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「認知症の教室(専門職用)」で記事を検索しました。

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2024.02.14

認知症の教室(専門職用)
木浪選手の心意気 朝の通勤時は色々なゲストの話をラジオで聞いています。 多様な職種の人の話を聞けるのは、知らない世界の話が一杯聞けて楽しいですね。 ラジオなので想像力をも働かせます。 今朝は、阪神タイガースの木浪選手のインタビューでした。 まぁ野球という、比較的皆さんが知っている世界の話ですが、 おもしろかったのは、8番バッターとしての木浪選手の心意気でした。 8番バッターというのは、野球の世界では、 レギュラー選手でも一番期待されていない打順の選手というイメージがあります。 しかし昨年の阪神タイガースで、最恐の8番バッターとして、 その存在の大きさを示した選手でした。 最強ではなく、最も恐れられる8番バッターとして君臨したのです。 その木浪選手、今年も8番バッターを希望したそうです。 普通なら昨年の活躍から、もっと早い打順も希望できるのにかかわらず。 木浪選手自体も最初は「8番バッターかぁ…」という残念な気持ちは当初あったそうです。 しかし8番バッターが何かと頑張る中で、得点や勝利に繋がっているということが見えてきて、 8番バッターの大切さがわかってきたとのことでした。 今は、「8番バッターのイメージを変えたい。8番バッターの存在感を示したい」と、 進んで希望しているとのこと。 さらに数値目標は?と聞かれたことに対して、 「日々の努力があれば、結果として数字がついてくるので、数値を目標にしているわけではない」とのこと。 まさしくその通りで、数字を気にしすぎると、その数字に縛られ、 毎日をプレッシャーの中で過ごすことになりかねないのです。 「8番バッターのこれまでのイメージを変えたい」 かっこいいですね! 決して3番や4番の選手のような主役ではないけれど、 このような8番バッターがいるからこそ、チームは強くなると、言えます。 誰もが4番バッターになるわけではないし、4番バッターだけで勝てるものではない。 でも誰かが8番バッターを頑張ることで、最強のチームとなる。 ケアの現場も同じかもですね。 リーダーだけが頑張っても強いチームにはなれないのです。  
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2024.02.10

認知症の教室(専門職用)
誰かが行かねば道は開けぬ 日本の偉大なるマエストロ、小澤征爾が亡くなりました。 昨年の夏、リクライニング型車いすに乗ってジョン・ウイリアムスに挨拶に出た姿を見て これは厳しいなぁ~ とは思っていたのですが… 小澤征爾の凄いところは、やはり誰も挑戦したことのない領域に飛び込んで道を開いたことでしょう。 「日本人の指揮者? 日本人に、モーツアルトが、バッハが、ベートーヴェンがわかるのか?」と、 欧米の音楽家たちに散々と嫌味を言われながらも、偉大なるマエストロまで登りつめたのです。 確たる名声を得ても、その指揮に批判はありました。 私自身も必ずしも大好きな指揮者だったわけではありません。 しかし、小澤征爾が、日本人にもクラシックに優秀な指揮者や演奏家がいるのだという道を開いたからこそ、 その後多くの日本人指揮者や演奏家が、その道を通って世界に認められていったと言えるのです。 私が持っているCDのジャケットより   「誰かが行かねば、道はできない」のです。 どのような世界でも (たとえ職場のような小さな変革でも) 誰かがやらなければ、 新しい道は開かないのです。 そう、新たな変革は、誰かが道を開くことから始まります。 (チームとして一丸となってということも可能でしょう)   話が変わりますが、3月2日のシンポジウム まだ申し込みは可能です。 ゲストの澤井梨丘さん(将来の薬師丸ひろ子とも言われています)は、 先日も全国ネットの歌番組で出ていましたね。シンポジウムでも歌声を披露してくれます。 また認知症の最新情報も河内医師会、河内薬剤師会の先生から、わかりやすいお話し、 口腔ケアと食事についても、めっちゃよくわかるお話があります。 中身てんこ盛り、入場無料、どこの地域の方でも大丈夫です。 お申し込みはお早めに!
