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2024.05.08

トピックス
音楽は人と人を繋げられるか 昨夜家に遅めに帰り、つけたテレビの番組。 何故人類は音楽を生み出したのか、途中から見たので、そんな題名だったと思います。 その番組で、認知症の人と音楽についても、脳科学的にその効果について説明されていました。 詳細は映像を見直してからでないと書けませんが、 イギリスの認知症病棟の人々が、ビートルズの歌をみんなで合唱するシーンは圧巻でした。 特に脳の機能がフルパワーになる、 思春期に聞いた音楽は、強力に脳に残るようです。 認知症の人への音楽の効用は、これまで多くの研究で言われていることなので、 今更言うまでもないことなのですが、療法と構えるだけでなく、 日頃から気軽にそして身近に使えるものとして、音楽があるということでしょう。 注意する点は音楽をかける側にあります。 果たしてその音楽が、その方にあっているのかどうか、 そして聞かせてほったらかしにしていないかどうか、 認知症の人ではなく、ケア側の問題が大きいのかなと思います。 音楽が何故人類に生まれたか?  化石として残っているものではないので、その研究はまだ途上だそうですが、 恐らくは、「音楽は人と人を繋げる」ために生まれたのではないかということです。 ですから、認知症の人と音楽を聴く場合、 ともに楽しむということを忘れてはならないでしょう。   もしかしたら、音楽は、世界の人々を結び付けられる力を持ったものだと思うのですが、 残念ながら、銃声や破壊音、そして人が殺されていく悲惨な戦争の前に、 音楽はかき消され、失われてしまっているのかもしれません。
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2024.05.02

トピックス
底なし沼と地域包括支援センター(2) 地域包括支援センター職員のプライド、 それは、行政や誰にも見放されるようなケースも「なんとかする」、 最後の砦としての頑張りにあります。 本当に大変なケースに関わり、親身になって当該ケースだけでなく、 その地域に貢献していく姿は、もっと称賛され評価されてもいいのです。 しかし、同時にそれは包括支援センター職員が底なし沼にはまり込む危険性もはらんでいます。 以前私が包括支援センターにいたときも、 「私たちがやらなければ誰がやる?」という、最後の砦の者として、 「え?包括はそこまでやらなければならないの?」と言われながらも、 「私たちがやらねば誰がやる?」という意識の元でやっていました。 いわゆる「熱き包括魂」ともいえるかもしれません。 ある意味、「昭和的」な心意気ですね。 そして今でもケースのために一生懸命頑張るうえでの、 超過勤務の連続というところもあるかもしれません。 でもそれは、底なし沼に足を突っ込むことにもなります。 知らずのうちに心身の疲労困憊に繋がり、 それは自らのパフォーマンス(心身の行動力)を落とすことにもなりかねません。 「そのケースのためなら、私の命を縮めても構わない」という覚悟があるのなら別ですが、 そのケースだけでなく、多くの支援を必要としている人が待っているのですから、 自分のパフォーマンスを落とさないようにすることも仕事のうちです。 「昭和的な心意気」は、もう時代には合わないのでしょう。 「包括魂」は持ちつつも、「私たちがやらなければ誰がやる」の時代から、 「私たちもやるけど、みんなでやっていこう」というスタイルにシフトすること。 抱え込むと、困っている人のために、自らの骨身を削り、遅くまで残る。 結果、パフォーマンスを落とすという沼にはまってしまいます。 それは地域にも組織にも良い影響を与えないということでしょう。 自分のパフォーマンスを落とさない働き方をするのもプロの仕事のうちです。 話が少しそれましたが、地域包括支援センターの仕事は、 心身の疲労という底なし沼に陥る危険性をはらんだ職種であることです。 私たちはこれだけ頑張っているという自負心は受け止めつつ、 包括が頑張りすぎると、他者はなおさら包括に任そうとします。 行政も関係者も一緒に進んでいく道を探ること。 逃げようとする行政職がいるなら、首根っこ捕まえてひっつかまえるのではなく、 「あなたがいるととても助かる、ありがたい!」と言って仲間に引き入れること。 或いは「助けて!」って言っても構わないのです。 包括だけが背負うことはないのです。 時に割り切ることも必要です。 ストレスが溜まったら、誰でもいいので話を聞いてもらうこと。 とにかく包括職員だけで抱え込まないことです。 でないと、最後の砦としての「包括魂」が発揮できないことになります。 また地域包括支援センター職員へのフォロー体制を、公的に整えてあげないと、 「なんでも包括」の時代、もう少しねぎらう体制があってもいいのかなとも思うのです。
