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2023.01.16

トピックス
明日は誰にも保障されていない センター長の石川です。 先日は竹内まりやの「人生の扉」という歌を紹介しました。 竹内まりやには、もう一つ私たちの仕事に関わるであろう「いのちの歌」があります。 この歌はまた後日紹介します。 今日はケツメイシの唄を。 私もそれなりの歳になり、 いつのまにか自分より年下の友人、知人の訃報に接することが多くなりました。 子どものころから親しんだ有名人も次から次へと亡くなり、 誰が生きているのか死んでいるのかわからない始末です。 年齢の近い人の死亡記事では、その原因をつい読んでしまいます。 死を身近に感じるようになったということでしょうか。 私がこの仕事に入って間もないころ、昨日話をしていた人が亡くなって泣いたことがあります。 その人に限らず何回かは泣いたことがあるかな。 私が当時働いていた施設では、生活相談員は葬儀関係を取り仕切っていました。(多くの人は施設で葬儀を出したのです) 一応葬儀社は入ってくれますが、毎回斎場まで行き、お骨を拾うところまで行いました。 葬儀社が忙しい時は私が葬儀社の代わりとなって斎場の手続き (書類と心付けを渡す。心付けを渡すという風習はその後禁止されました)を行うなんてこともありました。 全く身寄りのない人のお通夜は寂しく、遅くまで祭壇のそばにいたこともあります。 生活保護の方は葬儀社も入れず、祭壇を組み立てもしました。 そうやって見送ってきた人は、多分100人を超えると思います。 でもそれを繰り返しているうちに、ひとつひとつの命の重さを感じる思いが希薄になり、 儀式が形式的になっていったとも言えます。 やはりお見送りは寂しくあってはならないと思うのです。 (黒澤明監督の「夢」では、お祭りのようなお葬式でした) でもさすがにこの歳になり、友人、知人を失うと、やはり身近なものとして感じてしまいます。 そして私はそれを温かく見送ることができるのだろうか? 私ならどう思うのか? もし明日は我が身と思うと、 私の心は広くも許容力もないので、耳を塞ぎ目を閉じるかも知れません。 ケツメイシのミュージックビデオは今見ると衝撃的ですね。 2016年制作ですから、まさかという感じです。 明日は、若い人にも保障されているものではないのです。 ダチョウ倶楽部の映像は、ちょっと哀しくなるけど、ケツメイシの「友よ~この先もずっと」です https://www.youtube.com/watch?v=IV7usfiEbms  
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2023.01.13

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人生の扉 先日小学校3年生のキッズサポーター講座に行ってきました。 3年生は2クラスだけでしたが、本当に元気な子どもたち。 意表を突く質問もあったりして、子どもたちに話をするときは 私たちは即応できるようにしないとなりません。 同時にいい勉強になりますね。 さてそんな10歳の子どもたちも いつかは50歳になり、60歳になり70歳になっていきます。 みんなそれぞれにどんな人生をたどるのでしょうか。 彼らがその年齢になるころには認知症はなくなっているのかな? さて、歳を取ることはどうしてもネガティブに考えてしまうことが多いですが、 竹内まりやの「人生の扉」は、 歳を取ることに対してのリスペクトが感じられる名曲です。 ケアの仕事も、この歌の歌詞のように、 人生を(年齢を)リスペクトしたケアを心掛けていくことが必要でしょう。 歳を曲がりなりにも取った私には心に軽快に響く歌ですね。 歌詞付き↓ https://www.youtube.com/watch?v=GWgMb-9dzis I say its fine to be 60 60歳になるのは素晴らしい You say its alright to be 70 70歳になるのも悪くない And they say still good to be 80 80歳でもまだまだ大丈夫 But I`ll maybe live over 90 でも私は90歳以上生きる   竹内まりや本人の歌声↓ https://www.youtube.com/watch?v=K5IeHponvZ0