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2024.02.03

認知症の教室(専門職用)
ひととなりから拾うもの(師匠から学ぶこと) ケア従事者から見ると、落ち着きのない方、不穏症状を出している方には、 対応が大変、忙しいのに難儀だなどと思ってしまうかもしれません。 その時点において「対応に困ってしまうAさん」、もっと辛辣な言葉を使うと、 「対応が面倒なAさん」というように、Aさんの今の行動の姿だけを見て Aさんの人格を見てしまうことが往々にしてあるのではないでしょうか。 家族からすれば、認知症でないときのAさんの姿を見ている時間がはるかに長く、 元気なときのAさんの姿と、現状の姿のギャップに苦しむことになります。 神戸税関の夜景です。本文とは関係ありません。   しかしケア実践者は、不穏症状などのいわゆるBPSDにばかり目を奪われ、 そこで「大変な認知症のAさん」というレッテルを知らずのうちに貼ってしまいます。 しかしそんなレッテルを貼ることが私たちの仕事ではありません。 ケア実践者の真髄は、認知症の人の厳しくなった日常生活上のフォローのほかに、 その方の「人となり」(そのひとらしさ)を拾い上げることとも言えます。 膝をさすると笑います。本文とは関係ありません。   事例をひとつ。 デイサービスで、落ち着きなく常に動き回るBさん。家に送ってくれる車を待っています。 スタッフからすれば、その落ち着きなさと、 早く送ってほしいという訴えへの対応に四苦八苦します。 しかし落ちついて話をしてみると、 Bさんが職場のリーダーとして働いていたころの話がよく出ます。 「こういうところよくチェックしとかないといかんな。」 「それやってくれたんか、ありがとう。」 「ようできとるやないか、オーケーそれでいこか。」等、会社運営のリーダーとして、 確認をし、注意し、部下たちのことをほめて感謝の言葉を述べる、 良きリーダーとしての姿が浮かび上がってきます。 月の出です。本文とは関係ありません。   現在Bさんは、在宅中はわからないことで混乱状態。かなり介護者は大変な状況にあります。 その苦労に比べたら専門職の苦労は一時のことでしょう。 BPSD一杯のBさんではなく、その人の本来の「人となり」を見つけ出すこと。 そうでないと、人としての敬意を示すことはできません。 むしろ、会社のリーダーとして頑張ってこられた姿に、私は学ぶことがありました。 会話すること自体は、その方と繋がりを持つことになりますが、 もう少し腰を据えて会話から対話にしてみると、もっとその方のことがわかるのではないでしょうか。 そんな時間はないって、言われそうですが、それは逃げ口上。 時間は生み出すものです。短い時間でも濃く使えばいいのです。(下欄に続く)   人生の師匠という言葉がありますが、師匠は特定のずば抜けた人ではなく、 私たちが関わる方全ての人が師匠であるといえるでしょう。 お金をもらいながら、その多種多様な師匠たちから、 ケアのノウハウを教えてもらっているのが、 ケア職であるとも言えるのではないでしょうか。
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2024.01.26

認知症の教室(専門職用)
知れば知るほど自分の無知を知る 人が知っていることは、広い世界からすればほんの一握りかもしれません。 私も認知症ケアのことをよく知っていると言っても、わからないことの方が山ほどあります。 先日も、前頭側頭型認知症の方とその家族の支援で壁にぶち当たってしまいました。 では、わからなければどうするか? わからないまま、わからないから仕方がないとあきらめるのか、 わからないなら、わかるために探究心を働かせ、勉強するのか? もしかしたら、忙しいし、余計なことはしたくないし、わからないことはわからないし、 それでいいじゃんという意見もあるかもしれません。 どの道を選ぶかはその人次第ですが。 わかろうとするための動機付けは、 やはり本人や家族のつらさを感じ取るということでしょうか。 つらさを感じ取れば、わからないまま放置して時を過ごすことが、 自分で自分をつまらない人間として決めてしまうことなのだと思うでしょう。 わからなければわかろうとする。 そうすると、知らなかったことを知ることになります。 