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2021.02.02

トピックス
泣いた赤鬼(本当の鬼は人間なのでは?) センター長の石川です 今日は節分ですね。2月3日ではなく、2月2日です。 日本独特のはるか昔からある年中行事のひとつですが、 この古風な行事も実は「宇宙」ととても関係しているのですね。 詳しくは書けませんが、地球が太陽の周囲を回る公転周期との関係で、節分の日が変わると言うことになります。 古風な行事もこのような宇宙規模の動きの中にあるのですね。 南日本新聞より 因みに前回2月2日だったのが明治30年。 124年前だったのに、次の2月2日は2025年と4年後です。 意外と早いですね。 ウェザーニュースより 節分は鬼を払うと言うことで、鬼が悪者になる日なのですが、私はあまり好きではありません。 地域によっては、「福は内、鬼も内」と言って、鬼は悪者かもしれないけれど改心させ受け入れましょうと言うものです。 或いは、鬼は自分の神社に集め、周囲の村に福が来るように「鬼は内(神社に集める)福は外(村に行く)」という神社もあるそうです。 「福は内、鬼も内」と言うのは、いかにも日本人的やさしさが感じられますね。 私が鬼の排斥が嫌いなのは、その昔、濱田廣介の「泣いた赤鬼」を読んで、泣いたからかもしれません。 勧善懲悪ではなく、相手の気持ちも思いやること。 私の見かた捉え方を多角的に見ることという考えの原点の物語かもしれません。 原書不明 とは言うものの、赤鬼は昔から疫病と結び付けられ、疫病退散の意味があったようです。 今年だけは赤鬼に辛抱してもらいましょう。 でも、実のところ、本当の鬼は「人間そのもの」かもしれませんねぇ。 平気で誹謗中傷する人たち、まさしく鬼そのものではないでしょうか。
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2021.02.01

トピックス
人は変われるか? ケアワークにおいて② 人が変わる、悪い方ではなくて、いい方向に人が変われるかと言うのがテーマなのですが、 そのアプローチはいくつかあります。 その中でも「自己防衛機能」を活用するのは、あまり高次元のものではありません。 つまりあまり使いたくないものなのです。 しかしいきなり高次元のアプローチをしても難しいので、まずは人間の本能に直接関与するものとして、 自己防衛機能をうまく活用するという方法です。 要は本人の危機感を呼び覚ますということになります。 今日の東大阪の空 しかし中には上に立つ者として、その使い方を間違っている人もいます。 脅しのような圧力をかける使い方です。 圧力をかけることで、このままではまずいと無理やり思わせようとすることです。 これは間違いなく様々な手段で逆襲を喰らいます。 攻撃されたことに対して、10倍返しでミサイルを打ち返してくるかもしれません。 自己防衛機能が過度に働いて、圧力をかけた者に対して猛烈に反発するか、 若しくはその圧力で自己防衛どころか自己崩壊を起こさせてしまうということになります。 そのような圧力ではなく、一番低い部分での気づきになりますが、 「このままでは立場がまずくなるな」と、自分の中で感じてもらうこと。 つまり自分自身の現状の行動に対しての危機意識(自己防衛機能)が働き、行動の変化に繋がるのがよいでしょう。 多くの場合、利用者からの苦情がこの気づきに繋がることが多いのです。 ところが残念ながら、この一番低い部分の気づきすら生じない場合があります。 困りますね(苦笑) to be continued   さて、田中将大投手、日本でまたその雄姿を見ることが出来るようになりました。 大リーグでの活躍も嬉しいですが、暗い話題ばかりの今の日本、身近に活躍を見れるのはもっと嬉しいことですね。 前回もここにリンクした「あとひとつ」もう一度貼り付けておきます。 この唄で、元気をもらってください。 https://www.youtube.com/watch?v=ir5cF-EvBig センター長の石川でした。
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2021.01.26