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2024.05.02

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底なし沼と地域包括支援センター(1) 先日の新聞に、独居の女性に入院を強く進めていたが、 猫の世話をしなければならないから絶対入院はしないと言われて、 困ってしまった地域包括支援センターの管理者の話が載っていました。 愛護センターに当たるもなかなか保護してくれる場所は見つからず、 仕方なくその管理者自身が猫の面倒を見ることにしたとのこと。 包括支援センターはそこまでやらなければならないのか? という感じですね。 しかし、このような話は地域包括支援センターがよく直面する話でもあるのです。 地域包括支援センターは、行政から委託され、また査定もされる立場にあります。 また行政にとってはこれまで自ら受けていた「煩わしいケース」を、 包括支援センターに回すことができます。(辛辣な言葉の使用はやめておきます)  包括には何と言っても、専門職が配置されているからです。 しかし、その行政も含めて、高齢者の相談は、「なんでも包括へ」というケースが増えてきています。 地域の方も包括支援センターの存在がわかり始めると、 介護以外のことでも包括センターに言って来る人が増えてきています。 例えば、ご近所トラブル。介護保険に関係のない苦情や相談も寄せられます。 高齢者に関わることなら、どんなことでも包括へという感じです。 ところが包括は、虐待をはじめとして、困難度の高いケースとの関りをはじめとして、 地域との関係づくりも行わないといけません。 さらに誰も行きたがらないようなゴミで溢れた家や、 ゴキブリ等の害虫が走り回る家にも時には突入しなければなりません。 特殊詐欺の予防にも動きます。 また自治体によっても違いますが、支援ケースを多く受けなければ採算が取れない包括もあります。 またご近所トラブルの背景には、支援が必要なケースが隠れているかもしれないので、 むげに断ることもできません。 そして「万能な高齢者相談所」として捉えられた包括支援センターが、 知らないことがあったり、そこまではやれないと断ったりしたりすると、 「あそこの包括はあかん」と、レッテルが貼られます。 確かにそう言われても仕方のない包括もあるかもしれませんが。 しかしながら「包括支援センター」は、困った状況の人を受け入れ、 何とかする最後の砦とも言えます。 行政も動けない(動こうとしないとも言える)ような状況の人でも、 「なんとかする」というプライドが包括にはあります。 ところがそのプライドが自らの負担を大きくしてしまうこともあるのです。 底なし沼に足を突っ込むことになりかねないのです。 泥沼にはまる包括職員になりかねない危険性をはらんでいるとも言えます。 (つづく)
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2024.04.26

トピックス
福知山線脱線事故と認知症の人 昨日は福知山線脱線事故から19年の日でしたね。 あまりにも酷い事故でした。 当時私は、事故現場に近い尼崎市のグループホームで働いていました。 上空でやたらヘリコプターが飛んでるなと思ったら、 テレビからは想像を絶する酷い光景が映し出されていました。 そのテレビを見ていた入居者に動揺が走ります。 「私の家族は大丈夫かしら?」 「家は大丈夫かしら?」 そして多くの入居者が、家族を、家を心配して、 「家へ帰らせてほしい!」 と、訴えだしたのです。 どのチャンネルも悲惨な事故映像を伝えるため、テレビを消しました。 そして、入居者の気持ちを落ち着けることに必死だったことを覚えています。 福知山線脱線事故の日を迎えるたびにその日のことを思い出します。 ここでわかるのは、家族のことを、そして家のことを思い、心配する入居者の姿です。 グループホームに入居中ですので、生活支援の必要な認知症の方ばかりですが、 家族を心配するその姿に、認知症の人ではなく、家族を心配する親の姿があったのです。 認知症と言われても、感情は豊かにその人の中で、 自分らしさを頑張って生きているのです。 認知症の人ではなく、ひとりの人として、そしてひとりの親として見ること。 事故とともに、忘れてはならないことですね。
