達が三田経由でそれらの施設に向かった。各施設ともライフラインは維持されており、派遣職員が寝食に困るということはなかったが、これらの施設とは対照的に、ライフラインが全く破壊されたうえに、目前に大きな被害を見つめることになった特別養護老人ホ-ムが二か所あった。芦屋市の「あしや聖徳園」と、長田区の「長田ケアホ-ム」だった。 「あしや聖徳園」は21歳の若いケア職員を失っている。山好きの女性で、休みの日にはいつも山に行っていたという。彼女の住む文化住宅は一階が崩壊、仲間達が懸命に瓦礫を掘り起こしたが、彼女の恋人が瓦礫の隙間から手を延ばし触れた彼女の手はすでに冷たくなっていた。彼は、嗚咽し泣き崩れたという。 阪神大震災は、数多くの恋人達の愛をも引き裂いていた…。(ケア職員の犠牲者も出た) 「長田ケアホ-ム」は施設の目の前までが火災で何もかもなくなってしまった。前一面が焼け野原となってしまったのだ。目前の火災の中で、多くの人達が生きながら焼かれてしまったのだ。 最初に救援に入った東灘区摂津本山付近 写真原本が不明のため、PCのワード画像より転写しているため、画像は見ずらいです. 次は実際の救援活動の一コマです。今も強く印象に残っているシーンです。 野寄公園にある自衛隊のテントの間に挟まれるように3~4人用の小さなテントが建っている。その小さなテントに寝たきりの母親を抱える息子夫婦が暮らしていた。3~4人用のテントといっても、ゆったりと寝ようと思えば2人までである。テントの中は非常に狭い空間なのだ。そのテントの外には辛うじて持ち出したと思われる洗面道具やバケツが置かれていた。 避難所の担当医師は、この老人の一般状態があまり良くないので入院の手配を進め、明日には入院出来るようになったと話してくれた。現在は点滴で何とか持ち堪えている状態だという。 しかし、寝たきりの彼女は私たちの前で、「家族と共に居たいから入院はしたくない。そのように、医者に伝えておいて欲しい。」と応えた。家族もその本人の意思を尊重した。 状態が悪化しつつある寝たきり老人が、劣悪な環境の続くテントでの生活を選んだ。 家を失い、生活を失い、全てのものを失った彼女にとって、家族は唯一失われずにそばに居てほしいものだった。ここで入院して離ればなれになって、家族までも失いたくなかったのだ。例え自分の命を縮めようとも、もうこれ以上、大切なものを失いたくはなかったのだ。 私たちは、そのテントをみつめることだけしかできなかった…。 その後、この家族がどうなったか、私は全く知らない。しかし、極限の中での人間の「絆」というものの強さを深く感じずにはいられなかった。 なす術なく立ちすくんでそのテントを見つめるだけの私達…。家族の「絆」を前にして、誰が「入院が最高の選択。」と云えるだろうか。 担当医師に本人と家族の意向を伝えると、その医師も何も云わなかった。いや、何も云えなかったのだ、きっと…。 厳しい寒さの中、その方はテントでの生活を選ばれた。人生最後の選択だったかもしれない。   センター長の石川でした。
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2021.01.13

認知症の教室(専門職用)
若年性認知症の方との関り(10)【慕われていた女医さんの発病】 センター長の石川です。 年が変わり、若年性認知症の方二人目の紹介です。 そもそも、何故若いうちに認知症状が出てしまうのか。 それはまだまだ不明なところが多いのです。 ただ、若年性認知症は、ほぼ高齢期の認知症と同様の原因(基礎疾患)により発症するということなのです。 厚生労働省の調査によると、若年性認知症の原因を基礎疾患別に見ると、脳血管性認知症が39.8%を占めています。 続いてアルツハイマー型認知症が25.4%、頭部外傷後遺症が7.7%、前頭側頭葉変性症(ピック病)が3.7%、アルコールの乱用によるアルコール性認知症が3.5%、レビー小体型認知症が3.0%となっています。 脳血管性及びアルツハイマー型で65%を占めているのです。 知らず知らずのうちに忍び寄ってくる暗雲 脳血管性についてはその原因はわかっていますが、それは何らかの病気として現れることが多いと言えます。 しかし私が接した方は、いつのまにか、つまりアルツハイマー病の方が多く、 その生活に知らずのうちに忍び寄ってきたと言える人がほとんどでした。 アルツハイマー病に関しては、脳に蓄積される不純物(アミロイドβ)が神経伝達組織を破壊してしまうことがわかってきました。 その蓄積量がオーバーフローするとアルツハイマー病を発症するのですが、 それが何故若いうちから?となると、不明な点も多いのです。 今回紹介させていただく女医さんのBさんも、本人自身全く予期せぬアルツハイマー病の発症だったと言えるかもしれません。 それはBさんの「叫び」が物語っていたのです。 (つづく)   大阪も緊急事態宣言発令されました。私の友人の施設もクラスターが発生しました。 まさしく、今直前にウイルスはいると言えます。 私が楽しみにしていたラグビートップリーグの開幕も、選手が次から次へと感染し、中止を余儀なくされています。 特に首都圏のチームに多く発症しており、やはり感染者数は危機的状況を物語っていると言えるかもしれません。 それでも負けないようにと、ここでは心がくじけそうになった時に見るビデオを時々載せていきます。 今回は中島みゆきのCoverですが、なかなか良いので聴いてください。 https://www.youtube.com/watch?v=KpX4Ko-5cEA  