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2023.01.11

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ひとりの人を取り巻く環境 人は誰でも周囲の環境とともに人生を過ごします。 例えポツンと一軒家に一人で暮らしていたとしても、 その暮らしている周囲の環境と一体化して暮らしています。 在宅生活を送る認知症の人も、 その周囲の地域環境によって住みやすいかそうでないかが決まってきます。 人の人生の最期の時 救急で運ばれ病院へ行ったとします。 その人が見る最後の景色は病院の天井か、見知らぬ医師、看護師の顔かもしれません。 しかし、ホームで長年暮らした人はその施設内の景色、 そして職員たちという馴染みの景色の中で人生の最期を迎えます。 まったく知らないところではなく、 馴染んだ場所や人たちのいる場所で、その人生を終えること。 本人にとっても、周囲の人たちにとっても意味ある環境と言えるでしょう。 何故ならば、私たちにとって、 その人は死してなお私たちの心に生き続ける(刻まれる)からです。 ひとりの人を取り巻く環境は、 その人の人生の最期に至るまで意味を持つものと言えるでしょう。 利用者にとって周囲の人たちは重要な環境。 つまり私たちはその重要な環境を形作っている一人なのです。 話は変わりますが、 五月山動物園のウオンバットのワイン。 ギネスに登録された長寿のウオンバットです。 このワインの長寿の秘訣、 それは隣りの柵の中にいる若いメスウオンバットのユキちゃんを見つめること。 長老のワインにとって重要な環境なのです。 隣りのかわいいユキちゃんはワインにとって大切な環境です。 ユキちゃんです
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2023.01.09

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見かたを変えれば こうだとしか思えていなかったものが 全く違った捉え方ができる でもなかなか自分の中の固定化された景色は変えられないのですが ちょっと見かたを変えて見る時間を持てば 或は試してみれば 違う思考が広がって、「なるほど!」という世界が広がるかもしれません。 先日の恩蔵先生のドキュメントを見ても感じました。 認知症の母から出てくる「私はバカだから」とか「早く死んだほうがいいね」という言葉に、 娘の恩蔵先生は落胆するのですが、 しかし捉え方を変えると、 何かがわからなかったりできなかったりした時に発するその言葉は 実は自分の状況がわかっているからこそ出てきた言葉ではないかと。 認知機能を働かせるうえでの生活上の動作は難しくなっても、 感情はしっかりと生きていて、自分のことも周囲のこともわかっているのではないかと。 つい表面上だけで捉えてしまう私たちですが、見かたを変えると、 「認知症の人」から、「ひとりの人」としての感情が見えてくるのではないでしょうか。 数年前の西武・そごうの広告で有名になったこの言葉 以前もブログでアップしたかもしれませんが、再掲します。 上から読むのと、下から読むのでは 違った世界がそこに広がります。 上から読んだ後、下の行から上の行へ読んでいってください。      大逆転は、起こりうる。  わたしは、その言葉を信じない。  どうせ奇跡なんて起こらない。  それでも人々は無責任に言うだろう。  小さな者でも大きな相手に立ち向かえ。  誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え。  今こそ自分を貫くときだ。  しかし、そんな考え方は馬鹿げている。  勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。  わたしはただ、為す術もなく押し込まれる。  土俵際、もはや絶体絶命。   さて、お堀の水に映る松本城 どちらが実際の写真でしょうか?