「え? そんなことも知らなかったんだ! 」と、 知れば知るほど自分の無知を知ることになるのです。 この言葉には続きがあります。 「知れば知るほど自分の無知を知る。そして人として深まる。」 つまり探究心を働かせ、知らなかったことを知るうちに、 人としても成長するということなのですね。 最初はわからなくて当たり前。要はそのわからないをどうするか、ですね。 先日脳科学者の恩蔵先生の話を聴いてきたのですが、(その内容については後日に) 人の脳の奥深さ、可能性を感じさせる話でした。 私たちは、認知症があると、できないやれない理解しないことが一杯の人と捉えてしまいますが、 実はできることやれること理解していることが一杯あるのに、 そこにとんと目をやっていないということなのですね。 もしかしたら、「できないやれない理解しない人」と定義づけておいた方が、 ケア側は楽なのかもしれません。 「世界が広がる!」 そいう感動を得るためには、探究心が必要です。  
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2024.01.18

認知症の教室(専門職用)
1.17希望の灯 防災とボランティアの日 阪神・淡路大震災から29年、慰霊碑のある東遊園地には、 震災を知らない若い人たちが多かったとのこと。 語り継ぎ、繋がっていくことが継続されているのだと、少し安心感も。 私は一足先に東遊園地の「希望の灯り」に行かせてもらいました。 当時は震災に対する救援体制など確立されておらず、 さらに被災地ボランティアが始まったのも、この阪神・淡路大震災からと言えます。 そのため、1月17日が「防災とボランティアの日」になったのも、ここから始まったと言えるからですね。 このような状況の中、前回にも書いたように大阪府社協は、 介護施設への応援派遣、避難所への派遣、そして避難者の施設での受け入れという、 三段構えで救援活動に入ったのですが、 その模索的対応は、厚労省の官僚には嫌味を言われたのですが、 今では下記の記事にもあるように、体制作りが確立されているのですね。 介護施設で働く職員も被災しているので、激務の中、倒れるケア職員もおり、 このように介護施設へのサポートも大切なのです。 私の場合、今でいうDWATの役割を担っていたと言えますね。 避難所で一番聞いた訴えが「認知症の人への対応」でした。 確かにただでさえ混乱と不安の中におられる認知症の人にとっては、 避難所での生活は混乱の極みを迎えると言えるでしょう。 能登半島の被災地域に、一日も早く希望の灯りがともることを願います。 さて、下記は5年前に書いた文章ですね。その記憶は今もなお鮮烈に残っています。 TVドラマ「BRIDGE」を見ました。 ドラマ前半、主人公が神戸から大阪へ橋を渡ろうとしたとき、 目の前の大阪がネオン輝く普通の姿で、振り向けば神戸は真っ暗で、 その対比に愕然とするシーンがあります。 実は、私も同じような体験をしました。 救援活動を終えて、大阪へ帰るその橋を渡った時に… ドラマでも時々出てくる「よそ者に何がわかる」そんな視線を受けながら、 所詮よそ者に何ができるのかと苦悩しながらがれきの街を走り回った日々… 野寄公園の雨に打たれる小さなテントの中、 救援の医師からなんとか入院を説得してくれと頼まれ、小さなテントの中に親子を尋ねました。 母親は高齢で寝たきり、状態が悪化していたのです。 しかし何もかも失い息子とだけは離れたくないと、その母親は入院をかたくなに拒否され、 どうすることもできなかった無力な私でした。 本山第二、三小学校の避難所でもあまりにも数多くの難題課題に困惑するだけの自分がいました。 認知症の方への対応が大変という訴えも多くありました。 家の下敷きになり、助けられぬうちに炎に飲み込まれた数多くの方。 残された家族との対面は悲痛極まりなかったのです。 ルミナリエの準備が出来ていました   多くの哀しい出来事と人の温かさを感じる中、 怒りと悔しさともどかしさと哀しさと不甲斐なさを一杯抱えたまま、 活動を終えて大阪に帰って来て、その光輝くネオンを見た途端から ずっと泣きっぱなしだったのです。それも号泣でした。 もう随分前の話。 されど今も、そしてこれからも、人々の哀しみ、苦しみ、 そしてあたたかさは伝えていかなければならないと思います。  合掌   震災で亡くなられた方々のお名前が刻まれています
