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「認知症の教室(専門職用)」で記事を検索しました。

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2024.06.03

認知症の教室(専門職用)
靴の履き間違えから ~「なんでも包括」の背景にあるもの~ 靴を履き間違えてお出掛けしたことはありませんか? 例えば、他人の靴を履いて帰るとか、左右別の靴を履いていくとか… 幸い私はまだそのようなことはありませんが、 いつやってしまうかもしれない出来事なのです。 最近訪問先で、靴を間違えて履いて帰ったという職員の話を聞いて思い出したことがありました。 私が大阪市の地域包括支援センターに在籍していた頃です。 地域のある開業医から電話が入りました。 「患者のAさんが、別の患者さんの靴を履いて帰った、家に行って取り戻してほしい。」 という内容でした。 「なんでも包括」と言われるように、最近は多種多様なことで包括に電話が掛かってきます。 この時も、「なんやねんこのドクター、そんなことで電話してくんな!」と思いました。 頭の中では愚痴と文句が溢れてましたが、 もしかしたら認知症状がある方かもしれないと思い、訪問することにしました。 この街のシンボル「見返りトミー」   Aさんは独り暮らしなのですが、自宅を訪問すると、黒ピカの靴が一杯玄関にありました。 ドクターからエナメルの黒い靴と聞いていたのですが、 どれが病院から履いて帰って来たのかわかりません。 ご本人はとても陽気な女性で、 「そうか、すまんすまん、どれが履いてきた靴かわからんわ。みんな持って行ってええよ。」と言われたのです。 どうやらAさんはきれいな靴を見かけると、 自分の汚れた靴を置いて、きれいな靴を履いて帰ってくるようです。 仕方なく私は、きれいな靴を全部持って開業医のところへ行ったのですが、 「他人が履いた靴なんかもう履けない。」と患者が言っていたので、 もういいよとのドクターからの返事でした。 ムカッと来た私でしたが、本人が置いていった汚れた靴をプラスして、Aさんの家に帰りました。 これがきっかけで、Aさんと関わるようになり、 認知症状が明確に出ていることがわかり、支援が必要なところがいくつもあったため、 介護サービス導入へと繋がっていったのです。 最初は「間違った靴を取り戻してほしい」というドクターからのとんでもない電話でしたが、 結果、独居の認知症高齢者の支援に繋がりました。 「なんでも包括」は困ったものですが、 中にはその背景に支援と繋がるものが隠れているとも言えます。 因みにこの開業医とは、このことがきっかけになり、 その他のケースとも気軽に連携が取れるようになりました。 ある意味Aさんの行動が、色々な人とのつながりを生み出したとも言えます。 Aさんはお散歩好きで、道端で会うこともありました。 「これから、がんこへ(がんこ寿司)食べに行くねん。一緒に行こか?」と言われたことがあります。 陽気なAさんでしたが、その人生のラストシーンは哀しいものでした。
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2024.05.11

認知症の教室(専門職用)
16年後には認知症の人584万人? 厚労省の推計が出ましたね。 2040年には認知症の人が584万人になるとのこと。 軽度認知障がい(MCI)の方を含めると、 2060年には65歳以上の3人に1人が、 認知症若しくはその可能性のある方ということになります。 要するに、「決して他人事ではないですよ」 「認知症予防に心掛けましょう」ということを言いたいのだと思います。 自分が認知症になる可能性があることもさることながら、 その認知症の人を介護する家族などの立場の人も 増加するということにもなります。 認知症の人の数だけでなく、認知症の人が増えれば、 介護する人も増えるということ、そして個人の問題だけでは済まず、 地域の問題にもなっていくと言えるでしょう。 認知症のご本人をどのようにサポートするか、 介護者を同じくどのようにサポートするのか、 そして地域としてどのようにサポートするのか、 課題は山積の状態のまま、「まだ他人事」と思っている現状から、 気が付けば「自分事」になっているのです。 ただ、認知症になっても、或いは介護者になっても 「恐れることなく」受け入れられる体制作り。 それが急がれる状況なのです。      
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2024.05.08

認知症の教室(専門職用)