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2022.12.30

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皆様良い年をお迎えください センター長の石川です。 最近は時間についてブログに書いていました。 その時間をどうしても感じてしまうのが年末でしょう。 いよいよ慌ただしくなってきましたね。 まさしく、時間に追われるような感じです。 でもそれは人の感覚。その感覚も一人ひとり違いますね。 ただ時間はその感覚とは関係なく、非情に??進んでいきます。 全世界の人達に平等に。 振り返れば、2022年もコロナに翻弄された年だったかもしれません。 めっちゃ大変で、つらい時間もありました。 でもその時間は単に過ぎ去った時間ではなく、今に繋がっているもの。 つまり時間は過ぎ去っていくものではなく、 今の自分たちの有り様に繋がっているものと言えるのです。 きっとつらく大変だった時間の体験は、未来の時間に有意義に繋がっていくのでしょう。 認知症の人にとって年末年始も、その人の状況によって変わってくるでしょう。 なんとなく気持ちがワクワク感じている人もおれば、 年末も正月も関係なく、本人も介護家族にも混乱の中にいる人もいるでしょう。 介護の大変さ(本人の大変さ)に盆も正月もないでしょう。 少なくとも、私たちケアの専門職は、 その本人や介護者の「大変さ」に寄り添っていくことが「使命」であるということです。 過去、現在、未来、時間の流れに関わりなく。 では定番の言葉ですが、 「本年はありがとうございました。皆様良い年をお迎えください!」 2022年のブログはこれで終了です。 皆様に感謝。
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2022.12.24

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感情に響く風景(その3) ~時間という風景を見る~ きれいな花を見た時、「きれいな花ね!」と私たちはすぐに反応して言葉に出します。 しかし認知症の人は、きれいな花を見ても、 全く関係のないような言葉をぽつんと言ってみたり、 花に焦点を合わさなかったり、そんな姿を見ると、介護者はどうしても落胆してしまいます。 でもそれはその瞬間の時間に答えを求めようとする私たち側の時間感覚かもしれません。 時間の感覚は、心に大きく左右されると思います。 時間の経過は地球上どこでも誰でも一緒だけど、私たちの感覚で、早くも遅くもなります。 嫌な状況(上司に怒られるときとか)の時は時間が長く感じるし、 楽しい時はあっという間かもしれません。 また、ゆったりと流れるように感じる場所とか、 或いは時間に追われるというような感覚になる慌ただしい場所というのもあるかもしれません。 いつの間にか年末、もう一年経ってしまったとも思う今日この頃でもあります。 クリスマスなので、アヒルちゃんの写真を!   このように時間は常に私たちの生活にべったりと張り付いています。 同時に人それぞれに時間の感覚は違ってきます。時間そのものは不変なものなのに! では認知症の人にとっての時間はどのようなものなのでしょうか? 認知症の人とのコミュニケーションでは、 「短く深い」時間で。かつ瞬間ではなく「連続かつゆっくり」で。 つまり、接続詞を省いた「花!」「きれい!」という単語で、時には感嘆詞を大げさに「すごい!」とか。 連続というのは、瞬間の時間でその言葉を終わらせるのではなく、繰り返し伝えるということ。 でっかいひよこちゃん ニワトリになったらどれだけ大きくなることか!   私たちの「会話」は、どうしてもいろいろな情報をくっつけてしまいます。 しかしそれでは伝わりにくいというか、理解することが厳しくなります。 よく知っている固有名詞の方が伝わりやすいでしょう。 さらに一度では伝わりにくいので、繰り返しゆっくりと。 つまり、私たちの時間のスピードではなく、認知症の人が理解しやすい時間に合わせるということです。 12月24日は、この人の写真を載せないと。   風景は見えるものだけでなく、「時空」で生活している私たちは、 「時間」という風景も見ていくのです。 難しく書きましたが、要するに認知症の人に合わせて会話するということなのです。 (つづく)