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2024.04.25

トピックス
日々楽しむこと(澤井梨丘さん情報含む) 日々楽しむこと それは毎日が貴重な人生の一日だからです。 普段はそんなこと考えて過ごすことはないでしょうけど、 人生の一日一日は、確実にその数を減らしていくのです。 それも冷酷なほどに。 月の出です。   それだけに、大きなイベントだけでなく、ささやかな楽しみでもその日一日に持つことですね。 仕事で疲れたときの、スイッチオフの時間を活かした使い方をしましょう。 認知症の人も、不安な一日よりも、楽しい一日の方が、有意義ある時間になるのです。 ということで、テレビドラマを楽しむのもいいですね。 シンポジウムで会場中の人を虜にした澤井梨丘さんが、 今日から始まる木村拓哉、天海祐希主演の「Believe」に出演(準レギュラー?)しています。 見てくださいね! それにしても、こんな有名人たちと共演する澤井さん 今から思えば、よくも私どものシンポジウムに来てくれたな~って、思ってしまいます。 さて、美味しいものを食べに行くのも、日々楽しむことの一つです。 神戸花隈駅近くの「Sion」さんでは、旧オリエンタルホテルのビーフカレーがいただけます。 なるほど! と、思うめっちゃ美味いカレーです。 オーナーシェフの一枝さんは、元阪神タイガースのヘッドコーチ一枝修平さんのご子息の方です。 気さくにお話しできる方なので、カレーの味を出すまでの苦労話も聞くことができるでしょう。 写真も気軽に撮らせていただきました。 どんなことでもいいので、日々楽しむこと。 皆さんも、ちょっとした楽しみ、大それた楽しみ、持って見ましょう!      
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2024.04.24

トピックス
「認知」と呼ぶ言葉の背景にある心の闇 認知症の人を、ケアの世界では、「あの人認知があるから」とか「認知が進んだ」とか 「認知型」とか言ったりします。 「認知」は多用されている言葉とも言えるかもしれません。 確かに長い名称だとマクドナルドをマック(関西ではマクド)と言うように、 「サ高住」「サ責」「包括」「ケアマネ」など、短くして言うことは多々あります。 しかし、ケアマネジャーとしてプライドを持って働いている人が、「ケアマネ!」って呼び捨て的に言われたら、 なんだが馬鹿にされたように思う人もいるかもしれません。 (もっとも、あまりにも一般的にケアマネは使われているので、そうも思わないかもしれませんが) では「認知」という言葉をよく使う人。 そもそもおかしい日本語を使っているので、もう一度日本語を勉強しなおしてください。 (本来の「認知」という言葉の意味を調べてください) 以下、和田行男さんの話です。 https://www.caresapo.jp/fukushi/blog/wada/2013/10/post_326.html#:~:text=%E3%81%BE%E3%81%9A%E3%81%AF%E3%80%81%E6%94%B9%E3%82%81%E3%81%A6%E3%80%8C%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6,%E7%9A%84%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%82%92%E7%B7%8F%E7%A7%B0%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82 また、マクドナルドと違って、たった「症」一文字を省略してしまうだけで、 その人の日本語力のなさとともに、その人の心の奥にある闇も見えてくるのです。 もしかしたら「認知症」を理解されてないのかなとも思ってしまいます。 それは、「認知」と呼ぶ心のどこかに、 「認知症の人を上から視点で見降ろしている」意識があるのではないかということなのです。 本人は意識せずに使っているのでしょうけど。 私たちの「心の中に潜む闇」、それは「認知症の人=普通でない人、私たちとは違う人」というイメージが、 「認知」という呼び捨て的な言葉になっているのかもしれません。 そのため、最近は差別的用語として取り上げられることもあるようです。 逆に自分が認知症だったとしたら、「あの人認知が進んできたから」なんて言われると、 蔑んだ見方をされているんだと思ってしまいます。 