音楽は人と人を繋げられるか 昨夜家に遅めに帰り、つけたテレビの番組。 何故人類は音楽を生み出したのか、途中から見たので、そんな題名だったと思います。 その番組で、認知症の人と音楽についても、脳科学的にその効果について説明されていました。 詳細は映像を見直してからでないと書けませんが、 イギリスの認知症病棟の人々が、ビートルズの歌をみんなで合唱するシーンは圧巻でした。 特に脳の機能がフルパワーになる、 思春期に聞いた音楽は、強力に脳に残るようです。 認知症の人への音楽の効用は、これまで多くの研究で言われていることなので、 今更言うまでもないことなのですが、療法と構えるだけでなく、 日頃から気軽にそして身近に使えるものとして、音楽があるということでしょう。 注意する点は音楽をかける側にあります。 果たしてその音楽が、その方にあっているのかどうか、 そして聞かせてほったらかしにしていないかどうか、 認知症の人ではなく、ケア側の問題が大きいのかなと思います。 音楽が何故人類に生まれたか?  化石として残っているものではないので、その研究はまだ途上だそうですが、 恐らくは、「音楽は人と人を繋げる」ために生まれたのではないかということです。 ですから、認知症の人と音楽を聴く場合、 ともに楽しむということを忘れてはならないでしょう。   もしかしたら、音楽は、世界の人々を結び付けられる力を持ったものだと思うのですが、 残念ながら、銃声や破壊音、そして人が殺されていく悲惨な戦争の前に、 音楽はかき消され、失われてしまっているのかもしれません。
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2024.05.02

認知症の教室(専門職用)
底なし沼と地域包括支援センター(2) 地域包括支援センター職員のプライド、 それは、行政や誰にも見放されるようなケースも「なんとかする」、 最後の砦としての頑張りにあります。 本当に大変なケースに関わり、親身になって当該ケースだけでなく、 その地域に貢献していく姿は、もっと称賛され評価されてもいいのです。 しかし、同時にそれは包括支援センター職員が底なし沼にはまり込む危険性もはらんでいます。 以前私が包括支援センターにいたときも、 「私たちがやらなければ誰がやる?」という、最後の砦の者として、 「え?包括はそこまでやらなければならないの?」と言われながらも、 「私たちがやらねば誰がやる?」という意識の元でやっていました。 いわゆる「熱き包括魂」ともいえるかもしれません。 ある意味、「昭和的」な心意気ですね。 そして今でもケースのために一生懸命頑張るうえでの、 超過勤務の連続というところもあるかもしれません。 でもそれは、底なし沼に足を突っ込むことにもなります。 知らずのうちに心身の疲労困憊に繋がり、 それは自らのパフォーマンス(心身の行動力)を落とすことにもなりかねません。 「そのケースのためなら、私の命を縮めても構わない」という覚悟があるのなら別ですが、 そのケースだけでなく、多くの支援を必要としている人が待っているのですから、 自分のパフォーマンスを落とさないようにすることも仕事のうちです。 「昭和的な心意気」は、もう時代には合わないのでしょう。 「包括魂」は持ちつつも、「私たちがやらなければ誰がやる」の時代から、 「私たちもやるけど、みんなでやっていこう」というスタイルにシフトすること。 抱え込むと、困っている人のために、自らの骨身を削り、遅くまで残る。 結果、パフォーマンスを落とすという沼にはまってしまいます。 それは地域にも組織にも良い影響を与えないということでしょう。 自分のパフォーマンスを落とさない働き方をするのもプロの仕事のうちです。 話が少しそれましたが、地域包括支援センターの仕事は、 心身の疲労という底なし沼に陥る危険性をはらんだ職種であることです。 私たちはこれだけ頑張っているという自負心は受け止めつつ、 包括が頑張りすぎると、他者はなおさら包括に任そうとします。 行政も関係者も一緒に進んでいく道を探ること。 逃げようとする行政職がいるなら、首根っこ捕まえてひっつかまえるのではなく、 「あなたがいるととても助かる、ありがたい!」と言って仲間に引き入れること。 或いは「助けて!」って言っても構わないのです。 包括だけが背負うことはないのです。 時に割り切ることも必要です。 ストレスが溜まったら、誰でもいいので話を聞いてもらうこと。 とにかく包括職員だけで抱え込まないことです。 でないと、最後の砦としての「包括魂」が発揮できないことになります。 また地域包括支援センター職員へのフォロー体制を、公的に整えてあげないと、 「なんでも包括」の時代、もう少しねぎらう体制があってもいいのかなとも思うのです。