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2022.12.17

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ケアの世界と「時間」 全く違う世界のことをかじって勉強してみるのも面白いですね。 今回は全く不得意な物理の世界。 テーマは「時間」 なんと、時間は重力の影響を受けて、地上ほど遅く、 高く上るほど重力の影響が少なくなって、時間は早く進むそうです。???  時間は重力の影響を受ける? では宇宙ステーションでの時間は私たちより早い? さらに、過去、現在、未来とは、私たちの脳の中で起こっているものであるとのこと。 これは何となくわかります。 瞬間瞬間に感じることが現在であって、即、過去になってしまいますからね。 そしてこれから来ることを予測するのが未来。 要するに過去・現在・未来は法律に定められているわけでもない、私たちの感覚的なものとか。 さらに時間は逆行することもあるのだとか。それも物理的に。 ここまで来ると、訳が分からなくなってしまいます。 しかし、私たちケアに関わる人間にとって時間は、「重さ」でもあるのです。 私は講義で、ルーティンワークに追われる中、 利用者と「濃く」関わる時間を持ってほしいとお話しします。 「濃い時間」それは「重い時間」ともいえるのです。 例えば、日々ルーティンワークに追われる時間の中で、 1分立ち止まり、不安の中にいる人や、終末期を迎えた人の手を優しく握り、暖かなまなざしを送る。 その1分が、濃い、重い時間なのです。 或いは、終末期を迎えた方にとっては、その1分1分が重い時間なのかもしれません。 ですから私たちにとって時間は、単に通り過ぎていくものではないのです。 では認知症の人にとっての時間とは何か? それは脳の働きがかなり関わっているかもしれません。 もしかしたら、時間は様々な方向へ行きつ戻りつしているかもしれません。 ここは脳科学者の方に聞かなければならない領域と思いますが、 ある意味私たちの想像をはるかに超えた世界がそこにはあるかもしれませんね。 時間が逆行するという意味も何となく分かるような気がします。 私たちはその認知症の人の時間にしっかりと向き合っていかなければならないのでしょう。 「時間」 それは重力の影響を受けるとか、逆行するとか、濃いとか重いとか、 多分に情緒的要素も含まれるかもしれませんが、 意外とケアの世界と深い関りがあるのですよね。 いずれにしても利用者にとっての「時間の重さ」を 私たちはもっと感じなければならないと思うのです。
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2022.12.14

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感情に響く風景(その2) ~心がある場所~ 心に響くとか、心に伝わるとかという言葉があります。 私もよく使いますが、それでは、その心って、脳のどこにあるのかな? っていう疑問は愚問ですかね? 脳科学的に証明されれば、「認知症の人は心を失ったわけではない。むしろ快活に感じている」と、 情緒的ではなく、明確に言えるのですが、 私はまだ勉強不足。今度脳科学者の恩蔵絢子先生に会ったときに聞いてみることにします。   しかし、「きれいなもの」を見たときに、 私たちが望むような明るい反応が認知症の人になかったとしても、 何も感じられなくなったと思うのは早計かもしれません。 表現できる機能がダメージを受けているから「きれい!」とわかってもそれが表現できない、 若しくは、「きれいなもの」がいわゆる「心」に届きにくくなっているからかもしれません。 でもそれは、届きにくくなっているだけで、届いてないわけではないのです。 それゆえ、「認知症の人は心も失われている」と考えていいものでしょうか。 むしろ、ディスプレイに表出される情報だけに左右されて、 その中で誹謗中傷する人の方が、脳は働いていても、心は消えてしまっていると言えるかもしれません。 ディスプレイに表示された言葉でストレスを感じるようならば、 思い切ってデジタルデトックス(デジタル断ち・ディスプレイから離れる)して、 自然の空気を吸い、花々と会話する方がずっと自分の人生にプラスになります。 