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2020.12.29

認知症の教室(専門職用)
誇るべきプロジェクトメンバー センター長の石川です 今年は本当にとんでもない一年でしたね。 でも、皆様よく耐えられたと思います。 地域の皆様はじめ、多くの方々、本当に我慢と不安の一年でしたね。 ただ、年が変わっても、この冬の間はまだまだ我慢と不安の日が残念ながら続くと思います。 でも、来年は「レジリエンスresilience(逆境力、回復力、復元力などの意味)」の年です。 春を待ち、じっと地中で耐える虫や根っこのように、今少し耐えていきましょう。 今を耐えることが、ウイルス最前線(命の現場だけでなく、生活を支える多くの方々)で働く方々への応援になるのです。 今年はあまり写真を撮りにいけませんでしたが、この写真は今年を表す、お気に入りの写真となりました。 最後に、手前味噌になりますが、島之内のメンバーに感謝の言葉を。 めっちゃ大変な一年でした。 毎日が心身ともにしんどいと思います。 でも皆さんは、一介の介護職員、一介の相談員、看護職員、洗濯、清掃員、給食員ではないのです。 ただのケア職員の一員ではないのです。 皆さんはショートステイ含めて75名の方の、 人生のラストにケアが必要になった方を支えていく プロジェクトメンバーなのです。 それも年齢層を越えた国際チームの一人なのです。 このプロジェクトメンバーがいなければ、75名の方は悲惨な人生のラストを送ることになったかもしれません。 そうではないエンディングに向けて働いている皆さん。 認知症の方も皆さんを頼りにしているのです。 そんなプロジェクトメンバーの皆さんのことを私は誇りに思いますし、 誇りを持てる仕事として、自信を持ってもらえればと思います。 もちろん、在宅分野のプロジェクトメンバーの皆さんにも感謝です。 皆様の存在があってこそ、このコロナウイルスの苦境を地域の人は乗り越えていけるのです。 「ありがとうございます」の一言に尽きますね。     でも、愚痴をこぼしたいこともあるでしょう。 悩むこともあるでしょう。 聴くことしかできませんが、しんどくなったら 遠慮なく私を使ってください。 そして最後の最後に、そのプロジェクトメンバーの皆さんを引張っていく施設長。 本当にしんどい日々がまだまだ続きますが、施設長あってのプロジェクトメンバーです。 一番気苦労多い折れそうな細い体をみんなで支えていきましょう! それでは、今年のブログはこれにて終了です。 皆様、良い年をお迎えください。 来年は、レジリエンスです!
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2020.12.28

認知症の教室(専門職用)
まなざしの微笑み センター長の石川です 「まなざしの微笑み」と書くと、まるで「モナリザの微笑み」みたいですね。 ただモナリザは、顔全体の表情から、あの独特の微笑みを感じることが出来ます。 しかし、今はマスク着用の時代です。 著作の関係でマスクをしたモナリザの画像は載せられませんが、 目だけのモナリザでは微笑んでいるのかどうかわかりません。 しかし、マスクが必携な今、私たちはこの目だけで相手に思いを伝えることをやらなければなりません。 「目の表情」がとても重要なのです。 大きな世界を変える小さな個人   この目。意外とことわざが一杯あります。 「目から鱗が落ちる」「目くじらを立てる」「目のかたき」「目は口ほどに物を言う」「目は心の鏡」等々 目の表情は、その時のその人の心の動きを表すと言えるでしょう。 「目力」(めじから)がある人は、信念を持った人として捉えられます。 ただ「目が泳ぐ」人からすれば、「目力」を持った人は恐怖でしょう。 「目が泳ぐ」人は、人見知りや緊張もありますが、自信のなさ、不安、誤魔化しのある人と言えます。 ただ、ケアの現場では、「目が泳ぐ」(眼をそらす、きょろきょろするなど、相手が不安に感じてしまう目の表情)ケア職員だと、やはりケアを受ける側は不安になってしまいます。 相手を安心させるには、「微笑んだまなざし、そして信頼できそうな目力」+「温かいコミュニケーション」に「身振り手振り」を加えます。 認知症の方の場合、情報が入りにくいのでなおさら必要になりますね。 とにかく今は顔の中で表情が表現できるのは、目だけになります。 「まなざしの微笑み」は、相手の心をほぐす、最大要素です。 皆さんも「目の表情」をトレーニングしましょう! あたたかなまなざしは、冷えた心も温めてくれます。
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2020.12.25

認知症の教室(専門職用)