https://carehome.co.jp/ghizumino/20150216/395/ 自らの専門職としての信用を失墜させてしまうと述べられています。   下記はあるデイサービスセンターのブログです。厳しく問われています。 https://ds-nanpu.com/?p=592 認知症の方を「ニンチ」呼ぶ人がいて,その人が医療福祉の現場で働く人であれば, 「圧倒的に勉強不足の人」と、厳しく書かれていますね。   https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=18747 単なる略称として使っているだけだ、おとしめて見ている意識などない、 と言いう人たちもいるだろう。 では、「ニンチ」を本人や家族の前で堂々と言えるだろうか。と、書かれています。   思えば、認知症の人に限らず、 私たちには知らずうちに心の闇が言葉として出ていることがあるのかもしれません。 私たちには必ずあると思っていい「心の闇」。  それをどう自覚していくのか。 ですから私はあえて言葉に出して注意するのではなく、 「自覚」を働かせてもらいたいのです。 自戒を込めて、心の闇を発言していないか、考えていかなければならないと思うのです。
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2024.04.22

トピックス
「指差し呼称確認」は認知症予防だけでなく、ケアの安全確認にも 地域住民向け認知症サポーター講座では、 特に住民の皆さんが関心があるのが、認知症予防なのです。 認知症の人の理解や声掛け法もさることながら、 やはり自分自身が認知症にならないために心掛けることへの関心が 高いのは当然のことでしょう。 謎の傘たち 忘れ傘?   その内容が今回の主題ではないのですが、 やはり年相応に「どうだったかな?」ということは増えてきます。 電気消したかな? ガス止めたかな? 鍵を閉めたかな?等… お出掛けしてから心配になることがよくありますよね? その心配を少しでも減らす方法として、 五感を使ってチェックするということです。 変なのがいないかもチェック!   例えば、「電気よし!ガスよし!」というように、指をさして声に出すことです。 鍵を閉めたときにドアを叩くと、手の感触や音で聞いたものも記憶に残ります。 このような、「指差し呼称確認」は、安全確認のために、広く使われています。 電車の運転手は必ず行いますし、運送会社のドライバーも実践します。 「指さし呼称確認」の効果は脳科学的にも効果があると実証されています。 (厚労省も推奨しています) https://anzeninfo.mhlw.go.jp/yougo/yougo72_1.html これは介護の世界でも同じで、安全確認のために、必ず指を差して確認し、 声に出すということを義務化させることです。 電車の運転手が、「信号や運転システム、乗客の乗り入れを確認する」ことが 安全確認に繋がるので必ず行うように、 ケアの現場でも安全確認をしっかりと、義務として身に付けること、なのですね。 時に現場チェック(床が濡れていないか、異食に繋がるものが置いてないか等)を、 定期的に指差し呼称確認を行うことは必要でしょう。 要は運転手やドライバーのように、 安全確認を義務として身に付けておくということなのです。 (指差し呼称確認の効果について下記にリンクしました) https://www.keyence.co.jp/ss/general/manufacture-tips/pointing-and-calling.jsp  
ブログ投稿画像 昨夜家に遅めに帰り、つけたテレビの番組。 何故人類は音楽を生み出したのか、途中から見たので、そんな題名だったと思います。 その番組で、認知症の人と音楽についても、脳科学的にその効果について説明されていました。 詳細は映像を見直してからでないと書けませんが、 イギリスの認知症病棟の人々が、ビートルズの歌をみんなで合唱するシーンは圧巻でした。 特に脳の機能がフルパワーになる、 思春期に聞いた音楽は、強力に脳に残るようです。 認知症の人への音楽の効用は、これまで多くの研究で言われていることなので、 今更言うまでもないことなのですが、療法と構えるだけでなく、 日頃から気軽にそして身近に使えるものとして、音楽があるということでしょう。 注意する点は音楽をかける側にあります。 果たしてその音楽が、その方にあっているのかどうか、 そして聞かせてほったらかしにしていないかどうか、 認知症の人ではなく、ケア側の問題が大きいのかなと思います。 音楽が何故人類に生まれたか?  化石として残っているものではないので、その研究はまだ途上だそうですが、 恐らくは、「音楽は人と人を繋げる」ために生まれたのではないかということです。 ですから、認知症の人と音楽を聴く場合、 ともに楽しむということを忘れてはならないでしょう。   もしかしたら、音楽は、世界の人々を結び付けられる力を持ったものだと思うのですが、 残念ながら、銃声や破壊音、そして人が殺されていく悲惨な戦争の前に、 音楽はかき消され、失われてしまっているのかもしれません。
