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「トピックス」で記事を検索しました。

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2024.06.12

トピックス
認知症ケア学会が開催されます 今年も認知症ケア学会開催ですね。 場所は東京 テーマが「AIと認知症」 ついに認知症の世界にも、AIが来たかという感じですね。 でもね、なんか違和感があるのですね。 もちろんAIを否定しているわけではないのですが、 また、このご時世ですから、活用できるところはドンドン使っちゃおうでいいと思います。 例えば、認知症の人が置かれている状況を、AIは即座に分析して、 対応方法を提示してくれるかもしれません。 ケアマネジャーのケアプランも、AIならあっという間に作ってしまうかもしれません。 確かに業務量を減らすことに貢献できる! スタッフの負担軽減に繋がるのですから! でもね、どうなんでしょう? 認知症の人との関り 色々な記録関係や情報収集はAIに任せたとして、 やはり認知症の人と直接かかわる介護者は、「人と人」の繋がりから来る コミュニケーション技法などを、マニアックに学んでいかなければならないと思うのです。 そう、マニュアルワーク(手作業)なところがあるのが認知症ケアとも言えます。 あまりにもAIに頼りすぎると、人間は「考える」ことをしなくなり、 気が付けば、AIの言いなりになっている、ということにもなるかもしれませんね。 認知症ケア学会では、どのような話が聞けるのでしょうか? 写真は、幻のアジサイと言われている「シチダンカ」です。
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2024.06.10

トピックス
~心が揺れる~ 家族会より 認知症の人を介護する家族の会「ほっこりなつどい」が開催されました。 今回は8名の方が参加されました。 娘、息子、夫、妻、嫁という様々な立場の方が参加されました。 個々それぞれの思いを打ち明けられていましたが、 共通していたのは、 「わかってはいても、つい怒ってしまう」と言うことです。 そしてそのあと、怒ってしまった自分を責めているのです。 そりゃそうですよね。 日頃から様々な認知症状に悩まされている介護者からすると、 ついついイラっとしてしまうことは当たり前と言えるでしょう。 そしてイラっとしてしまった自分を責める。 介護者にとっては逃げるに逃げられない状況の上、 毎日のこと。ついつい怒ってしまうことはあるでしょう。 「怒ったらあかんとわかっていても、怒ってしまう。」のです。 介護者の心は揺れまくりです。 また家での介護に限界を生じたときどうするか 家族の大いなる悩みは、「入所を考えるのか」 「入所後後悔しないだろうか」という 入所か否か、さらに入所してもらって、はたして心は落ち着くのだろうか? そんな悩みに心が揺れているという話も何人かから聞かれました。 施設入所させることに対する罪の意識のようなもの そして施設入所しても、そのような意識が続くのではないか… とても大きな家族の決断と悩みと言えるかもしれません。 心の揺れは、どのような決断をしたとしても続くのかもしれません。 ひとつ大事なことは、介護者(家族)が倒れたら、 当事者共々大変な状況になってしまうということです。 介護者にも介護者の人生があります。 自分の時間が欲しいということがいくらでもあると言えるでしょう。 介護者自身の人生も大切にすること。 それが第一でしょう。 しかし、心の揺れはどのような状況であれ、ついて回るかもしれません。 その心の揺れを受け止め、支えることが専門職の役割でもあるのです。
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2024.06.03

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靴の履き間違えから ~「なんでも包括」の背景にあるもの~ 靴を履き間違えてお出掛けしたことはありませんか? 例えば、他人の靴を履いて帰るとか、左右別の靴を履いていくとか… 幸い私はまだそのようなことはありませんが、 いつやってしまうかもしれない出来事なのです。 最近訪問先で、靴を間違えて履いて帰ったという職員の話を聞いて思い出したことがありました。 私が大阪市の地域包括支援センターに在籍していた頃です。 地域のある開業医から電話が入りました。 「患者のAさんが、別の患者さんの靴を履いて帰った、家に行って取り戻してほしい。」 という内容でした。 「なんでも包括」と言われるように、最近は多種多様なことで包括に電話が掛かってきます。 この時も、「なんやねんこのドクター、そんなことで電話してくんな!」と思いました。 頭の中では愚痴と文句が溢れてましたが、 もしかしたら認知症状がある方かもしれないと思い、訪問することにしました。 