ブログ投稿画像 靴を履き間違えてお出掛けしたことはありませんか? 例えば、他人の靴を履いて帰るとか、左右別の靴を履いていくとか… 幸い私はまだそのようなことはありませんが、 いつやってしまうかもしれない出来事なのです。 最近訪問先で、靴を間違えて履いて帰ったという職員の話を聞いて思い出したことがありました。 私が大阪市の地域包括支援センターに在籍していた頃です。 地域のある開業医から電話が入りました。 「患者のAさんが、別の患者さんの靴を履いて帰った、家に行って取り戻してほしい。」 という内容でした。 「なんでも包括」と言われるように、最近は多種多様なことで包括に電話が掛かってきます。 この時も、「なんやねんこのドクター、そんなことで電話してくんな!」と思いました。 頭の中では愚痴と文句が溢れてましたが、 もしかしたら認知症状がある方かもしれないと思い、訪問することにしました。 [caption id="attachment_5662" align="alignnone" width="1024"] この街のシンボル「見返りトミー」[/caption]   Aさんは独り暮らしなのですが、自宅を訪問すると、黒ピカの靴が一杯玄関にありました。 ドクターからエナメルの黒い靴と聞いていたのですが、 どれが病院から履いて帰って来たのかわかりません。 ご本人はとても陽気な女性で、 「そうか、すまんすまん、どれが履いてきた靴かわからんわ。みんな持って行ってええよ。」と言われたのです。 どうやらAさんはきれいな靴を見かけると、 自分の汚れた靴を置いて、きれいな靴を履いて帰ってくるようです。 仕方なく私は、きれいな靴を全部持って開業医のところへ行ったのですが、 「他人が履いた靴なんかもう履けない。」と患者が言っていたので、 もういいよとのドクターからの返事でした。 ムカッと来た私でしたが、本人が置いていった汚れた靴をプラスして、Aさんの家に帰りました。 これがきっかけで、Aさんと関わるようになり、 認知症状が明確に出ていることがわかり、支援が必要なところがいくつもあったため、 介護サービス導入へと繋がっていったのです。 最初は「間違った靴を取り戻してほしい」というドクターからのとんでもない電話でしたが、 結果、独居の認知症高齢者の支援に繋がりました。 「なんでも包括」は困ったものですが、 中にはその背景に支援と繋がるものが隠れているとも言えます。 因みにこの開業医とは、このことがきっかけになり、 その他のケースとも気軽に連携が取れるようになりました。 ある意味Aさんの行動が、色々な人とのつながりを生み出したとも言えます。 Aさんはお散歩好きで、道端で会うこともありました。 「これから、がんこへ(がんこ寿司)食べに行くねん。一緒に行こか?」と言われたことがあります。 陽気なAさんでしたが、その人生のラストシーンは哀しいものでした。
ブログ投稿画像 久しぶりのブログです。 なんだかんだとバタバタすると、ついついブログをさぼってしまいます。 さて、16年後には3人に1人が認知症若しくは予備軍の人になるというニュースを元に 地域でのサポーター講座を実施しました。 「16年後は生きてないわ」という参加者の皆さんの大爆笑の中、サポーター講座が始まりました。 16年後には3人に1人? その意味するところは、 「決して他人ごとではない」ということ、「認知症予防に心掛けること」 そして、「助けあう地域づくりが急務」ということです。 今回のサポーター講座は、その3つのテーマを元に行いました。 もちろん、主体は「助けあう地域づくり」のための、認知症の人の理解と声の掛け方です。 この地域の皆さん、とても明るく真剣でした。 そして、ちょっとしたおせっかいな見守りをお願いしました。 同時に認知症予防への関心も高く、地域は見守りだけでなく、活き活きした繋がりにも 大切なのだと痛感した次第です。 [caption id="attachment_5649" align="alignnone" width="1024"] 地域の代表の方も、健康寿命を延ばすための働きかけをしています。[/caption] [caption id="attachment_5650" align="alignnone" width="1024"] 町会長の協力あってこそですね。[/caption]      
ブログ投稿画像 厚労省の推計が出ましたね。 2040年には認知症の人が584万人になるとのこと。 軽度認知障がい(MCI)の方を含めると、 2060年には65歳以上の3人に1人が、 認知症若しくはその可能性のある方ということになります。 要するに、「決して他人事ではないですよ」 「認知症予防に心掛けましょう」ということを言いたいのだと思います。 自分が認知症になる可能性があることもさることながら、 その認知症の人を介護する家族などの立場の人も 増加するということにもなります。 認知症の人の数だけでなく、認知症の人が増えれば、 介護する人も増えるということ、そして個人の問題だけでは済まず、 地域の問題にもなっていくと言えるでしょう。 認知症のご本人をどのようにサポートするか、 介護者を同じくどのようにサポートするのか、 そして地域としてどのようにサポートするのか、 課題は山積の状態のまま、「まだ他人事」と思っている現状から、 気が付けば「自分事」になっているのです。 ただ、認知症になっても、或いは介護者になっても 「恐れることなく」受け入れられる体制作り。 それが急がれる状況なのです。      