ブログ投稿画像 地域包括支援センター職員のプライド、 それは、行政や誰にも見放されるようなケースも「なんとかする」、 最後の砦としての頑張りにあります。 本当に大変なケースに関わり、親身になって当該ケースだけでなく、 その地域に貢献していく姿は、もっと称賛され評価されてもいいのです。 しかし、同時にそれは包括支援センター職員が底なし沼にはまり込む危険性もはらんでいます。 以前私が包括支援センターにいたときも、 「私たちがやらなければ誰がやる?」という、最後の砦の者として、 「え?包括はそこまでやらなければならないの?」と言われながらも、 「私たちがやらねば誰がやる?」という意識の元でやっていました。 いわゆる「熱き包括魂」ともいえるかもしれません。 ある意味、「昭和的」な心意気ですね。 そして今でもケースのために一生懸命頑張るうえでの、 超過勤務の連続というところもあるかもしれません。 でもそれは、底なし沼に足を突っ込むことにもなります。 知らずのうちに心身の疲労困憊に繋がり、 それは自らのパフォーマンス(心身の行動力)を落とすことにもなりかねません。 「そのケースのためなら、私の命を縮めても構わない」という覚悟があるのなら別ですが、 そのケースだけでなく、多くの支援を必要としている人が待っているのですから、 自分のパフォーマンスを落とさないようにすることも仕事のうちです。 「昭和的な心意気」は、もう時代には合わないのでしょう。 「包括魂」は持ちつつも、「私たちがやらなければ誰がやる」の時代から、 「私たちもやるけど、みんなでやっていこう」というスタイルにシフトすること。 抱え込むと、困っている人のために、自らの骨身を削り、遅くまで残る。 結果、パフォーマンスを落とすという沼にはまってしまいます。 それは地域にも組織にも良い影響を与えないということでしょう。 自分のパフォーマンスを落とさない働き方をするのもプロの仕事のうちです。 話が少しそれましたが、地域包括支援センターの仕事は、 心身の疲労という底なし沼に陥る危険性をはらんだ職種であることです。 私たちはこれだけ頑張っているという自負心は受け止めつつ、 包括が頑張りすぎると、他者はなおさら包括に任そうとします。 行政も関係者も一緒に進んでいく道を探ること。 逃げようとする行政職がいるなら、首根っこ捕まえてひっつかまえるのではなく、 「あなたがいるととても助かる、ありがたい!」と言って仲間に引き入れること。 或いは「助けて!」って言っても構わないのです。 包括だけが背負うことはないのです。 時に割り切ることも必要です。 ストレスが溜まったら、誰でもいいので話を聞いてもらうこと。 とにかく包括職員だけで抱え込まないことです。 でないと、最後の砦としての「包括魂」が発揮できないことになります。 また地域包括支援センター職員へのフォロー体制を、公的に整えてあげないと、 「なんでも包括」の時代、もう少しねぎらう体制があってもいいのかなとも思うのです。
ブログ投稿画像 先日の新聞に、独居の女性に入院を強く進めていたが、 猫の世話をしなければならないから絶対入院はしないと言われて、 困ってしまった地域包括支援センターの管理者の話が載っていました。 愛護センターに当たるもなかなか保護してくれる場所は見つからず、 仕方なくその管理者自身が猫の面倒を見ることにしたとのこと。 包括支援センターはそこまでやらなければならないのか? という感じですね。 しかし、このような話は地域包括支援センターがよく直面する話でもあるのです。 地域包括支援センターは、行政から委託され、また査定もされる立場にあります。 また行政にとってはこれまで自ら受けていた「煩わしいケース」を、 包括支援センターに回すことができます。(辛辣な言葉の使用はやめておきます)  包括には何と言っても、専門職が配置されているからです。 しかし、その行政も含めて、高齢者の相談は、「なんでも包括へ」というケースが増えてきています。 