認知症の人は、デイスプレイ以外の世界をしっかりと感じておられます。 その心の働きは私たち以上に豊かかもしれません。 以前「心に彩を添える」というブログを書きましたが、 きれいな景色、楽しかった思い出話や写真、暖かな家族との団らんや写真等・・・。 認知症になるとわからなくなるではなく、認知症の人ほど、 ほのぼのとした時間が必要(認知機能より、感情や感性の動きが豊かになるため)なのです。 その感情への関りが逆の状況、つまり不快なかかわりをすると、当然ネガティブな反応になります。 それは認知症の人だけでなく、私たちも同じでしょう。 そして人は対立や憤りや苛立ちを感じてしまい、ケア側ではそれが表出してしまいがちです。 つまり、「心」は周囲の人たちの影響を大きく受ける場所と言えるでしょう。 (つづく)
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 先日は竹内まりやの「人生の扉」という歌を紹介しました。 竹内まりやには、もう一つ私たちの仕事に関わるであろう「いのちの歌」があります。 この歌はまた後日紹介します。 今日はケツメイシの唄を。 私もそれなりの歳になり、 いつのまにか自分より年下の友人、知人の訃報に接することが多くなりました。 子どものころから親しんだ有名人も次から次へと亡くなり、 誰が生きているのか死んでいるのかわからない始末です。 年齢の近い人の死亡記事では、その原因をつい読んでしまいます。 死を身近に感じるようになったということでしょうか。 私がこの仕事に入って間もないころ、昨日話をしていた人が亡くなって泣いたことがあります。 その人に限らず何回かは泣いたことがあるかな。 私が当時働いていた施設では、生活相談員は葬儀関係を取り仕切っていました。(多くの人は施設で葬儀を出したのです) 一応葬儀社は入ってくれますが、毎回斎場まで行き、お骨を拾うところまで行いました。 葬儀社が忙しい時は私が葬儀社の代わりとなって斎場の手続き (書類と心付けを渡す。心付けを渡すという風習はその後禁止されました)を行うなんてこともありました。 全く身寄りのない人のお通夜は寂しく、遅くまで祭壇のそばにいたこともあります。 生活保護の方は葬儀社も入れず、祭壇を組み立てもしました。 そうやって見送ってきた人は、多分100人を超えると思います。 でもそれを繰り返しているうちに、ひとつひとつの命の重さを感じる思いが希薄になり、 儀式が形式的になっていったとも言えます。 やはりお見送りは寂しくあってはならないと思うのです。 (黒澤明監督の「夢」では、お祭りのようなお葬式でした) でもさすがにこの歳になり、友人、知人を失うと、やはり身近なものとして感じてしまいます。 そして私はそれを温かく見送ることができるのだろうか? 私ならどう思うのか? もし明日は我が身と思うと、 私の心は広くも許容力もないので、耳を塞ぎ目を閉じるかも知れません。 ケツメイシのミュージックビデオは今見ると衝撃的ですね。 2016年制作ですから、まさかという感じです。 明日は、若い人にも保障されているものではないのです。 ダチョウ倶楽部の映像は、ちょっと哀しくなるけど、ケツメイシの「友よ~この先もずっと」です https://www.youtube.com/watch?v=IV7usfiEbms  
ブログ投稿画像 先日小学校3年生のキッズサポーター講座に行ってきました。 3年生は2クラスだけでしたが、本当に元気な子どもたち。 意表を突く質問もあったりして、子どもたちに話をするときは 私たちは即応できるようにしないとなりません。 同時にいい勉強になりますね。 さてそんな10歳の子どもたちも いつかは50歳になり、60歳になり70歳になっていきます。 みんなそれぞれにどんな人生をたどるのでしょうか。 彼らがその年齢になるころには認知症はなくなっているのかな? さて、歳を取ることはどうしてもネガティブに考えてしまうことが多いですが、 竹内まりやの「人生の扉」は、 歳を取ることに対してのリスペクトが感じられる名曲です。 ケアの仕事も、この歌の歌詞のように、 人生を(年齢を)リスペクトしたケアを心掛けていくことが必要でしょう。 歳を曲がりなりにも取った私には心に軽快に響く歌ですね。 歌詞付き↓ https://www.youtube.com/watch?v=GWgMb-9dzis I say its fine to be 60 60歳になるのは素晴らしい You say its alright to be 70 70歳になるのも悪くない And they say still good to be 80 80歳でもまだまだ大丈夫 But I`ll maybe live over 90 でも私は90歳以上生きる   竹内まりや本人の歌声↓ https://www.youtube.com/watch?v=K5IeHponvZ0