若年性認知症の方との関り(9)【涙する場面、そして最後の言葉】 Aさんへのケアは、Aさんに関わることによって、ケアスタッフのスキルアップにもつながっていきました。 当初は興奮状態もあったAさんでしたが、比較的穏やかに過ごされていたのではないかと記憶しています。 ケアスタッフたちも何もわからない中で(今のように認知症研修があるわけでもない時代) 試行錯誤と悪戦苦闘を繰り返しながら、認知症の人への関り方のスキルを上げていったのです。 しかし、Aさんの身体の状況は日増しに悪くなっていき、歩行もままならなくなってしまったのです。 これまでAさんの面会は妻が来るだけでしたが、何かを察したのか、ある日Aさんの妻は学生服姿の息子を連れてきました。 まるで階段を転がり落ちるかのようにAさんの心身の機能が衰えていくなか、 妻が誘ったのか、息子さんが会いたいと言ったのか、 それは定かではありませんが、久しぶりの親子の対面がありました。 化野念仏寺にて しかしAさんは息子を前にしても何も発せず、宙を見るだけです。 その時の息子さんの寂しそうな悲しそうな表情に、ケアスタッフたちは泣きました。 「いたたまれない気持ちになった…」とある年配のケアスタッフは涙したのです。 子ども思いだったというAさん。 息子さんの記憶に残っているであろう親子3人で楽しんだ日々、 やさしかった父のまなざし、そして変わっていく父の姿。 幸せだった家庭が崩壊し、暴れまくる父の横で黙々と塗りたくられた便を拭いていた、つらく惨めな日々。 そしてそれをずっと耐えなければならなかった日々。 さらに、自分の子どもを目の前にしても何も言えない何も反応しない父… Aさんをケアしてきたスタッフたちにとっても胸を締め付ける場面だったのです。 そして時が経ち、Aさんは寝たきりとなり、残り幾ばくもない日々となっていました。 そのような状況の中でAさんは何かを繰り返し呟いていたのです。 何を言っているのか私にはわかりませんでした。 Aさんがいよいよ末期になった時、あるケアスタッフが、 Aさんが何を呟いているのかと言うことがわかったと伝えに来てくれました。 「ずっと呟いている言葉、子どもさんの名前なのよ。最期の最期までやっぱりAさんは子どもさんのことを思っているのね。」 逢魔が時 不安と混乱と、愛してるよと伝えたい言葉も伝えられない、 自分でもどうすることもできない逢魔が時の暗さの中に飲み込まれても、 Aさんの心の中では子どもを思う気持ちが、その命の灯が燃え尽きるまで心の叫びとして生きていたのです。 思いを伝えられない状況になっても、愛する人を思う心は生きている。 だから認知症の人ではなく、ひとりの人なのです。 次回からは、可愛いべっぴんさんの女医さんと慕われていたBさんのお話しです。 センター長の石川でした。
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2020.12.24

認知症の教室(専門職用)
若年性認知症の方との関り(8)【どこまで家族を苦しめるのか】 Aさんが当ホームへ来られた時、既に認知症状はかなり進行している状況でした。 コミュニケーションは既に取れず、何でも口に入れてしまい、 年齢からは想像ができないほど腰が曲がり、歩行も不安定でした。 発する言葉もほとんどが意味不明で、認知症専用フロアにおられる方の中でも、 年齢は一番若いのだけど一番年老いた感じでした。 そして排泄を含め、食事に至るまで全て要介護の状況だったのです。 このような状況になるまで、妻は仕事に行きながら、 誰の助けもない中で、ひたすら自宅でケアを行っていたのです。 私自身、認知症ケアの理念となる「パーソン・センタード・ケア」など眼中にない時代。 大変な認知症の人が入ってきたという思いもあり、 若年性認知症の方がここまでひどく進行してしまうのかと言う、半ば観察的視点はあったかもしれません。 しかしこれまでの自宅での状況を知っている私には、反面熱い思いの芽生えもあったのです。 入所してしばらくして、ひとつの問題が生じました。Aさん自身にではありません。 妻より利用料が払えないと言ってきたのです。 状況を聞くと、電気水道代等も滞納が続き、それらが止められそうなくらいひっ迫しているとのことでした。 もちろん家賃や学費もあります。 妻はAさんが在宅時はパート勤めしかできず、今もよい仕事に巡り合えていないとのことでした。 多くの滞納を抱え、施設利用料の支払いも滞ったのです。 生駒山より吹田市方面を望む 妻によると、生活保護を希望したが受け入れられないとのこと。 このまま施設利用料を滞納となると、Aさん自身も大変なことになってしまいます。 妻の疲れ切った表情に、Aさんだけのことでなく、この家族も何とか助けなければならないと思いました。 仕事の範疇など関係ありません。 私はS市の担当と掛け合いましたが色よい返事はもらえません。 高齢課と保護課のやり取りもうまくいかないようです。 私もこの当時は若かったというか、血気盛んで、なんでAさん家族を救ってやれないのだとS市と激しくやりあい、 うまくいかない状況に事務所で悔し涙を流した記憶があります。 結果、S市の担当も頑張ってくれたのでしょう。 Aさん家族の生活保護が認定され、滞納だらけの状況から脱することが出来たのです。 