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2024.01.12

認知症の教室(専門職用)
BPSDチームケア加算とは いよいよ介護保険も新たなるものが様々に出てくるようになりますね。 管理、運営するものにとって気になるのは改正後の報酬単価になります。 当然働く者も、それに適して動かなければなりませんが、 トヨタの会長が今年言われたように、 「収益を目指すのは確かに大事だが、スタッフたちに知恵や想像力、未知なるものへの挑戦力がないと、収益には繋がらない。」 と言われているように、 現場職員に発想力、想像力、そしてチャレンジ力がないとうまく収益に繋がらないということですね。 (厚労省の資料) https://www.mhlw.go.jp/content/12300000/001171209.pdf 認知症関連も色々と考えられています。(上記資料を確認してください) 「BPSDチームケア加算」についても書かれています。 基本、予防的な(BPSDが出ないよう、出ても速やかに対処できるよう)側面となっていますが、 BPSD表出は悪なのか?とも思ってしまいます。 もしかしたら、本人の主張かもしれないのです。 もちろん、出ないに越したことはないのですが、 認知症でない人がする匿名の誹謗中傷の方がよほど悪だと思うのですが。 詳細はこれから出てくると思いますが、 確かに研修はとても大切です。 しかし、認知症の研修は、ここ十数年で、何千何万というケア職員が受講しています。 ところが、現場は変わったのか? 認知症の人の尊厳を護ると何十年前から言われながら 果たしてどうなのか? なのですね。 何かが足りなく、何かが違っているのかもしれません。 事業所としてはやはり加算を取ること。 結果、学ぶ職員が増えることに繋がります。 しかし、何かが足りなく、何かが違っていることは、 加算とは別に考えなければならないことでしょう。
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2024.01.11

認知症の教室(専門職用)
被災地での認知症の人 酷寒の能登半島での避難所での生活 認知症の人はどのような状況なのでしょうか。 例えば、皆さんの身近なデイサービスなどのサービスを受けている認知症の人を思い浮かべてみてください。 その方が突然、家を失い、一気に生活状況が変わり、避難所生活を送るとなるとどうなるでしょうか? 通常の生活でのデイサービスにおいても落ち着かない人が、 生活環境が変わった避難所で生活するとなると、 本人にとっては非常にストレスフルの状況になります。 そして避難所では一般の方と同じになるので、そこでも様々な問題が生じてくるでしょう。 実質、避難所での生活には無理があり、専門職がいる高齢者施設への移動が急務となるでしょう。 認知症ケア学会の資料を参照してください。↓ https://ninchisyoucare.com/pdf/%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%94%AF%E6%8F%B40908-2.pdf   私も神戸の震災の折、救援活動に入った時、幾つもの避難所から、 認知症の人が大変なので、介護福祉士を派遣してほしいという声を聞きました。 何故、高齢者施設への移動ではなく、専門職に来てほしいという要望だったのか? それは、高齢者施設も被害を受け、大変な状況であろうということが、被災者にもわかっていたからです。 実際、現地の介護施設は大変な状況でしょう。先もどうなるのか見えない状況です。 そこに認知症の人が来られるのはかなり厳しい状況となります。 現地の介護施設より、周辺地域の介護施設が支援体制を整えなければならないでしょう。 神戸の震災時、大阪府では府社協を中心に、 被災施設に応援に行く介護、看護グループと、避難所での高齢者支援を行うグループ、 さらに被災高齢者を受け入れる施設グループという三段体制で、被災地救援体制を取りました。 被災施設に赴く介護、看護職はまさしくその施設に寝泊まりして頑張ってくれていました。 私は避難所対応グループだったのですが、 厚労省の高官からは、「大阪は神戸に人を派遣できるくらい職員に余裕があるのですね。」と揶揄され、 被災高齢者を受け入れた大阪の施設には、「大阪は老人を奪っていく」ということを言われたこともあったようです。 大阪だって余裕があるわけでもありません。 それでも悲惨な状況にある隣人を見て見ぬわけにはいかないのです。 多くの被災地域の官公庁職員は運ばれてくる死体の横で、寝る時間も惜しんで働いていました。 それだけに、厚労省高官の言葉には悔し涙した記憶があります。 今回はどのような体制が取られているのかはまだ不明な点もありますが、 数々の災害の教訓から学んだことが活かされればと思います。