ブログ投稿画像 昨夜家に遅めに帰り、つけたテレビの番組。 何故人類は音楽を生み出したのか、途中から見たので、そんな題名だったと思います。 その番組で、認知症の人と音楽についても、脳科学的にその効果について説明されていました。 詳細は映像を見直してからでないと書けませんが、 イギリスの認知症病棟の人々が、ビートルズの歌をみんなで合唱するシーンは圧巻でした。 特に脳の機能がフルパワーになる、 思春期に聞いた音楽は、強力に脳に残るようです。 認知症の人への音楽の効用は、これまで多くの研究で言われていることなので、 今更言うまでもないことなのですが、療法と構えるだけでなく、 日頃から気軽にそして身近に使えるものとして、音楽があるということでしょう。 注意する点は音楽をかける側にあります。 果たしてその音楽が、その方にあっているのかどうか、 そして聞かせてほったらかしにしていないかどうか、 認知症の人ではなく、ケア側の問題が大きいのかなと思います。 音楽が何故人類に生まれたか?  化石として残っているものではないので、その研究はまだ途上だそうですが、 恐らくは、「音楽は人と人を繋げる」ために生まれたのではないかということです。 ですから、認知症の人と音楽を聴く場合、 ともに楽しむということを忘れてはならないでしょう。   もしかしたら、音楽は、世界の人々を結び付けられる力を持ったものだと思うのですが、 残念ながら、銃声や破壊音、そして人が殺されていく悲惨な戦争の前に、 音楽はかき消され、失われてしまっているのかもしれません。
ブログ投稿画像 地域包括支援センター職員のプライド、 それは、行政や誰にも見放されるようなケースも「なんとかする」、 最後の砦としての頑張りにあります。 本当に大変なケースに関わり、親身になって当該ケースだけでなく、 その地域に貢献していく姿は、もっと称賛され評価されてもいいのです。 しかし、同時にそれは包括支援センター職員が底なし沼にはまり込む危険性もはらんでいます。 以前私が包括支援センターにいたときも、 「私たちがやらなければ誰がやる?」という、最後の砦の者として、 「え?包括はそこまでやらなければならないの?」と言われながらも、 「私たちがやらねば誰がやる?」という意識の元でやっていました。 いわゆる「熱き包括魂」ともいえるかもしれません。 ある意味、「昭和的」な心意気ですね。 そして今でもケースのために一生懸命頑張るうえでの、 超過勤務の連続というところもあるかもしれません。 でもそれは、底なし沼に足を突っ込むことにもなります。 知らずのうちに心身の疲労困憊に繋がり、 それは自らのパフォーマンス(心身の行動力)を落とすことにもなりかねません。 「そのケースのためなら、私の命を縮めても構わない」という覚悟があるのなら別ですが、 そのケースだけでなく、多くの支援を必要としている人が待っているのですから、 自分のパフォーマンスを落とさないようにすることも仕事のうちです。 「昭和的な心意気」は、もう時代には合わないのでしょう。 「包括魂」は持ちつつも、「私たちがやらなければ誰がやる」の時代から、 「私たちもやるけど、みんなでやっていこう」というスタイルにシフトすること。 抱え込むと、困っている人のために、自らの骨身を削り、遅くまで残る。 結果、パフォーマンスを落とすという沼にはまってしまいます。 それは地域にも組織にも良い影響を与えないということでしょう。 自分のパフォーマンスを落とさない働き方をするのもプロの仕事のうちです。 話が少しそれましたが、地域包括支援センターの仕事は、 心身の疲労という底なし沼に陥る危険性をはらんだ職種であることです。 私たちはこれだけ頑張っているという自負心は受け止めつつ、 包括が頑張りすぎると、他者はなおさら包括に任そうとします。 行政も関係者も一緒に進んでいく道を探ること。 逃げようとする行政職がいるなら、首根っこ捕まえてひっつかまえるのではなく、 「あなたがいるととても助かる、ありがたい!」と言って仲間に引き入れること。 或いは「助けて!」って言っても構わないのです。 包括だけが背負うことはないのです。 時に割り切ることも必要です。 ストレスが溜まったら、誰でもいいので話を聞いてもらうこと。 とにかく包括職員だけで抱え込まないことです。 でないと、最後の砦としての「包括魂」が発揮できないことになります。 また地域包括支援センター職員へのフォロー体制を、公的に整えてあげないと、 「なんでも包括」の時代、もう少しねぎらう体制があってもいいのかなとも思うのです。