何度も繰り返し書きますが、現在のように様々なサービスや制度が全くない時代。 その時代にも若年性認知症の方はおられたし、そして家族も悲壮な状況の中で耐え忍んでおられたのです。 今は、地域包括支援センターがあります。ケアマネジャーもホームヘルパーもいます。 デイサービスもショートステイもあります。入居系施設も増えました。 でもどうでしょうか?若年性認知症の方の苦しみ、介護家族のつらさ、 それらのことを果たしてどれだけサポートできているのか。 あらためて、サービスありきで、大切なことへのアプローチが忘れられているのではないか。 逆に言えば、これだけの介護サービスを本当にうまく活用できているのだろうかと思うのです。 次回、Aさんのお話しの最終話です。 センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 Bさんの行動は激しいものでした。 常に動き回り、それでいて足元が不安定のため、 何度か転倒もありました。 そのため、頭にはラグビー選手のようなヘッドギアを付け、 腰にはパットの入ったズボンをはいてもらいました。 それでも常に目が離せない存在だったのです。 Bさんのその目はいつも潤み、いつも何かを訴えるかのように私たちを見ます。 そして大声。 恐らくは何かを訴えたい、何かを話したい、だけどその言葉が出てこない。 本当なら医者として、まだまだバリバリと働きたいはずなのに どうしようもなく自分が崩壊していく姿への悲愴な叫びだったのかもしれません。 職員の中にBさんの診療所で働いていた看護師がいて、 「先生、先生!」 と、声を掛けます。 一瞬、何かを感じたのか、穏やかな表情になります。 医者が医者たる姿を見せた一瞬だったのかもしれません。 認知症になってもその姿は人それぞれです。 穏やかな人もいれば、そうでない人もいます。 いずれにしても、自分で望んだ道ではなかったでしょう。 Bさんからは、「こんなはずじゃない!どうして!?」という思いが強く伝わってきたのでした。 その認知症と言う病魔に襲われて、悲壮な状況に追いやられてしまった人のことを 私たちはあまりにも冷酷な目で「認知症の大変な人」という思いで見ているのかもしれません。 (つづく) センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 Bさんが、私が生活相談員をしている認知症専門フロアに来られた時、既に認知症状が進行していました。 小さな身体の方でした。50歳代でしたが可愛らしい表情の方で、 人気の女医さんだったということがよくわかります。 開業医として、評判の良い女医さんだったのです。 ところが、もの忘れが目立つようになり、時に精神的に不安定になり、 医療器具をひっくり返して暴れることもあったそうです。 人の命を守る仕事ゆえ、家族は早々に医師の仕事を辞めさせました。 しかし、使命として医師の仕事に誇りを持っていたBさんが、 その仕事が出来なくなったことで、認知症状は一気に進行してしまったのです。 「医者の仕事を奪ってしまったことが、本人にはつらかったのでしょう。それから一気に認知症が進んでしまいました。でも人の命を預かる仕事ですから、間違いがあってはならなかったので仕方なかったのです。」 と、娘さんが寂しく語ってくれました。 施設に来られてからのBさんの表情は、いつも険しく、そして哀しい表情でした。 そして、「ワァー!」と大声で泣き叫ぶのでした。 足元が不安定なのにもがくように歩き、悲壮感あふれる泣き叫び。 その叫びは、「なんでなんで!?どうしてどうして!?」と言う、 今の自分の状況が到底受け入れられない激しい心の叫びのように思われました。 その叫び声は「こんなはずじゃない!!」と言う、 認知症の人のすさまじい訴えの声として私の心に深く残ったのでした。 センター長の石川でした。 (つづく)
ブログ投稿画像 センター長の石川です 人は変われるのか? その確信を持ったラグビー選手の話を前回書きました。 しかし、本当に人は変われるか?と言われると、かなり難しいことかもしれません。 一人ひとり違うということは、それぞれに個性があり、 その個性があるからこそ、この世の中は成り立っていると言えます。 もちろん、人は変われるかは、個性まで変えろと言ってるわけではありません。 ここでは、ケア職員としての在り方を問うと言うことになります。 つまり前回書いたラグビー選手が、自分の天性にかまけて努力もせず、チームワークも関係なく試合に出ていたのが、 人が変わったかのように練習に励み、チームワークに貢献したラグビー選手になったように、 ケアの世界で働くものとして、ケアワークに対しての心構えと言うか、在り方が変わっていけるのか? ということがテーマになります。 おそらくは、半日講座ぐらい開けるかなというぐらいのボリュームになりそうですが、 少しずつ小出しに書いていきます。 [caption id="attachment_2318" align="aligncenter" width="650"] 今日の生駒山です[/caption] そもそも人には(と言うか生命体には)「生きていくためにあらゆる手段を使う」という本能が備わっています。 