ブログ投稿画像 人は誰でも周囲の環境とともに人生を過ごします。 例えポツンと一軒家に一人で暮らしていたとしても、 その暮らしている周囲の環境と一体化して暮らしています。 在宅生活を送る認知症の人も、 その周囲の地域環境によって住みやすいかそうでないかが決まってきます。 人の人生の最期の時 救急で運ばれ病院へ行ったとします。 その人が見る最後の景色は病院の天井か、見知らぬ医師、看護師の顔かもしれません。 しかし、ホームで長年暮らした人はその施設内の景色、 そして職員たちという馴染みの景色の中で人生の最期を迎えます。 まったく知らないところではなく、 馴染んだ場所や人たちのいる場所で、その人生を終えること。 本人にとっても、周囲の人たちにとっても意味ある環境と言えるでしょう。 何故ならば、私たちにとって、 その人は死してなお私たちの心に生き続ける(刻まれる)からです。 ひとりの人を取り巻く環境は、 その人の人生の最期に至るまで意味を持つものと言えるでしょう。 利用者にとって周囲の人たちは重要な環境。 つまり私たちはその重要な環境を形作っている一人なのです。 話は変わりますが、 五月山動物園のウオンバットのワイン。 ギネスに登録された長寿のウオンバットです。 このワインの長寿の秘訣、 それは隣りの柵の中にいる若いメスウオンバットのユキちゃんを見つめること。 長老のワインにとって重要な環境なのです。 [caption id="attachment_4203" align="alignnone" width="2048"] 隣りのかわいいユキちゃんはワインにとって大切な環境です。[/caption] [caption id="attachment_3379" align="alignnone" width="1600"] ユキちゃんです[/caption]
ブログ投稿画像 こうだとしか思えていなかったものが 全く違った捉え方ができる でもなかなか自分の中の固定化された景色は変えられないのですが ちょっと見かたを変えて見る時間を持てば 或は試してみれば 違う思考が広がって、「なるほど!」という世界が広がるかもしれません。 先日の恩蔵先生のドキュメントを見ても感じました。 認知症の母から出てくる「私はバカだから」とか「早く死んだほうがいいね」という言葉に、 娘の恩蔵先生は落胆するのですが、 しかし捉え方を変えると、 何かがわからなかったりできなかったりした時に発するその言葉は 実は自分の状況がわかっているからこそ出てきた言葉ではないかと。 認知機能を働かせるうえでの生活上の動作は難しくなっても、 感情はしっかりと生きていて、自分のことも周囲のこともわかっているのではないかと。 つい表面上だけで捉えてしまう私たちですが、見かたを変えると、 「認知症の人」から、「ひとりの人」としての感情が見えてくるのではないでしょうか。 数年前の西武・そごうの広告で有名になったこの言葉 以前もブログでアップしたかもしれませんが、再掲します。 上から読むのと、下から読むのでは 違った世界がそこに広がります。 上から読んだ後、下の行から上の行へ読んでいってください。      大逆転は、起こりうる。  わたしは、その言葉を信じない。  どうせ奇跡なんて起こらない。  それでも人々は無責任に言うだろう。  小さな者でも大きな相手に立ち向かえ。  誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え。  今こそ自分を貫くときだ。  しかし、そんな考え方は馬鹿げている。  勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。  わたしはただ、為す術もなく押し込まれる。  土俵際、もはや絶体絶命。   さて、お堀の水に映る松本城 どちらが実際の写真でしょうか?
