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「トピックス」で記事を検索しました。

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2021.05.06

トピックス
「宅配便が先生をお届けに」から見えること センター長の石川です。 長谷川洋先生の第2回目の記事はお読みになられたでしょうか。 この2回目の記事にはいくつか大切なポイントがあるのですが、 今回は地域で支えるという部分で見ていきたいと思います。 長谷川洋先生「なかまある」よりの記事を転載します。👇 「ある日、父がなかなか帰ってこない日がありました。行きつけの喫茶店に行こうとして家を出たのですが、行ってみたらお休みだった。帰ってくればいいものを、今度はいつもの理容室に行ってしまい、たまたまそこも休み。どんどん遠くに行ってしまい、そこで転んでしまって帰れなくなったところに、いつもわが家に荷物を届けてくださる宅配便のドライバーの方が通りかかって、車に乗せてくださったんです。『今日は荷物ではなく、長谷川先生をお届けに来ました』って(笑)。父は、地域の方々に支えていただき幸せな時間を過ごすことができていると思います」   長谷川和夫先生が転倒され、そこを宅急便の人が助けてくれたという話は聞いていたのですが、「届けてくれた」というところ、大阪人的には「ええやん、おもろいやん」と、思ったところでした。 そこで思ったのは、宅配便の方は大体回る地域が決まっているということです。 宅配便の方だけでなく、郵便局員、Uber Eatsの方など、地域をぐるぐる回っている人は多いのです。 長谷川先生のように、有名人で届けてくれるというのはスペシャルなことかもしれませんが、 少なくとも「あれ、あの人大丈夫かな?」と思ってくれたならば、 或いはあらかじめ介護家族がカミングアウトしておく(社会的システムならばなお良い)などしておけば、 おや?っと思ってもらえて、家族、地域包括、警察などに連絡してもらえるだけでも助かるのです。 このように宅配便の方などは、地域での見守り、地域で支えることに繋がっていくのではないかとも思うのです。 宅配便の会社的取り組みがあれば、SDGsにも繋がることでしょう。 「なかまある」HPより転写 長谷川洋先生のインタビューから分かること、また取り上げていきたいと思います。
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2021.05.04

トピックス
長谷川洋先生のこと(2)「確かなことが失われること」 センター長の石川です。 何故長谷川洋先生の記事を載せたかというと、 そこには認知症ケアの大切な視点が散りばめられているからです。 今回は第1回の記事の中から「確かなことが失われる=不確かなことが増えること」について抜粋します。 これはかねてから長谷川和夫先生がお話しされていたことですね。 「特に父が言った『認知症が始まったことで、自分の中の“確かさ”が揺らぐ』という言葉には驚きました。 認知症の方は何度も同じことを話したり、質問したりしますが、それは短期記憶障害によるものだと思われています。でも父の言葉を聞いて、やはりそれだけではないのだな、と。自分の中にある『確かなこと』が失われていくことが不安だから、繰り返し尋ねたり、何度も確認したりする。根底にあるのは自分自身への不安感なのだと思うと、私たち周りの人間の対応の仕方も違ってくるのかもしれません。たとえば、聞かれなくても同じことを何度も話してあげることも必要かもしれませんし、それが認知症の方の不安感の解消にもなるのだということもよくわかりました」 (以上、なかまあるの記事から抜粋) 長谷川洋先生、中央法規の寺田さんと共に   例えば、目の前にペットボトルがあるとします。 私たちはそれを何の違和感もなくペットボトルとして認識する(認知する)のですが、 認知機能が低下していくと、そのペットボトルを 「これなんだっけ?」と思ってしまうのです。 私たちにとって当たり前のことが確かでなくなるのです。 だから不安が増してしまうのです。 ここは重要なところですね。 長谷川洋先生の第2回目はこちらから https://nakamaaru.asahi.com/article/13736264 次回、この内容から、またポイント整理を次回行っていきます。    
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2021.04.30

トピックス