憎きコロナウイルスにしてもそうです。 ウイルスの変異が今私たちにとって脅威になっていますが、ウイルスにとっては生きていくがゆえの変異なのでしょう。 話が随分それてしまいました。 つまり人にも生きるための「自己防衛機能」が備わっているのです。 この自己防衛機能があるがゆえに、人の心構えが変わると言うのは至難の業になってきます。 例えば、何か失敗したときに上司から責められた時の「言い訳」はまさしく自己防衛機能が働いている姿だと言えます。 「仕方なかった、わからなかった、どうしようもなかった」などの言葉を並べて、 自分は悪くないと、自分の心のダメージや立場を悪くすることを防ぐための必死の行動と言えます。 [caption id="attachment_2317" align="aligncenter" width="650"] 昨夕、野口さんに手を振りました。[/caption] ニュアンスは異なりますが、私たちが認知症の人に押してしまう「作話」と言うレッテル。 はたから見れば、在りもしない、出来もしないことを必死になって話す姿は、 私たちにとって困った行動として「作話あり」と判断しますが、 しかしその行動は、認知症の人にとって、自分は大丈夫、しっかりしている、問題ないと、 必死に「認知症」という病魔に対抗し、生きていこうとする自己防衛反応の姿ともいえるのです。 では、ケアスタッフはどうすればその心構えが変わっていくのか? ひとつの方法として、この「自己防衛機能」を逆に活用すると言うものがあります。 ちょっと先まで、to be continued
ブログ投稿画像 1月16日(土)1月定例の若年性認知症の方との集い(楽カフェ)が開催されました。 今回は、ご家族様のグループに参加させてもらいました。 詳細は書けませんが、本当に苦労されている様子、 その中でも色々考えながらケアをされていること等 熱い思いが伝わってくるものでした。 デイサービスの利用などはあるものの、ほぼフルタイムでケアをして行かなければならないのが家族です。 その家族へのサポートを、もっと深めていかなければならないと思うのです。 さて、そのように本人、家族にとって大切な集いの時間ではあるので、開催はされるべきだとは思うのですが、 大阪は「緊急事態宣言」が出ているのです。 それは「人の動きを止める」ことが大切なのですが、宣言が出てもお構いなくという感じがします。 行政からして地域活動は止めるな!ですから、では何のための「緊急事態宣言」なのかと思ってしまいます。 単に飲食関係が、感染率が高いからと、まるで悪者にしているような感じですね。 [caption id="attachment_2310" align="aligncenter" width="650"] 震災メモリアル[/caption] 昨日は1月17日 あれからもう26年も経過したのですね。 現地での救援活動は、今も深く脳裏に焼き付いて忘れられないものになっています。 というか、心の傷として残るくらいの衝撃だったかもしれません。 当時の救援活動を私は約3万7千字の文章として書き残していますが、そのうちのごく一部だけを転載します。 まずは初動の所から。正式救援隊の一員としてはこの時からですが、震災後すぐに先輩の安否確認のために現地には入っていました。ほぼ序章のようなところです。 [caption id="attachment_2309" align="aligncenter" width="650"] JR神戸駅の時計[/caption] 地震から10日後、大阪の老人福祉関係者の被災地支援策もようやくまとまり始め、被災地に対する援助が徐々に動きだした。阪神間の市街地には老人ホ-ムの数は少なく(当時)、大きな被害を受けている所は少なかった。殆どが北区や西区などの外周部にあり、建物自体には問題は少なかったが、市中心部からの緊急避難の高齢者が各施設に押し寄せ、どの施設も定員を遥かにオ-バ-した状態にあった。 そのため、まずそれらの施設に対する職員の応援派遣が実施された。大阪の各施設から選抜されたケア職員達が三田経由でそれらの施設に向かった。各施設ともライフラインは維持されており、派遣職員が寝食に困るということはなかったが、これらの施設とは対照的に、ライフラインが全く破壊されたうえに、目前に大きな被害を見つめることになった特別養護老人ホ-ムが二か所あった。芦屋市の「あしや聖徳園」と、長田区の「長田ケアホ-ム」だった。 「あしや聖徳園」は21歳の若いケア職員を失っている。山好きの女性で、休みの日にはいつも山に行っていたという。彼女の住む文化住宅は一階が崩壊、仲間達が懸命に瓦礫を掘り起こしたが、彼女の恋人が瓦礫の隙間から手を延ばし触れた彼女の手はすでに冷たくなっていた。彼は、嗚咽し泣き崩れたという。 阪神大震災は、数多くの恋人達の愛をも引き裂いていた…。(ケア職員の犠牲者も出た) 「長田ケアホ-ム」は施設の目の前までが火災で何もかもなくなってしまった。前一面が焼け野原となってしまったのだ。目前の火災の中で、多くの人達が生きながら焼かれてしまったのだ。 