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2024.01.10

認知症の教室(専門職用)
その人がいないところでその人の話をしない 「その人がいないところでその人の話をしない」(*) ガツンとくる言葉でした。 ケアに携わる者にとっては、忘れてはならないけれど、忘れてしまっている言葉かもしれません。 利用者本位、本人の意思の尊重と謳いながら、実際には本人がいないところで決められる。 特に当該者が認知症の人となるとなおさらです。 確かに認知症があって理解できないから、意思表示できないからと、 その人の意思確認することもなく、専門職が集まってその人の今後について考え、 そしてその人を決められた路線の中で動いてもらうことって多々あります。 本人の視点からすれば、 「自分の人生のこれからのことを、勝手に専門職と名の付く連中が決めて、自分たちの思うようにさせようとする。全く酷い話だ。」 というようなことになるでしょうか。 実際、認知症の人のカンファレンスへの参加は、行い難しいところはあるかもしれませんが、 これまでもありましたし、思うほど難しいものではありません。 時には家族と専門職、そして本人も含んだものというように、分けて行うことも可能です。 本人のことを話しあうのですが、本人がのけ者にならないように気をつけなければならないでしょう。 思えば、カンファレンスのような公式的な会議だけでなく、 私たちは普段から「その人がいないところでその人の話をする」ことが実に好きなのです。 でもそれは決して解決にはつながらない話なのです。 その人のことは、その人と話しあって決めなければならないのです。 (*)森川すいめい氏著 「感じるオープンダイアローグ」より (講談社現代新書)
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ブログ投稿画像 日本の偉大なるマエストロ、小澤征爾が亡くなりました。 昨年の夏、リクライニング型車いすに乗ってジョン・ウイリアムスに挨拶に出た姿を見て これは厳しいなぁ~ とは思っていたのですが… 小澤征爾の凄いところは、やはり誰も挑戦したことのない領域に飛び込んで道を開いたことでしょう。 「日本人の指揮者? 日本人に、モーツアルトが、バッハが、ベートーヴェンがわかるのか?」と、 欧米の音楽家たちに散々と嫌味を言われながらも、偉大なるマエストロまで登りつめたのです。 確たる名声を得ても、その指揮に批判はありました。 私自身も必ずしも大好きな指揮者だったわけではありません。 しかし、小澤征爾が、日本人にもクラシックに優秀な指揮者や演奏家がいるのだという道を開いたからこそ、 その後多くの日本人指揮者や演奏家が、その道を通って世界に認められていったと言えるのです。 [caption id="attachment_5400" align="alignnone" width="2048"] 私が持っているCDのジャケットより[/caption]   「誰かが行かねば、道はできない」のです。 どのような世界でも (たとえ職場のような小さな変革でも) 誰かがやらなければ、 新しい道は開かないのです。 そう、新たな変革は、誰かが道を開くことから始まります。 (チームとして一丸となってということも可能でしょう)   話が変わりますが、3月2日のシンポジウム まだ申し込みは可能です。 ゲストの澤井梨丘さん(将来の薬師丸ひろ子とも言われています)は、 先日も全国ネットの歌番組で出ていましたね。シンポジウムでも歌声を披露してくれます。 また認知症の最新情報も河内医師会、河内薬剤師会の先生から、わかりやすいお話し、 口腔ケアと食事についても、めっちゃよくわかるお話があります。 中身てんこ盛り、入場無料、どこの地域の方でも大丈夫です。 お申し込みはお早めに!