この街のシンボル「見返りトミー」   Aさんは独り暮らしなのですが、自宅を訪問すると、黒ピカの靴が一杯玄関にありました。 ドクターからエナメルの黒い靴と聞いていたのですが、 どれが病院から履いて帰って来たのかわかりません。 ご本人はとても陽気な女性で、 「そうか、すまんすまん、どれが履いてきた靴かわからんわ。みんな持って行ってええよ。」と言われたのです。 どうやらAさんはきれいな靴を見かけると、 自分の汚れた靴を置いて、きれいな靴を履いて帰ってくるようです。 仕方なく私は、きれいな靴を全部持って開業医のところへ行ったのですが、 「他人が履いた靴なんかもう履けない。」と患者が言っていたので、 もういいよとのドクターからの返事でした。 ムカッと来た私でしたが、本人が置いていった汚れた靴をプラスして、Aさんの家に帰りました。 これがきっかけで、Aさんと関わるようになり、 認知症状が明確に出ていることがわかり、支援が必要なところがいくつもあったため、 介護サービス導入へと繋がっていったのです。 最初は「間違った靴を取り戻してほしい」というドクターからのとんでもない電話でしたが、 結果、独居の認知症高齢者の支援に繋がりました。 「なんでも包括」は困ったものですが、 中にはその背景に支援と繋がるものが隠れているとも言えます。 因みにこの開業医とは、このことがきっかけになり、 その他のケースとも気軽に連携が取れるようになりました。 ある意味Aさんの行動が、色々な人とのつながりを生み出したとも言えます。 Aさんはお散歩好きで、道端で会うこともありました。 「これから、がんこへ(がんこ寿司)食べに行くねん。一緒に行こか?」と言われたことがあります。 陽気なAさんでしたが、その人生のラストシーンは哀しいものでした。
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2024.05.11

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16年後には認知症の人584万人? 厚労省の推計が出ましたね。 2040年には認知症の人が584万人になるとのこと。 軽度認知障がい(MCI)の方を含めると、 2060年には65歳以上の3人に1人が、 認知症若しくはその可能性のある方ということになります。 要するに、「決して他人事ではないですよ」 「認知症予防に心掛けましょう」ということを言いたいのだと思います。 自分が認知症になる可能性があることもさることながら、 その認知症の人を介護する家族などの立場の人も 増加するということにもなります。 認知症の人の数だけでなく、認知症の人が増えれば、 介護する人も増えるということ、そして個人の問題だけでは済まず、 地域の問題にもなっていくと言えるでしょう。 認知症のご本人をどのようにサポートするか、 介護者を同じくどのようにサポートするのか、 そして地域としてどのようにサポートするのか、 課題は山積の状態のまま、「まだ他人事」と思っている現状から、 気が付けば「自分事」になっているのです。 ただ、認知症になっても、或いは介護者になっても 「恐れることなく」受け入れられる体制作り。 それが急がれる状況なのです。      
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2024.05.08

トピックス
音楽は人と人を繋げられるか 昨夜家に遅めに帰り、つけたテレビの番組。 何故人類は音楽を生み出したのか、途中から見たので、そんな題名だったと思います。 その番組で、認知症の人と音楽についても、脳科学的にその効果について説明されていました。 詳細は映像を見直してからでないと書けませんが、 イギリスの認知症病棟の人々が、ビートルズの歌をみんなで合唱するシーンは圧巻でした。 特に脳の機能がフルパワーになる、 思春期に聞いた音楽は、強力に脳に残るようです。 認知症の人への音楽の効用は、これまで多くの研究で言われていることなので、 今更言うまでもないことなのですが、療法と構えるだけでなく、 日頃から気軽にそして身近に使えるものとして、音楽があるということでしょう。 注意する点は音楽をかける側にあります。 果たしてその音楽が、その方にあっているのかどうか、 そして聞かせてほったらかしにしていないかどうか、 認知症の人ではなく、ケア側の問題が大きいのかなと思います。 音楽が何故人類に生まれたか?  化石として残っているものではないので、その研究はまだ途上だそうですが、 恐らくは、「音楽は人と人を繋げる」ために生まれたのではないかということです。 ですから、認知症の人と音楽を聴く場合、 ともに楽しむということを忘れてはならないでしょう。   もしかしたら、音楽は、世界の人々を結び付けられる力を持ったものだと思うのですが、 残念ながら、銃声や破壊音、そして人が殺されていく悲惨な戦争の前に、 音楽はかき消され、失われてしまっているのかもしれません。