最初に救援に入った東灘区摂津本山付近 写真原本が不明のため、PCのワード画像より転写しているため、画像は見ずらいです. 次は実際の救援活動の一コマです。今も強く印象に残っているシーンです。 野寄公園にある自衛隊のテントの間に挟まれるように3~4人用の小さなテントが建っている。その小さなテントに寝たきりの母親を抱える息子夫婦が暮らしていた。3~4人用のテントといっても、ゆったりと寝ようと思えば2人までである。テントの中は非常に狭い空間なのだ。そのテントの外には辛うじて持ち出したと思われる洗面道具やバケツが置かれていた。 避難所の担当医師は、この老人の一般状態があまり良くないので入院の手配を進め、明日には入院出来るようになったと話してくれた。現在は点滴で何とか持ち堪えている状態だという。 しかし、寝たきりの彼女は私たちの前で、「家族と共に居たいから入院はしたくない。そのように、医者に伝えておいて欲しい。」と応えた。家族もその本人の意思を尊重した。 状態が悪化しつつある寝たきり老人が、劣悪な環境の続くテントでの生活を選んだ。 家を失い、生活を失い、全てのものを失った彼女にとって、家族は唯一失われずにそばに居てほしいものだった。ここで入院して離ればなれになって、家族までも失いたくなかったのだ。例え自分の命を縮めようとも、もうこれ以上、大切なものを失いたくはなかったのだ。 私たちは、そのテントをみつめることだけしかできなかった…。 その後、この家族がどうなったか、私は全く知らない。しかし、極限の中での人間の「絆」というものの強さを深く感じずにはいられなかった。 なす術なく立ちすくんでそのテントを見つめるだけの私達…。家族の「絆」を前にして、誰が「入院が最高の選択。」と云えるだろうか。 担当医師に本人と家族の意向を伝えると、その医師も何も云わなかった。いや、何も云えなかったのだ、きっと…。 [caption id="attachment_2312" align="aligncenter" width="650"] 厳しい寒さの中、その方はテントでの生活を選ばれた。人生最後の選択だったかもしれない。[/caption]   センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 年が変わり、若年性認知症の方二人目の紹介です。 そもそも、何故若いうちに認知症状が出てしまうのか。 それはまだまだ不明なところが多いのです。 ただ、若年性認知症は、ほぼ高齢期の認知症と同様の原因(基礎疾患)により発症するということなのです。 厚生労働省の調査によると、若年性認知症の原因を基礎疾患別に見ると、脳血管性認知症が39.8%を占めています。 続いてアルツハイマー型認知症が25.4%、頭部外傷後遺症が7.7%、前頭側頭葉変性症(ピック病)が3.7%、アルコールの乱用によるアルコール性認知症が3.5%、レビー小体型認知症が3.0%となっています。 脳血管性及びアルツハイマー型で65%を占めているのです。 [caption id="attachment_2299" align="aligncenter" width="650"] 知らず知らずのうちに忍び寄ってくる暗雲[/caption] 脳血管性についてはその原因はわかっていますが、それは何らかの病気として現れることが多いと言えます。 しかし私が接した方は、いつのまにか、つまりアルツハイマー病の方が多く、 その生活に知らずのうちに忍び寄ってきたと言える人がほとんどでした。 アルツハイマー病に関しては、脳に蓄積される不純物(アミロイドβ)が神経伝達組織を破壊してしまうことがわかってきました。 その蓄積量がオーバーフローするとアルツハイマー病を発症するのですが、 それが何故若いうちから?となると、不明な点も多いのです。 今回紹介させていただく女医さんのBさんも、本人自身全く予期せぬアルツハイマー病の発症だったと言えるかもしれません。 それはBさんの「叫び」が物語っていたのです。 (つづく)   大阪も緊急事態宣言発令されました。私の友人の施設もクラスターが発生しました。 まさしく、今直前にウイルスはいると言えます。 私が楽しみにしていたラグビートップリーグの開幕も、選手が次から次へと感染し、中止を余儀なくされています。 特に首都圏のチームに多く発症しており、やはり感染者数は危機的状況を物語っていると言えるかもしれません。 それでも負けないようにと、ここでは心がくじけそうになった時に見るビデオを時々載せていきます。 今回は中島みゆきのCoverですが、なかなか良いので聴いてください。 https://www.youtube.com/watch?v=KpX4Ko-5cEA  