ブログ投稿画像 ケア従事者から見ると、落ち着きのない方、不穏症状を出している方には、 対応が大変、忙しいのに難儀だなどと思ってしまうかもしれません。 その時点において「対応に困ってしまうAさん」、もっと辛辣な言葉を使うと、 「対応が面倒なAさん」というように、Aさんの今の行動の姿だけを見て Aさんの人格を見てしまうことが往々にしてあるのではないでしょうか。 家族からすれば、認知症でないときのAさんの姿を見ている時間がはるかに長く、 元気なときのAさんの姿と、現状の姿のギャップに苦しむことになります。 [caption id="attachment_5380" align="alignnone" width="2048"] 神戸税関の夜景です。本文とは関係ありません。[/caption]   しかしケア実践者は、不穏症状などのいわゆるBPSDにばかり目を奪われ、 そこで「大変な認知症のAさん」というレッテルを知らずのうちに貼ってしまいます。 しかしそんなレッテルを貼ることが私たちの仕事ではありません。 ケア実践者の真髄は、認知症の人の厳しくなった日常生活上のフォローのほかに、 その方の「人となり」(そのひとらしさ)を拾い上げることとも言えます。 [caption id="attachment_5393" align="alignnone" width="2048"] 膝をさすると笑います。本文とは関係ありません。[/caption]   事例をひとつ。 デイサービスで、落ち着きなく常に動き回るBさん。家に送ってくれる車を待っています。 スタッフからすれば、その落ち着きなさと、 早く送ってほしいという訴えへの対応に四苦八苦します。 しかし落ちついて話をしてみると、 Bさんが職場のリーダーとして働いていたころの話がよく出ます。 「こういうところよくチェックしとかないといかんな。」 「それやってくれたんか、ありがとう。」 「ようできとるやないか、オーケーそれでいこか。」等、会社運営のリーダーとして、 確認をし、注意し、部下たちのことをほめて感謝の言葉を述べる、 良きリーダーとしての姿が浮かび上がってきます。 [caption id="attachment_5392" align="alignnone" width="2048"] 月の出です。本文とは関係ありません。[/caption]   現在Bさんは、在宅中はわからないことで混乱状態。かなり介護者は大変な状況にあります。 その苦労に比べたら専門職の苦労は一時のことでしょう。 BPSD一杯のBさんではなく、その人の本来の「人となり」を見つけ出すこと。 そうでないと、人としての敬意を示すことはできません。 むしろ、会社のリーダーとして頑張ってこられた姿に、私は学ぶことがありました。 会話すること自体は、その方と繋がりを持つことになりますが、 もう少し腰を据えて会話から対話にしてみると、もっとその方のことがわかるのではないでしょうか。 そんな時間はないって、言われそうですが、それは逃げ口上。 時間は生み出すものです。短い時間でも濃く使えばいいのです。(下欄に続く)   人生の師匠という言葉がありますが、師匠は特定のずば抜けた人ではなく、 私たちが関わる方全ての人が師匠であるといえるでしょう。 お金をもらいながら、その多種多様な師匠たちから、 ケアのノウハウを教えてもらっているのが、 ケア職であるとも言えるのではないでしょうか。
ブログ投稿画像 人が知っていることは、広い世界からすればほんの一握りかもしれません。 私も認知症ケアのことをよく知っていると言っても、わからないことの方が山ほどあります。 先日も、前頭側頭型認知症の方とその家族の支援で壁にぶち当たってしまいました。 では、わからなければどうするか? わからないまま、わからないから仕方がないとあきらめるのか、 わからないなら、わかるために探究心を働かせ、勉強するのか? もしかしたら、忙しいし、余計なことはしたくないし、わからないことはわからないし、 それでいいじゃんという意見もあるかもしれません。 どの道を選ぶかはその人次第ですが。 わかろうとするための動機付けは、 やはり本人や家族のつらさを感じ取るということでしょうか。 つらさを感じ取れば、わからないまま放置して時を過ごすことが、 自分で自分をつまらない人間として決めてしまうことなのだと思うでしょう。 わからなければわかろうとする。 そうすると、知らなかったことを知ることになります。 「え? そんなことも知らなかったんだ! 」と、 知れば知るほど自分の無知を知ることになるのです。 この言葉には続きがあります。 「知れば知るほど自分の無知を知る。そして人として深まる。」 つまり探究心を働かせ、知らなかったことを知るうちに、 人としても成長するということなのですね。 最初はわからなくて当たり前。要はそのわからないをどうするか、ですね。 先日脳科学者の恩蔵先生の話を聴いてきたのですが、(その内容については後日に) 人の脳の奥深さ、可能性を感じさせる話でした。 私たちは、認知症があると、できないやれない理解しないことが一杯の人と捉えてしまいますが、 実はできることやれること理解していることが一杯あるのに、 そこにとんと目をやっていないということなのですね。 もしかしたら、「できないやれない理解しない人」と定義づけておいた方が、 ケア側は楽なのかもしれません。 「世界が広がる!」 そいう感動を得るためには、探究心が必要です。  