ブログ投稿画像 今年も認知症ケア学会開催ですね。 場所は東京 テーマが「AIと認知症」 ついに認知症の世界にも、AIが来たかという感じですね。 でもね、なんか違和感があるのですね。 もちろんAIを否定しているわけではないのですが、 また、このご時世ですから、活用できるところはドンドン使っちゃおうでいいと思います。 例えば、認知症の人が置かれている状況を、AIは即座に分析して、 対応方法を提示してくれるかもしれません。 ケアマネジャーのケアプランも、AIならあっという間に作ってしまうかもしれません。 確かに業務量を減らすことに貢献できる! スタッフの負担軽減に繋がるのですから! でもね、どうなんでしょう? 認知症の人との関り 色々な記録関係や情報収集はAIに任せたとして、 やはり認知症の人と直接かかわる介護者は、「人と人」の繋がりから来る コミュニケーション技法などを、マニアックに学んでいかなければならないと思うのです。 そう、マニュアルワーク(手作業)なところがあるのが認知症ケアとも言えます。 あまりにもAIに頼りすぎると、人間は「考える」ことをしなくなり、 気が付けば、AIの言いなりになっている、ということにもなるかもしれませんね。 認知症ケア学会では、どのような話が聞けるのでしょうか? 写真は、幻のアジサイと言われている「シチダンカ」です。
ブログ投稿画像 認知症の人を介護する家族の会「ほっこりなつどい」が開催されました。 今回は8名の方が参加されました。 娘、息子、夫、妻、嫁という様々な立場の方が参加されました。 個々それぞれの思いを打ち明けられていましたが、 共通していたのは、 「わかってはいても、つい怒ってしまう」と言うことです。 そしてそのあと、怒ってしまった自分を責めているのです。 そりゃそうですよね。 日頃から様々な認知症状に悩まされている介護者からすると、 ついついイラっとしてしまうことは当たり前と言えるでしょう。 そしてイラっとしてしまった自分を責める。 介護者にとっては逃げるに逃げられない状況の上、 毎日のこと。ついつい怒ってしまうことはあるでしょう。 「怒ったらあかんとわかっていても、怒ってしまう。」のです。 介護者の心は揺れまくりです。 また家での介護に限界を生じたときどうするか 家族の大いなる悩みは、「入所を考えるのか」 「入所後後悔しないだろうか」という 入所か否か、さらに入所してもらって、はたして心は落ち着くのだろうか? そんな悩みに心が揺れているという話も何人かから聞かれました。 施設入所させることに対する罪の意識のようなもの そして施設入所しても、そのような意識が続くのではないか… とても大きな家族の決断と悩みと言えるかもしれません。 心の揺れは、どのような決断をしたとしても続くのかもしれません。 ひとつ大事なことは、介護者(家族)が倒れたら、 当事者共々大変な状況になってしまうということです。 介護者にも介護者の人生があります。 自分の時間が欲しいということがいくらでもあると言えるでしょう。 介護者自身の人生も大切にすること。 それが第一でしょう。 しかし、心の揺れはどのような状況であれ、ついて回るかもしれません。 その心の揺れを受け止め、支えることが専門職の役割でもあるのです。
ブログ投稿画像 靴を履き間違えてお出掛けしたことはありませんか? 例えば、他人の靴を履いて帰るとか、左右別の靴を履いていくとか… 幸い私はまだそのようなことはありませんが、 いつやってしまうかもしれない出来事なのです。 最近訪問先で、靴を間違えて履いて帰ったという職員の話を聞いて思い出したことがありました。 私が大阪市の地域包括支援センターに在籍していた頃です。 地域のある開業医から電話が入りました。 「患者のAさんが、別の患者さんの靴を履いて帰った、家に行って取り戻してほしい。」 という内容でした。 「なんでも包括」と言われるように、最近は多種多様なことで包括に電話が掛かってきます。 この時も、「なんやねんこのドクター、そんなことで電話してくんな!」と思いました。 頭の中では愚痴と文句が溢れてましたが、 もしかしたら認知症状がある方かもしれないと思い、訪問することにしました。 [caption id="attachment_5662" align="alignnone" width="1024"] この街のシンボル「見返りトミー」[/caption]   Aさんは独り暮らしなのですが、自宅を訪問すると、黒ピカの靴が一杯玄関にありました。 ドクターからエナメルの黒い靴と聞いていたのですが、 どれが病院から履いて帰って来たのかわかりません。 ご本人はとても陽気な女性で、 「そうか、すまんすまん、どれが履いてきた靴かわからんわ。みんな持って行ってええよ。」と言われたのです。 どうやらAさんはきれいな靴を見かけると、 自分の汚れた靴を置いて、きれいな靴を履いて帰ってくるようです。 仕方なく私は、きれいな靴を全部持って開業医のところへ行ったのですが、 「他人が履いた靴なんかもう履けない。」と患者が言っていたので、 もういいよとのドクターからの返事でした。 ムカッと来た私でしたが、本人が置いていった汚れた靴をプラスして、Aさんの家に帰りました。 