みんな違って みんなおもしろい センター長の石川です 以前、長谷川和夫先生から「みんな違って みんな尊い」という言葉をいただきましたが、 思えば思うほど深い言葉だなと思います。 私たちが関わる全ての人に、それぞれの人生ドラマがあります。 その人生ドラマ一つひとつが実に味があるのです。 職業で言えば、校長先生であったり、警察官であったり、調理師であったり、 トラックやタクシーの運転手であったり、医者や看護師であったり、会社の会計係であったり、 農家の人であったり、主婦として家を守り続けた人であったり、 皆さんそれぞれに違って、それぞれの人生に接することがとてもおもしろいのです。 おもしろいと言っても、お笑いという意味ではありません。 これだけ一人一人違う人生を送ってこられた方と接するこの仕事は、 ある意味味わい深い仕事でもあり、多くの人から学べる仕事でもあるのです。 同じように見えてもみんな違う花々   もちろん実際には、排せつや入浴、食事の介助と、めっちゃ大変です。 特に排せつのケアはつらいと思うことも多分にあるでしょう。 さらにコミュニケーションがうまくとれない方や、目が離せない方などと毎日接していると、 「味わい深いおもしろい仕事」などとは思えないかもしれません。 では、少しでもそのように思えるためにはどうしたらいいか? どんなに関わり方が大変だと思った方でも、その方との中に必ず小さいながらも、 私たちの心に振動する何かがあると思うのです。 その小さな幸せを感じられるかどうか。 「はぁ忙しかった!やっと帰れる」と思った時、 「ふぅやれやれ」と息を掃き出す時、 でもこの日一日頑張ることが出来た、何かがあったことを思い浮かべてみましょう。 もしかしたら、いつも無表情のような人が少し微笑んで見えた瞬間や、 「家に帰らせろ!」と怒っている人が見せる一瞬の孤独な表情や、 ちょっとでも目と目があって見つめあった人がいたことや、 実は日常の忙しさの中に、ほんの小さな私たちの心を支えてくれる瞬間があったのかもしれません。 仕事が終わり、スイッチを自分の世界に切り替える前に、 少しだけ振り返ってみたら、 「いつも笑わないAさんが、今日少し笑ってくれた。」と 自分の中で少しほくそ笑むことができることがあるといいかもしれません。 みんな違って、みんなおもしろいからこそ、 この仕事の意義を感じることが出来るのではないでしょうか。    
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2021.04.27

トピックス
畏敬の念を持つ(抱く)ということ 「畏敬の念を抱く」とは、 「 超越した存在・崇高な存在に対して、無条件に敬う気持ちを持つこと」をいいます。例えば、 国や人種に関係なく救いの手を差し伸べたマザー・テレサの行動に、畏敬の念を抱いた。 富士山頂から見た朝日を見た時、言葉にできない畏敬の念を抱いた。 等々 とても崇高な人や自然に対して使われるように思います。 また普段は使わんやろ、そんなたいそうなって思うかもしれません。 ところがこの「畏敬の念」という言葉、小中学校の学習指導要綱にも載っているものなのです。 知らない大人は恥ずかしいのですよ! 解説には「とかく独善的になりやすい人間の心を反省させ、生きとし生けるものに対する感謝と尊敬の心を生み出していくもの」と、書かれています。   私たちの仕事に振り返ると、マザーテレサでなくても、 人生70年、80年、90年、そして100年と、喜びも悲しみも乗り越えて頑張ってきた方々、 それだけでも敬意を示すと言うことが必要なのです。 その顔のしわの一つひとつに、その苦節が表されているのです。   認知症の人であっても「畏敬の念」が失われないケアを行うこと。 それを心掛けるだけでも、ケアの質は上がっていくでしょう。 センター長の石川でした。  
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2021.04.24

トピックス
街の灯台、アーバンケアを頼ってください! 1年経過してさらに厳しい状況になってしまいました。 1年前は、今を我慢すれば、1年後にはきっと良くなっているだろうという希望を持ちながら、 不安を押さえ込んでいたのですが、 その1年後は1年前をはるかに上回る危険な状況になってしまいました。 確かに1年前と比べると、警戒心の薄れ(慣れっこ)もあって、人々の生活の自由度は大きくなってはいるのですが… 太陽の塔の表情も険しいですね。聖火のエネルギーは届かなかったようです。 このような状況下で、やはり気掛かりなのは、 認知症のご本人や介護が必要な方、そしてその介護家族の方の心身のストレスです。 ストレスを溜めてもお金はたまりません。 ストレスは頭の中から、どんどん掃き出すようにしましょう。 わからないことがあったり、不安だったり、愚痴を掃き出したいときは、遠慮なくご連絡ください。 愚痴の聞き役から、認知症だけでなく、デイサービス、ショートステイ、ご入居など、様々な状況へのご相談に応じます。 