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 最近は時間についてブログに書いていました。 その時間をどうしても感じてしまうのが年末でしょう。 いよいよ慌ただしくなってきましたね。 まさしく、時間に追われるような感じです。 でもそれは人の感覚。その感覚も一人ひとり違いますね。 ただ時間はその感覚とは関係なく、非情に??進んでいきます。 全世界の人達に平等に。 振り返れば、2022年もコロナに翻弄された年だったかもしれません。 めっちゃ大変で、つらい時間もありました。 でもその時間は単に過ぎ去った時間ではなく、今に繋がっているもの。 つまり時間は過ぎ去っていくものではなく、 今の自分たちの有り様に繋がっているものと言えるのです。 きっとつらく大変だった時間の体験は、未来の時間に有意義に繋がっていくのでしょう。 認知症の人にとって年末年始も、その人の状況によって変わってくるでしょう。 なんとなく気持ちがワクワク感じている人もおれば、 年末も正月も関係なく、本人も介護家族にも混乱の中にいる人もいるでしょう。 介護の大変さ(本人の大変さ)に盆も正月もないでしょう。 少なくとも、私たちケアの専門職は、 その本人や介護者の「大変さ」に寄り添っていくことが「使命」であるということです。 過去、現在、未来、時間の流れに関わりなく。 では定番の言葉ですが、 「本年はありがとうございました。皆様良い年をお迎えください!」 2022年のブログはこれで終了です。 皆様に感謝。
ブログ投稿画像 きれいな花を見た時、「きれいな花ね!」と私たちはすぐに反応して言葉に出します。 しかし認知症の人は、きれいな花を見ても、 全く関係のないような言葉をぽつんと言ってみたり、 花に焦点を合わさなかったり、そんな姿を見ると、介護者はどうしても落胆してしまいます。 でもそれはその瞬間の時間に答えを求めようとする私たち側の時間感覚かもしれません。 時間の感覚は、心に大きく左右されると思います。 時間の経過は地球上どこでも誰でも一緒だけど、私たちの感覚で、早くも遅くもなります。 嫌な状況(上司に怒られるときとか)の時は時間が長く感じるし、 楽しい時はあっという間かもしれません。 また、ゆったりと流れるように感じる場所とか、 或いは時間に追われるというような感覚になる慌ただしい場所というのもあるかもしれません。 いつの間にか年末、もう一年経ってしまったとも思う今日この頃でもあります。 [caption id="attachment_4309" align="alignnone" width="2048"] クリスマスなので、アヒルちゃんの写真を![/caption]   このように時間は常に私たちの生活にべったりと張り付いています。 同時に人それぞれに時間の感覚は違ってきます。時間そのものは不変なものなのに! では認知症の人にとっての時間はどのようなものなのでしょうか? 認知症の人とのコミュニケーションでは、 「短く深い」時間で。かつ瞬間ではなく「連続かつゆっくり」で。 つまり、接続詞を省いた「花!」「きれい!」という単語で、時には感嘆詞を大げさに「すごい!」とか。 連続というのは、瞬間の時間でその言葉を終わらせるのではなく、繰り返し伝えるということ。 [caption id="attachment_4306" align="alignnone" width="2048"] でっかいひよこちゃん ニワトリになったらどれだけ大きくなることか![/caption]   私たちの「会話」は、どうしてもいろいろな情報をくっつけてしまいます。 しかしそれでは伝わりにくいというか、理解することが厳しくなります。 よく知っている固有名詞の方が伝わりやすいでしょう。 さらに一度では伝わりにくいので、繰り返しゆっくりと。 つまり、私たちの時間のスピードではなく、認知症の人が理解しやすい時間に合わせるということです。 [caption id="attachment_4304" align="alignnone" width="2048"] 12月24日は、この人の写真を載せないと。[/caption]   風景は見えるものだけでなく、「時空」で生活している私たちは、 「時間」という風景も見ていくのです。 難しく書きましたが、要するに認知症の人に合わせて会話するということなのです。 (つづく)