ブログ投稿画像 阪神・淡路大震災から29年、慰霊碑のある東遊園地には、 震災を知らない若い人たちが多かったとのこと。 語り継ぎ、繋がっていくことが継続されているのだと、少し安心感も。 私は一足先に東遊園地の「希望の灯り」に行かせてもらいました。 当時は震災に対する救援体制など確立されておらず、 さらに被災地ボランティアが始まったのも、この阪神・淡路大震災からと言えます。 そのため、1月17日が「防災とボランティアの日」になったのも、ここから始まったと言えるからですね。 このような状況の中、前回にも書いたように大阪府社協は、 介護施設への応援派遣、避難所への派遣、そして避難者の施設での受け入れという、 三段構えで救援活動に入ったのですが、 その模索的対応は、厚労省の官僚には嫌味を言われたのですが、 今では下記の記事にもあるように、体制作りが確立されているのですね。 介護施設で働く職員も被災しているので、激務の中、倒れるケア職員もおり、 このように介護施設へのサポートも大切なのです。 私の場合、今でいうDWATの役割を担っていたと言えますね。 避難所で一番聞いた訴えが「認知症の人への対応」でした。 確かにただでさえ混乱と不安の中におられる認知症の人にとっては、 避難所での生活は混乱の極みを迎えると言えるでしょう。 能登半島の被災地域に、一日も早く希望の灯りがともることを願います。 さて、下記は5年前に書いた文章ですね。その記憶は今もなお鮮烈に残っています。 TVドラマ「BRIDGE」を見ました。 ドラマ前半、主人公が神戸から大阪へ橋を渡ろうとしたとき、 目の前の大阪がネオン輝く普通の姿で、振り向けば神戸は真っ暗で、 その対比に愕然とするシーンがあります。 実は、私も同じような体験をしました。 救援活動を終えて、大阪へ帰るその橋を渡った時に… ドラマでも時々出てくる「よそ者に何がわかる」そんな視線を受けながら、 所詮よそ者に何ができるのかと苦悩しながらがれきの街を走り回った日々… 野寄公園の雨に打たれる小さなテントの中、 救援の医師からなんとか入院を説得してくれと頼まれ、小さなテントの中に親子を尋ねました。 母親は高齢で寝たきり、状態が悪化していたのです。 しかし何もかも失い息子とだけは離れたくないと、その母親は入院をかたくなに拒否され、 どうすることもできなかった無力な私でした。 本山第二、三小学校の避難所でもあまりにも数多くの難題課題に困惑するだけの自分がいました。 認知症の方への対応が大変という訴えも多くありました。 家の下敷きになり、助けられぬうちに炎に飲み込まれた数多くの方。 残された家族との対面は悲痛極まりなかったのです。 [caption id="attachment_5343" align="alignnone" width="1926"] ルミナリエの準備が出来ていました[/caption]   多くの哀しい出来事と人の温かさを感じる中、 怒りと悔しさともどかしさと哀しさと不甲斐なさを一杯抱えたまま、 活動を終えて大阪に帰って来て、その光輝くネオンを見た途端から ずっと泣きっぱなしだったのです。それも号泣でした。 もう随分前の話。 されど今も、そしてこれからも、人々の哀しみ、苦しみ、 そしてあたたかさは伝えていかなければならないと思います。  合掌   [caption id="attachment_1279" align="alignnone" width="650"] 震災で亡くなられた方々のお名前が刻まれています[/caption]
ブログ投稿画像 いよいよ介護保険も新たなるものが様々に出てくるようになりますね。 管理、運営するものにとって気になるのは改正後の報酬単価になります。 当然働く者も、それに適して動かなければなりませんが、 トヨタの会長が今年言われたように、 「収益を目指すのは確かに大事だが、スタッフたちに知恵や想像力、未知なるものへの挑戦力がないと、収益には繋がらない。」 と言われているように、 現場職員に発想力、想像力、そしてチャレンジ力がないとうまく収益に繋がらないということですね。 (厚労省の資料) https://www.mhlw.go.jp/content/12300000/001171209.pdf 認知症関連も色々と考えられています。(上記資料を確認してください) 「BPSDチームケア加算」についても書かれています。 基本、予防的な(BPSDが出ないよう、出ても速やかに対処できるよう)側面となっていますが、 BPSD表出は悪なのか?とも思ってしまいます。 もしかしたら、本人の主張かもしれないのです。 もちろん、出ないに越したことはないのですが、 認知症でない人がする匿名の誹謗中傷の方がよほど悪だと思うのですが。 詳細はこれから出てくると思いますが、 確かに研修はとても大切です。 しかし、認知症の研修は、ここ十数年で、何千何万というケア職員が受講しています。 ところが、現場は変わったのか? 認知症の人の尊厳を護ると何十年前から言われながら 果たしてどうなのか? なのですね。 何かが足りなく、何かが違っているのかもしれません。 事業所としてはやはり加算を取ること。 結果、学ぶ職員が増えることに繋がります。 しかし、何かが足りなく、何かが違っていることは、 加算とは別に考えなければならないことでしょう。