アーバンケアは街の灯台です。昼夜の関係なく明かりを灯す灯台です。 困ったときは、いつでも街の灯台アーバンケアを頼ってください! 恐い太陽の塔の写真の後には、可愛らしいお花の写真で癒してください。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 長谷川洋先生の第2回目の記事はお読みになられたでしょうか。 この2回目の記事にはいくつか大切なポイントがあるのですが、 今回は地域で支えるという部分で見ていきたいと思います。 長谷川洋先生「なかまある」よりの記事を転載します。👇 「ある日、父がなかなか帰ってこない日がありました。行きつけの喫茶店に行こうとして家を出たのですが、行ってみたらお休みだった。帰ってくればいいものを、今度はいつもの理容室に行ってしまい、たまたまそこも休み。どんどん遠くに行ってしまい、そこで転んでしまって帰れなくなったところに、いつもわが家に荷物を届けてくださる宅配便のドライバーの方が通りかかって、車に乗せてくださったんです。『今日は荷物ではなく、長谷川先生をお届けに来ました』って(笑)。父は、地域の方々に支えていただき幸せな時間を過ごすことができていると思います」   長谷川和夫先生が転倒され、そこを宅急便の人が助けてくれたという話は聞いていたのですが、「届けてくれた」というところ、大阪人的には「ええやん、おもろいやん」と、思ったところでした。 そこで思ったのは、宅配便の方は大体回る地域が決まっているということです。 宅配便の方だけでなく、郵便局員、Uber Eatsの方など、地域をぐるぐる回っている人は多いのです。 長谷川先生のように、有名人で届けてくれるというのはスペシャルなことかもしれませんが、 少なくとも「あれ、あの人大丈夫かな?」と思ってくれたならば、 或いはあらかじめ介護家族がカミングアウトしておく(社会的システムならばなお良い)などしておけば、 おや?っと思ってもらえて、家族、地域包括、警察などに連絡してもらえるだけでも助かるのです。 このように宅配便の方などは、地域での見守り、地域で支えることに繋がっていくのではないかとも思うのです。 宅配便の会社的取り組みがあれば、SDGsにも繋がることでしょう。 [caption id="attachment_2694" align="aligncenter" width="650"] 「なかまある」HPより転写[/caption] 長谷川洋先生のインタビューから分かること、また取り上げていきたいと思います。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 何故長谷川洋先生の記事を載せたかというと、 そこには認知症ケアの大切な視点が散りばめられているからです。 今回は第1回の記事の中から「確かなことが失われる=不確かなことが増えること」について抜粋します。 これはかねてから長谷川和夫先生がお話しされていたことですね。 「特に父が言った『認知症が始まったことで、自分の中の“確かさ”が揺らぐ』という言葉には驚きました。 認知症の方は何度も同じことを話したり、質問したりしますが、それは短期記憶障害によるものだと思われています。でも父の言葉を聞いて、やはりそれだけではないのだな、と。自分の中にある『確かなこと』が失われていくことが不安だから、繰り返し尋ねたり、何度も確認したりする。根底にあるのは自分自身への不安感なのだと思うと、私たち周りの人間の対応の仕方も違ってくるのかもしれません。たとえば、聞かれなくても同じことを何度も話してあげることも必要かもしれませんし、それが認知症の方の不安感の解消にもなるのだということもよくわかりました」 (以上、なかまあるの記事から抜粋) [caption id="attachment_113" align="alignnone" width="650"] 長谷川洋先生、中央法規の寺田さんと共に[/caption]   例えば、目の前にペットボトルがあるとします。 私たちはそれを何の違和感もなくペットボトルとして認識する(認知する)のですが、 認知機能が低下していくと、そのペットボトルを 「これなんだっけ?」と思ってしまうのです。 私たちにとって当たり前のことが確かでなくなるのです。 だから不安が増してしまうのです。 ここは重要なところですね。 長谷川洋先生の第2回目はこちらから https://nakamaaru.asahi.com/article/13736264 次回、この内容から、またポイント整理を次回行っていきます。    