ブログ投稿画像 全く違う世界のことをかじって勉強してみるのも面白いですね。 今回は全く不得意な物理の世界。 テーマは「時間」 なんと、時間は重力の影響を受けて、地上ほど遅く、 高く上るほど重力の影響が少なくなって、時間は早く進むそうです。???  時間は重力の影響を受ける? では宇宙ステーションでの時間は私たちより早い? さらに、過去、現在、未来とは、私たちの脳の中で起こっているものであるとのこと。 これは何となくわかります。 瞬間瞬間に感じることが現在であって、即、過去になってしまいますからね。 そしてこれから来ることを予測するのが未来。 要するに過去・現在・未来は法律に定められているわけでもない、私たちの感覚的なものとか。 さらに時間は逆行することもあるのだとか。それも物理的に。 ここまで来ると、訳が分からなくなってしまいます。 しかし、私たちケアに関わる人間にとって時間は、「重さ」でもあるのです。 私は講義で、ルーティンワークに追われる中、 利用者と「濃く」関わる時間を持ってほしいとお話しします。 「濃い時間」それは「重い時間」ともいえるのです。 例えば、日々ルーティンワークに追われる時間の中で、 1分立ち止まり、不安の中にいる人や、終末期を迎えた人の手を優しく握り、暖かなまなざしを送る。 その1分が、濃い、重い時間なのです。 或いは、終末期を迎えた方にとっては、その1分1分が重い時間なのかもしれません。 ですから私たちにとって時間は、単に通り過ぎていくものではないのです。 では認知症の人にとっての時間とは何か? それは脳の働きがかなり関わっているかもしれません。 もしかしたら、時間は様々な方向へ行きつ戻りつしているかもしれません。 ここは脳科学者の方に聞かなければならない領域と思いますが、 ある意味私たちの想像をはるかに超えた世界がそこにはあるかもしれませんね。 時間が逆行するという意味も何となく分かるような気がします。 私たちはその認知症の人の時間にしっかりと向き合っていかなければならないのでしょう。 「時間」 それは重力の影響を受けるとか、逆行するとか、濃いとか重いとか、 多分に情緒的要素も含まれるかもしれませんが、 意外とケアの世界と深い関りがあるのですよね。 いずれにしても利用者にとっての「時間の重さ」を 私たちはもっと感じなければならないと思うのです。
ブログ投稿画像 心に響くとか、心に伝わるとかという言葉があります。 私もよく使いますが、それでは、その心って、脳のどこにあるのかな? っていう疑問は愚問ですかね? 脳科学的に証明されれば、「認知症の人は心を失ったわけではない。むしろ快活に感じている」と、 情緒的ではなく、明確に言えるのですが、 私はまだ勉強不足。今度脳科学者の恩蔵絢子先生に会ったときに聞いてみることにします。   しかし、「きれいなもの」を見たときに、 私たちが望むような明るい反応が認知症の人になかったとしても、 何も感じられなくなったと思うのは早計かもしれません。 表現できる機能がダメージを受けているから「きれい!」とわかってもそれが表現できない、 若しくは、「きれいなもの」がいわゆる「心」に届きにくくなっているからかもしれません。 でもそれは、届きにくくなっているだけで、届いてないわけではないのです。 それゆえ、「認知症の人は心も失われている」と考えていいものでしょうか。 むしろ、ディスプレイに表出される情報だけに左右されて、 その中で誹謗中傷する人の方が、脳は働いていても、心は消えてしまっていると言えるかもしれません。 ディスプレイに表示された言葉でストレスを感じるようならば、 思い切ってデジタルデトックス(デジタル断ち・ディスプレイから離れる)して、 自然の空気を吸い、花々と会話する方がずっと自分の人生にプラスになります。 認知症の人は、デイスプレイ以外の世界をしっかりと感じておられます。 その心の働きは私たち以上に豊かかもしれません。 以前「心に彩を添える」というブログを書きましたが、 きれいな景色、楽しかった思い出話や写真、暖かな家族との団らんや写真等・・・。 認知症になるとわからなくなるではなく、認知症の人ほど、 ほのぼのとした時間が必要(認知機能より、感情や感性の動きが豊かになるため)なのです。 その感情への関りが逆の状況、つまり不快なかかわりをすると、当然ネガティブな反応になります。 それは認知症の人だけでなく、私たちも同じでしょう。 そして人は対立や憤りや苛立ちを感じてしまい、ケア側ではそれが表出してしまいがちです。 つまり、「心」は周囲の人たちの影響を大きく受ける場所と言えるでしょう。 (つづく)