地域の方も包括支援センターの存在がわかり始めると、 介護以外のことでも包括センターに言って来る人が増えてきています。 例えば、ご近所トラブル。介護保険に関係のない苦情や相談も寄せられます。 高齢者に関わることなら、どんなことでも包括へという感じです。 ところが包括は、虐待をはじめとして、困難度の高いケースとの関りをはじめとして、 地域との関係づくりも行わないといけません。 さらに誰も行きたがらないようなゴミで溢れた家や、 ゴキブリ等の害虫が走り回る家にも時には突入しなければなりません。 特殊詐欺の予防にも動きます。 また自治体によっても違いますが、支援ケースを多く受けなければ採算が取れない包括もあります。 またご近所トラブルの背景には、支援が必要なケースが隠れているかもしれないので、 むげに断ることもできません。 そして「万能な高齢者相談所」として捉えられた包括支援センターが、 知らないことがあったり、そこまではやれないと断ったりしたりすると、 「あそこの包括はあかん」と、レッテルが貼られます。 確かにそう言われても仕方のない包括もあるかもしれませんが。 しかしながら「包括支援センター」は、困った状況の人を受け入れ、 何とかする最後の砦とも言えます。 行政も動けない(動こうとしないとも言える)ような状況の人でも、 「なんとかする」というプライドが包括にはあります。 ところがそのプライドが自らの負担を大きくしてしまうこともあるのです。 底なし沼に足を突っ込むことになりかねないのです。 泥沼にはまる包括職員になりかねない危険性をはらんでいるとも言えます。 (つづく)
ブログ投稿画像 昨日は福知山線脱線事故から19年の日でしたね。 あまりにも酷い事故でした。 当時私は、事故現場に近い尼崎市のグループホームで働いていました。 上空でやたらヘリコプターが飛んでるなと思ったら、 テレビからは想像を絶する酷い光景が映し出されていました。 そのテレビを見ていた入居者に動揺が走ります。 「私の家族は大丈夫かしら?」 「家は大丈夫かしら?」 そして多くの入居者が、家族を、家を心配して、 「家へ帰らせてほしい!」 と、訴えだしたのです。 どのチャンネルも悲惨な事故映像を伝えるため、テレビを消しました。 そして、入居者の気持ちを落ち着けることに必死だったことを覚えています。 福知山線脱線事故の日を迎えるたびにその日のことを思い出します。 ここでわかるのは、家族のことを、そして家のことを思い、心配する入居者の姿です。 グループホームに入居中ですので、生活支援の必要な認知症の方ばかりですが、 家族を心配するその姿に、認知症の人ではなく、家族を心配する親の姿があったのです。 認知症と言われても、感情は豊かにその人の中で、 自分らしさを頑張って生きているのです。 認知症の人ではなく、ひとりの人として、そしてひとりの親として見ること。 事故とともに、忘れてはならないことですね。
ブログ投稿画像 日々楽しむこと それは毎日が貴重な人生の一日だからです。 普段はそんなこと考えて過ごすことはないでしょうけど、 人生の一日一日は、確実にその数を減らしていくのです。 それも冷酷なほどに。 [caption id="attachment_5392" align="alignnone" width="1024"] 月の出です。[/caption]   それだけに、大きなイベントだけでなく、ささやかな楽しみでもその日一日に持つことですね。 仕事で疲れたときの、スイッチオフの時間を活かした使い方をしましょう。 認知症の人も、不安な一日よりも、楽しい一日の方が、有意義ある時間になるのです。 ということで、テレビドラマを楽しむのもいいですね。 シンポジウムで会場中の人を虜にした澤井梨丘さんが、 今日から始まる木村拓哉、天海祐希主演の「Believe」に出演(準レギュラー?)しています。 見てくださいね! それにしても、こんな有名人たちと共演する澤井さん 今から思えば、よくも私どものシンポジウムに来てくれたな~って、思ってしまいます。 さて、美味しいものを食べに行くのも、日々楽しむことの一つです。 神戸花隈駅近くの「Sion」さんでは、旧オリエンタルホテルのビーフカレーがいただけます。 なるほど! と、思うめっちゃ美味いカレーです。 オーナーシェフの一枝さんは、元阪神タイガースのヘッドコーチ一枝修平さんのご子息の方です。 気さくにお話しできる方なので、カレーの味を出すまでの苦労話も聞くことができるでしょう。 写真も気軽に撮らせていただきました。 どんなことでもいいので、日々楽しむこと。 皆さんも、ちょっとした楽しみ、大それた楽しみ、持って見ましょう!      