ブログ投稿画像 センター長の石川です 以前、長谷川和夫先生から「みんな違って みんな尊い」という言葉をいただきましたが、 思えば思うほど深い言葉だなと思います。 私たちが関わる全ての人に、それぞれの人生ドラマがあります。 その人生ドラマ一つひとつが実に味があるのです。 職業で言えば、校長先生であったり、警察官であったり、調理師であったり、 トラックやタクシーの運転手であったり、医者や看護師であったり、会社の会計係であったり、 農家の人であったり、主婦として家を守り続けた人であったり、 皆さんそれぞれに違って、それぞれの人生に接することがとてもおもしろいのです。 おもしろいと言っても、お笑いという意味ではありません。 これだけ一人一人違う人生を送ってこられた方と接するこの仕事は、 ある意味味わい深い仕事でもあり、多くの人から学べる仕事でもあるのです。 [caption id="attachment_2686" align="aligncenter" width="1600"] 同じように見えてもみんな違う花々[/caption]   もちろん実際には、排せつや入浴、食事の介助と、めっちゃ大変です。 特に排せつのケアはつらいと思うことも多分にあるでしょう。 さらにコミュニケーションがうまくとれない方や、目が離せない方などと毎日接していると、 「味わい深いおもしろい仕事」などとは思えないかもしれません。 では、少しでもそのように思えるためにはどうしたらいいか? どんなに関わり方が大変だと思った方でも、その方との中に必ず小さいながらも、 私たちの心に振動する何かがあると思うのです。 その小さな幸せを感じられるかどうか。 「はぁ忙しかった!やっと帰れる」と思った時、 「ふぅやれやれ」と息を掃き出す時、 でもこの日一日頑張ることが出来た、何かがあったことを思い浮かべてみましょう。 もしかしたら、いつも無表情のような人が少し微笑んで見えた瞬間や、 「家に帰らせろ!」と怒っている人が見せる一瞬の孤独な表情や、 ちょっとでも目と目があって見つめあった人がいたことや、 実は日常の忙しさの中に、ほんの小さな私たちの心を支えてくれる瞬間があったのかもしれません。 仕事が終わり、スイッチを自分の世界に切り替える前に、 少しだけ振り返ってみたら、 「いつも笑わないAさんが、今日少し笑ってくれた。」と 自分の中で少しほくそ笑むことができることがあるといいかもしれません。 みんな違って、みんなおもしろいからこそ、 この仕事の意義を感じることが出来るのではないでしょうか。    
ブログ投稿画像 「畏敬の念を抱く」とは、 「 超越した存在・崇高な存在に対して、無条件に敬う気持ちを持つこと」をいいます。例えば、 国や人種に関係なく救いの手を差し伸べたマザー・テレサの行動に、畏敬の念を抱いた。 富士山頂から見た朝日を見た時、言葉にできない畏敬の念を抱いた。 等々 とても崇高な人や自然に対して使われるように思います。 また普段は使わんやろ、そんなたいそうなって思うかもしれません。 ところがこの「畏敬の念」という言葉、小中学校の学習指導要綱にも載っているものなのです。 知らない大人は恥ずかしいのですよ! 解説には「とかく独善的になりやすい人間の心を反省させ、生きとし生けるものに対する感謝と尊敬の心を生み出していくもの」と、書かれています。   私たちの仕事に振り返ると、マザーテレサでなくても、 人生70年、80年、90年、そして100年と、喜びも悲しみも乗り越えて頑張ってきた方々、 それだけでも敬意を示すと言うことが必要なのです。 その顔のしわの一つひとつに、その苦節が表されているのです。   認知症の人であっても「畏敬の念」が失われないケアを行うこと。 それを心掛けるだけでも、ケアの質は上がっていくでしょう。 センター長の石川でした。  
ブログ投稿画像 1年経過してさらに厳しい状況になってしまいました。 1年前は、今を我慢すれば、1年後にはきっと良くなっているだろうという希望を持ちながら、 不安を押さえ込んでいたのですが、 その1年後は1年前をはるかに上回る危険な状況になってしまいました。 確かに1年前と比べると、警戒心の薄れ(慣れっこ)もあって、人々の生活の自由度は大きくなってはいるのですが… 太陽の塔の表情も険しいですね。聖火のエネルギーは届かなかったようです。 このような状況下で、やはり気掛かりなのは、 認知症のご本人や介護が必要な方、そしてその介護家族の方の心身のストレスです。 ストレスを溜めてもお金はたまりません。 ストレスは頭の中から、どんどん掃き出すようにしましょう。 わからないことがあったり、不安だったり、愚痴を掃き出したいときは、遠慮なくご連絡ください。 愚痴の聞き役から、認知症だけでなく、デイサービス、ショートステイ、ご入居など、様々な状況へのご相談に応じます。 アーバンケアは街の灯台です。昼夜の関係なく明かりを灯す灯台です。 困ったときは、いつでも街の灯台アーバンケアを頼ってください! 恐い太陽の塔の写真の後には、可愛らしいお花の写真で癒してください。