ブログ投稿画像 センター長の石川です 今年は本当にとんでもない一年でしたね。 でも、皆様よく耐えられたと思います。 地域の皆様はじめ、多くの方々、本当に我慢と不安の一年でしたね。 ただ、年が変わっても、この冬の間はまだまだ我慢と不安の日が残念ながら続くと思います。 でも、来年は「レジリエンスresilience(逆境力、回復力、復元力などの意味)」の年です。 春を待ち、じっと地中で耐える虫や根っこのように、今少し耐えていきましょう。 今を耐えることが、ウイルス最前線(命の現場だけでなく、生活を支える多くの方々)で働く方々への応援になるのです。 [caption id="attachment_1601" align="aligncenter" width="650"] 今年はあまり写真を撮りにいけませんでしたが、この写真は今年を表す、お気に入りの写真となりました。[/caption] 最後に、手前味噌になりますが、島之内のメンバーに感謝の言葉を。 めっちゃ大変な一年でした。 毎日が心身ともにしんどいと思います。 でも皆さんは、一介の介護職員、一介の相談員、看護職員、洗濯、清掃員、給食員ではないのです。 ただのケア職員の一員ではないのです。 皆さんはショートステイ含めて75名の方の、 人生のラストにケアが必要になった方を支えていく プロジェクトメンバーなのです。 それも年齢層を越えた国際チームの一人なのです。 このプロジェクトメンバーがいなければ、75名の方は悲惨な人生のラストを送ることになったかもしれません。 そうではないエンディングに向けて働いている皆さん。 認知症の方も皆さんを頼りにしているのです。 そんなプロジェクトメンバーの皆さんのことを私は誇りに思いますし、 誇りを持てる仕事として、自信を持ってもらえればと思います。 もちろん、在宅分野のプロジェクトメンバーの皆さんにも感謝です。 皆様の存在があってこそ、このコロナウイルスの苦境を地域の人は乗り越えていけるのです。 「ありがとうございます」の一言に尽きますね。     でも、愚痴をこぼしたいこともあるでしょう。 悩むこともあるでしょう。 聴くことしかできませんが、しんどくなったら 遠慮なく私を使ってください。 そして最後の最後に、そのプロジェクトメンバーの皆さんを引張っていく施設長。 本当にしんどい日々がまだまだ続きますが、施設長あってのプロジェクトメンバーです。 一番気苦労多い折れそうな細い体をみんなで支えていきましょう! それでは、今年のブログはこれにて終了です。 皆様、良い年をお迎えください。 来年は、レジリエンスです!
ブログ投稿画像 センター長の石川です 「まなざしの微笑み」と書くと、まるで「モナリザの微笑み」みたいですね。 ただモナリザは、顔全体の表情から、あの独特の微笑みを感じることが出来ます。 しかし、今はマスク着用の時代です。 著作の関係でマスクをしたモナリザの画像は載せられませんが、 目だけのモナリザでは微笑んでいるのかどうかわかりません。 しかし、マスクが必携な今、私たちはこの目だけで相手に思いを伝えることをやらなければなりません。 「目の表情」がとても重要なのです。 [caption id="attachment_1880" align="alignnone" width="650"] 大きな世界を変える小さな個人[/caption]   この目。意外とことわざが一杯あります。 「目から鱗が落ちる」「目くじらを立てる」「目のかたき」「目は口ほどに物を言う」「目は心の鏡」等々 目の表情は、その時のその人の心の動きを表すと言えるでしょう。 「目力」(めじから)がある人は、信念を持った人として捉えられます。 ただ「目が泳ぐ」人からすれば、「目力」を持った人は恐怖でしょう。 「目が泳ぐ」人は、人見知りや緊張もありますが、自信のなさ、不安、誤魔化しのある人と言えます。 ただ、ケアの現場では、「目が泳ぐ」(眼をそらす、きょろきょろするなど、相手が不安に感じてしまう目の表情)ケア職員だと、やはりケアを受ける側は不安になってしまいます。 相手を安心させるには、「微笑んだまなざし、そして信頼できそうな目力」+「温かいコミュニケーション」に「身振り手振り」を加えます。 認知症の方の場合、情報が入りにくいのでなおさら必要になりますね。 とにかく今は顔の中で表情が表現できるのは、目だけになります。 「まなざしの微笑み」は、相手の心をほぐす、最大要素です。 皆さんも「目の表情」をトレーニングしましょう! あたたかなまなざしは、冷えた心も温めてくれます。
ブログ投稿画像 Aさんへのケアは、Aさんに関わることによって、ケアスタッフのスキルアップにもつながっていきました。 当初は興奮状態もあったAさんでしたが、比較的穏やかに過ごされていたのではないかと記憶しています。 ケアスタッフたちも何もわからない中で(今のように認知症研修があるわけでもない時代) 試行錯誤と悪戦苦闘を繰り返しながら、認知症の人への関り方のスキルを上げていったのです。 しかし、Aさんの身体の状況は日増しに悪くなっていき、歩行もままならなくなってしまったのです。 これまでAさんの面会は妻が来るだけでしたが、何かを察したのか、ある日Aさんの妻は学生服姿の息子を連れてきました。 まるで階段を転がり落ちるかのようにAさんの心身の機能が衰えていくなか、 妻が誘ったのか、息子さんが会いたいと言ったのか、 それは定かではありませんが、久しぶりの親子の対面がありました。 [caption id="attachment_1839" align="aligncenter" width="650"] 化野念仏寺にて[/caption] しかしAさんは息子を前にしても何も発せず、宙を見るだけです。 