これがきっかけで、Aさんと関わるようになり、 認知症状が明確に出ていることがわかり、支援が必要なところがいくつもあったため、 介護サービス導入へと繋がっていったのです。 最初は「間違った靴を取り戻してほしい」というドクターからのとんでもない電話でしたが、 結果、独居の認知症高齢者の支援に繋がりました。 「なんでも包括」は困ったものですが、 中にはその背景に支援と繋がるものが隠れているとも言えます。 因みにこの開業医とは、このことがきっかけになり、 その他のケースとも気軽に連携が取れるようになりました。 ある意味Aさんの行動が、色々な人とのつながりを生み出したとも言えます。 Aさんはお散歩好きで、道端で会うこともありました。 「これから、がんこへ(がんこ寿司)食べに行くねん。一緒に行こか?」と言われたことがあります。 陽気なAさんでしたが、その人生のラストシーンは哀しいものでした。
ブログ投稿画像 久しぶりのブログです。 なんだかんだとバタバタすると、ついついブログをさぼってしまいます。 さて、16年後には3人に1人が認知症若しくは予備軍の人になるというニュースを元に 地域でのサポーター講座を実施しました。 「16年後は生きてないわ」という参加者の皆さんの大爆笑の中、サポーター講座が始まりました。 16年後には3人に1人? その意味するところは、 「決して他人ごとではない」ということ、「認知症予防に心掛けること」 そして、「助けあう地域づくりが急務」ということです。 今回のサポーター講座は、その3つのテーマを元に行いました。 もちろん、主体は「助けあう地域づくり」のための、認知症の人の理解と声の掛け方です。 この地域の皆さん、とても明るく真剣でした。 そして、ちょっとしたおせっかいな見守りをお願いしました。 同時に認知症予防への関心も高く、地域は見守りだけでなく、活き活きした繋がりにも 大切なのだと痛感した次第です。 [caption id="attachment_5649" align="alignnone" width="1024"] 地域の代表の方も、健康寿命を延ばすための働きかけをしています。[/caption] [caption id="attachment_5650" align="alignnone" width="1024"] 町会長の協力あってこそですね。[/caption]      
ブログ投稿画像 厚労省の推計が出ましたね。 2040年には認知症の人が584万人になるとのこと。 軽度認知障がい(MCI)の方を含めると、 2060年には65歳以上の3人に1人が、 認知症若しくはその可能性のある方ということになります。 要するに、「決して他人事ではないですよ」 「認知症予防に心掛けましょう」ということを言いたいのだと思います。 自分が認知症になる可能性があることもさることながら、 その認知症の人を介護する家族などの立場の人も 増加するということにもなります。 認知症の人の数だけでなく、認知症の人が増えれば、 介護する人も増えるということ、そして個人の問題だけでは済まず、 地域の問題にもなっていくと言えるでしょう。 認知症のご本人をどのようにサポートするか、 介護者を同じくどのようにサポートするのか、 そして地域としてどのようにサポートするのか、 課題は山積の状態のまま、「まだ他人事」と思っている現状から、 気が付けば「自分事」になっているのです。 ただ、認知症になっても、或いは介護者になっても 「恐れることなく」受け入れられる体制作り。 それが急がれる状況なのです。      
ブログ投稿画像 昨夜家に遅めに帰り、つけたテレビの番組。 何故人類は音楽を生み出したのか、途中から見たので、そんな題名だったと思います。 その番組で、認知症の人と音楽についても、脳科学的にその効果について説明されていました。 詳細は映像を見直してからでないと書けませんが、 イギリスの認知症病棟の人々が、ビートルズの歌をみんなで合唱するシーンは圧巻でした。 特に脳の機能がフルパワーになる、 思春期に聞いた音楽は、強力に脳に残るようです。 認知症の人への音楽の効用は、これまで多くの研究で言われていることなので、 今更言うまでもないことなのですが、療法と構えるだけでなく、 日頃から気軽にそして身近に使えるものとして、音楽があるということでしょう。 注意する点は音楽をかける側にあります。 果たしてその音楽が、その方にあっているのかどうか、 そして聞かせてほったらかしにしていないかどうか、 認知症の人ではなく、ケア側の問題が大きいのかなと思います。 音楽が何故人類に生まれたか?  化石として残っているものではないので、その研究はまだ途上だそうですが、 恐らくは、「音楽は人と人を繋げる」ために生まれたのではないかということです。 ですから、認知症の人と音楽を聴く場合、 ともに楽しむということを忘れてはならないでしょう。   もしかしたら、音楽は、世界の人々を結び付けられる力を持ったものだと思うのですが、 残念ながら、銃声や破壊音、そして人が殺されていく悲惨な戦争の前に、 音楽はかき消され、失われてしまっているのかもしれません。