ブログ投稿画像 認知症の人を、ケアの世界では、「あの人認知があるから」とか「認知が進んだ」とか 「認知型」とか言ったりします。 「認知」は多用されている言葉とも言えるかもしれません。 確かに長い名称だとマクドナルドをマック(関西ではマクド)と言うように、 「サ高住」「サ責」「包括」「ケアマネ」など、短くして言うことは多々あります。 しかし、ケアマネジャーとしてプライドを持って働いている人が、「ケアマネ!」って呼び捨て的に言われたら、 なんだが馬鹿にされたように思う人もいるかもしれません。 (もっとも、あまりにも一般的にケアマネは使われているので、そうも思わないかもしれませんが) では「認知」という言葉をよく使う人。 そもそもおかしい日本語を使っているので、もう一度日本語を勉強しなおしてください。 (本来の「認知」という言葉の意味を調べてください) 以下、和田行男さんの話です。 https://www.caresapo.jp/fukushi/blog/wada/2013/10/post_326.html#:~:text=%E3%81%BE%E3%81%9A%E3%81%AF%E3%80%81%E6%94%B9%E3%82%81%E3%81%A6%E3%80%8C%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6,%E7%9A%84%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%82%92%E7%B7%8F%E7%A7%B0%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82 また、マクドナルドと違って、たった「症」一文字を省略してしまうだけで、 その人の日本語力のなさとともに、その人の心の奥にある闇も見えてくるのです。 もしかしたら「認知症」を理解されてないのかなとも思ってしまいます。 それは、「認知」と呼ぶ心のどこかに、 「認知症の人を上から視点で見降ろしている」意識があるのではないかということなのです。 本人は意識せずに使っているのでしょうけど。 私たちの「心の中に潜む闇」、それは「認知症の人=普通でない人、私たちとは違う人」というイメージが、 「認知」という呼び捨て的な言葉になっているのかもしれません。 そのため、最近は差別的用語として取り上げられることもあるようです。 逆に自分が認知症だったとしたら、「あの人認知が進んできたから」なんて言われると、 蔑んだ見方をされているんだと思ってしまいます。 https://carehome.co.jp/ghizumino/20150216/395/ 自らの専門職としての信用を失墜させてしまうと述べられています。   下記はあるデイサービスセンターのブログです。厳しく問われています。 https://ds-nanpu.com/?p=592 認知症の方を「ニンチ」呼ぶ人がいて,その人が医療福祉の現場で働く人であれば, 「圧倒的に勉強不足の人」と、厳しく書かれていますね。   https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=18747 単なる略称として使っているだけだ、おとしめて見ている意識などない、 と言いう人たちもいるだろう。 では、「ニンチ」を本人や家族の前で堂々と言えるだろうか。と、書かれています。   思えば、認知症の人に限らず、 私たちには知らずうちに心の闇が言葉として出ていることがあるのかもしれません。 私たちには必ずあると思っていい「心の闇」。  それをどう自覚していくのか。 ですから私はあえて言葉に出して注意するのではなく、 「自覚」を働かせてもらいたいのです。 自戒を込めて、心の闇を発言していないか、考えていかなければならないと思うのです。
ブログ投稿画像 地域住民向け認知症サポーター講座では、 特に住民の皆さんが関心があるのが、認知症予防なのです。 認知症の人の理解や声掛け法もさることながら、 やはり自分自身が認知症にならないために心掛けることへの関心が 高いのは当然のことでしょう。 [caption id="attachment_5536" align="alignnone" width="1024"] 謎の傘たち 忘れ傘?[/caption]   その内容が今回の主題ではないのですが、 やはり年相応に「どうだったかな?」ということは増えてきます。 電気消したかな? ガス止めたかな? 鍵を閉めたかな?等… お出掛けしてから心配になることがよくありますよね? その心配を少しでも減らす方法として、 五感を使ってチェックするということです。 [caption id="attachment_5572" align="alignnone" width="1024"] 変なのがいないかもチェック![/caption]   例えば、「電気よし!ガスよし!」というように、指をさして声に出すことです。 鍵を閉めたときにドアを叩くと、手の感触や音で聞いたものも記憶に残ります。 このような、「指差し呼称確認」は、安全確認のために、広く使われています。 電車の運転手は必ず行いますし、運送会社のドライバーも実践します。 「指さし呼称確認」の効果は脳科学的にも効果があると実証されています。 (厚労省も推奨しています) https://anzeninfo.mhlw.go.jp/yougo/yougo72_1.html これは介護の世界でも同じで、安全確認のために、必ず指を差して確認し、 声に出すということを義務化させることです。 電車の運転手が、「信号や運転システム、乗客の乗り入れを確認する」ことが 安全確認に繋がるので必ず行うように、 ケアの現場でも安全確認をしっかりと、義務として身に付けること、なのですね。 時に現場チェック(床が濡れていないか、異食に繋がるものが置いてないか等)を、 定期的に指差し呼称確認を行うことは必要でしょう。 要は運転手やドライバーのように、 安全確認を義務として身に付けておくということなのです。 (指差し呼称確認の効果について下記にリンクしました) https://www.keyence.co.jp/ss/general/manufacture-tips/pointing-and-calling.jsp