その時の息子さんの寂しそうな悲しそうな表情に、ケアスタッフたちは泣きました。 「いたたまれない気持ちになった…」とある年配のケアスタッフは涙したのです。 子ども思いだったというAさん。 息子さんの記憶に残っているであろう親子3人で楽しんだ日々、 やさしかった父のまなざし、そして変わっていく父の姿。 幸せだった家庭が崩壊し、暴れまくる父の横で黙々と塗りたくられた便を拭いていた、つらく惨めな日々。 そしてそれをずっと耐えなければならなかった日々。 さらに、自分の子どもを目の前にしても何も言えない何も反応しない父… Aさんをケアしてきたスタッフたちにとっても胸を締め付ける場面だったのです。 そして時が経ち、Aさんは寝たきりとなり、残り幾ばくもない日々となっていました。 そのような状況の中でAさんは何かを繰り返し呟いていたのです。 何を言っているのか私にはわかりませんでした。 Aさんがいよいよ末期になった時、あるケアスタッフが、 Aさんが何を呟いているのかと言うことがわかったと伝えに来てくれました。 「ずっと呟いている言葉、子どもさんの名前なのよ。最期の最期までやっぱりAさんは子どもさんのことを思っているのね。」 [caption id="attachment_2247" align="aligncenter" width="650"] 逢魔が時[/caption] 不安と混乱と、愛してるよと伝えたい言葉も伝えられない、 自分でもどうすることもできない逢魔が時の暗さの中に飲み込まれても、 Aさんの心の中では子どもを思う気持ちが、その命の灯が燃え尽きるまで心の叫びとして生きていたのです。 思いを伝えられない状況になっても、愛する人を思う心は生きている。 だから認知症の人ではなく、ひとりの人なのです。 次回からは、可愛いべっぴんさんの女医さんと慕われていたBさんのお話しです。 センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 Aさんが当ホームへ来られた時、既に認知症状はかなり進行している状況でした。 コミュニケーションは既に取れず、何でも口に入れてしまい、 年齢からは想像ができないほど腰が曲がり、歩行も不安定でした。 発する言葉もほとんどが意味不明で、認知症専用フロアにおられる方の中でも、 年齢は一番若いのだけど一番年老いた感じでした。 そして排泄を含め、食事に至るまで全て要介護の状況だったのです。 このような状況になるまで、妻は仕事に行きながら、 誰の助けもない中で、ひたすら自宅でケアを行っていたのです。 私自身、認知症ケアの理念となる「パーソン・センタード・ケア」など眼中にない時代。 大変な認知症の人が入ってきたという思いもあり、 若年性認知症の方がここまでひどく進行してしまうのかと言う、半ば観察的視点はあったかもしれません。 しかしこれまでの自宅での状況を知っている私には、反面熱い思いの芽生えもあったのです。 入所してしばらくして、ひとつの問題が生じました。Aさん自身にではありません。 妻より利用料が払えないと言ってきたのです。 状況を聞くと、電気水道代等も滞納が続き、それらが止められそうなくらいひっ迫しているとのことでした。 もちろん家賃や学費もあります。 妻はAさんが在宅時はパート勤めしかできず、今もよい仕事に巡り合えていないとのことでした。 多くの滞納を抱え、施設利用料の支払いも滞ったのです。 [caption id="attachment_2242" align="aligncenter" width="650"] 生駒山より吹田市方面を望む[/caption] 妻によると、生活保護を希望したが受け入れられないとのこと。 このまま施設利用料を滞納となると、Aさん自身も大変なことになってしまいます。 妻の疲れ切った表情に、Aさんだけのことでなく、この家族も何とか助けなければならないと思いました。 仕事の範疇など関係ありません。 私はS市の担当と掛け合いましたが色よい返事はもらえません。 高齢課と保護課のやり取りもうまくいかないようです。 私もこの当時は若かったというか、血気盛んで、なんでAさん家族を救ってやれないのだとS市と激しくやりあい、 うまくいかない状況に事務所で悔し涙を流した記憶があります。 結果、S市の担当も頑張ってくれたのでしょう。 Aさん家族の生活保護が認定され、滞納だらけの状況から脱することが出来たのです。 何度も繰り返し書きますが、現在のように様々なサービスや制度が全くない時代。 その時代にも若年性認知症の方はおられたし、そして家族も悲壮な状況の中で耐え忍んでおられたのです。 今は、地域包括支援センターがあります。ケアマネジャーもホームヘルパーもいます。 デイサービスもショートステイもあります。入居系施設も増えました。 でもどうでしょうか?若年性認知症の方の苦しみ、介護家族のつらさ、 それらのことを果たしてどれだけサポートできているのか。 あらためて、サービスありきで、大切なことへのアプローチが忘れられているのではないか。 逆に言えば、これだけの介護サービスを本当にうまく活用できているのだろうかと思うのです。 次回、Aさんのお話しの最終話です。 センター長の石川でした。