ブログ投稿画像 酷寒の能登半島での避難所での生活 認知症の人はどのような状況なのでしょうか。 例えば、皆さんの身近なデイサービスなどのサービスを受けている認知症の人を思い浮かべてみてください。 その方が突然、家を失い、一気に生活状況が変わり、避難所生活を送るとなるとどうなるでしょうか? 通常の生活でのデイサービスにおいても落ち着かない人が、 生活環境が変わった避難所で生活するとなると、 本人にとっては非常にストレスフルの状況になります。 そして避難所では一般の方と同じになるので、そこでも様々な問題が生じてくるでしょう。 実質、避難所での生活には無理があり、専門職がいる高齢者施設への移動が急務となるでしょう。 認知症ケア学会の資料を参照してください。↓ https://ninchisyoucare.com/pdf/%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%94%AF%E6%8F%B40908-2.pdf   私も神戸の震災の折、救援活動に入った時、幾つもの避難所から、 認知症の人が大変なので、介護福祉士を派遣してほしいという声を聞きました。 何故、高齢者施設への移動ではなく、専門職に来てほしいという要望だったのか? それは、高齢者施設も被害を受け、大変な状況であろうということが、被災者にもわかっていたからです。 実際、現地の介護施設は大変な状況でしょう。先もどうなるのか見えない状況です。 そこに認知症の人が来られるのはかなり厳しい状況となります。 現地の介護施設より、周辺地域の介護施設が支援体制を整えなければならないでしょう。 神戸の震災時、大阪府では府社協を中心に、 被災施設に応援に行く介護、看護グループと、避難所での高齢者支援を行うグループ、 さらに被災高齢者を受け入れる施設グループという三段体制で、被災地救援体制を取りました。 被災施設に赴く介護、看護職はまさしくその施設に寝泊まりして頑張ってくれていました。 私は避難所対応グループだったのですが、 厚労省の高官からは、「大阪は神戸に人を派遣できるくらい職員に余裕があるのですね。」と揶揄され、 被災高齢者を受け入れた大阪の施設には、「大阪は老人を奪っていく」ということを言われたこともあったようです。 大阪だって余裕があるわけでもありません。 それでも悲惨な状況にある隣人を見て見ぬわけにはいかないのです。 多くの被災地域の官公庁職員は運ばれてくる死体の横で、寝る時間も惜しんで働いていました。 それだけに、厚労省高官の言葉には悔し涙した記憶があります。 今回はどのような体制が取られているのかはまだ不明な点もありますが、 数々の災害の教訓から学んだことが活かされればと思います。
ブログ投稿画像 「その人がいないところでその人の話をしない」(*) ガツンとくる言葉でした。 ケアに携わる者にとっては、忘れてはならないけれど、忘れてしまっている言葉かもしれません。 利用者本位、本人の意思の尊重と謳いながら、実際には本人がいないところで決められる。 特に当該者が認知症の人となるとなおさらです。 確かに認知症があって理解できないから、意思表示できないからと、 その人の意思確認することもなく、専門職が集まってその人の今後について考え、 そしてその人を決められた路線の中で動いてもらうことって多々あります。 本人の視点からすれば、 「自分の人生のこれからのことを、勝手に専門職と名の付く連中が決めて、自分たちの思うようにさせようとする。全く酷い話だ。」 というようなことになるでしょうか。 実際、認知症の人のカンファレンスへの参加は、行い難しいところはあるかもしれませんが、 これまでもありましたし、思うほど難しいものではありません。 時には家族と専門職、そして本人も含んだものというように、分けて行うことも可能です。 本人のことを話しあうのですが、本人がのけ者にならないように気をつけなければならないでしょう。 思えば、カンファレンスのような公式的な会議だけでなく、 私たちは普段から「その人がいないところでその人の話をする」ことが実に好きなのです。 でもそれは決して解決にはつながらない話なのです。 その人のことは、その人と話しあって決めなければならないのです。 (*)森川すいめい氏著 「感じるオープンダイアローグ」より (講談社現代新書)