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若年性認知症の方との関り(12)【私が崩壊していくということ】 Bさんの行動は激しいものでした。 常に動き回り、それでいて足元が不安定のため、 何度か転倒もありました。 そのため、頭にはラグビー選手のようなヘッドギアを付け、 腰にはパットの入ったズボンをはいてもらいました。 それでも常に目が離せない存在だったのです。 Bさんのその目はいつも潤み、いつも何かを訴えるかのように私たちを見ます。 そして大声。 恐らくは何かを訴えたい、何かを話したい、だけどその言葉が出てこない。 本当なら医者として、まだまだバリバリと働きたいはずなのに どうしようもなく自分が崩壊していく姿への悲愴な叫びだったのかもしれません。 職員の中にBさんの診療所で働いていた看護師がいて、 「先生、先生!」 と、声を掛けます。 一瞬、何かを感じたのか、穏やかな表情になります。 医者が医者たる姿を見せた一瞬だったのかもしれません。 認知症になってもその姿は人それぞれです。 穏やかな人もいれば、そうでない人もいます。 いずれにしても、自分で望んだ道ではなかったでしょう。 Bさんからは、「こんなはずじゃない!どうして!?」という思いが強く伝わってきたのでした。 その認知症と言う病魔に襲われて、悲壮な状況に追いやられてしまった人のことを 私たちはあまりにも冷酷な目で「認知症の大変な人」という思いで見ているのかもしれません。 (つづく) センター長の石川でした。
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2021.01.22

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若年性認知症の方との関り(11)【女医さんの心の叫び】 Bさんが、私が生活相談員をしている認知症専門フロアに来られた時、既に認知症状が進行していました。 小さな身体の方でした。50歳代でしたが可愛らしい表情の方で、 人気の女医さんだったということがよくわかります。 開業医として、評判の良い女医さんだったのです。 ところが、もの忘れが目立つようになり、時に精神的に不安定になり、 医療器具をひっくり返して暴れることもあったそうです。 人の命を守る仕事ゆえ、家族は早々に医師の仕事を辞めさせました。 しかし、使命として医師の仕事に誇りを持っていたBさんが、 その仕事が出来なくなったことで、認知症状は一気に進行してしまったのです。 「医者の仕事を奪ってしまったことが、本人にはつらかったのでしょう。それから一気に認知症が進んでしまいました。でも人の命を預かる仕事ですから、間違いがあってはならなかったので仕方なかったのです。」 と、娘さんが寂しく語ってくれました。 施設に来られてからのBさんの表情は、いつも険しく、そして哀しい表情でした。 そして、「ワァー!」と大声で泣き叫ぶのでした。 足元が不安定なのにもがくように歩き、悲壮感あふれる泣き叫び。 その叫びは、「なんでなんで!?どうしてどうして!?」と言う、 今の自分の状況が到底受け入れられない激しい心の叫びのように思われました。 その叫び声は「こんなはずじゃない!!」と言う、 認知症の人のすさまじい訴えの声として私の心に深く残ったのでした。 センター長の石川でした。 (つづく)
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2021.01.20

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人は変われるか?ケアワークにおいて① センター長の石川です 人は変われるのか? その確信を持ったラグビー選手の話を前回書きました。 しかし、本当に人は変われるか?と言われると、かなり難しいことかもしれません。 一人ひとり違うということは、それぞれに個性があり、 その個性があるからこそ、この世の中は成り立っていると言えます。 もちろん、人は変われるかは、個性まで変えろと言ってるわけではありません。 ここでは、ケア職員としての在り方を問うと言うことになります。 つまり前回書いたラグビー選手が、自分の天性にかまけて努力もせず、チームワークも関係なく試合に出ていたのが、 人が変わったかのように練習に励み、チームワークに貢献したラグビー選手になったように、 ケアの世界で働くものとして、ケアワークに対しての心構えと言うか、在り方が変わっていけるのか? ということがテーマになります。 おそらくは、半日講座ぐらい開けるかなというぐらいのボリュームになりそうですが、 少しずつ小出しに書いていきます。 今日の生駒山です そもそも人には(と言うか生命体には)「生きていくためにあらゆる手段を使う」という本能が備わっています。 憎きコロナウイルスにしてもそうです。 ウイルスの変異が今私たちにとって脅威になっていますが、ウイルスにとっては生きていくがゆえの変異なのでしょう。 話が随分それてしまいました。 つまり人にも生きるための「自己防衛機能」が備わっているのです。 この自己防衛機能があるがゆえに、人の心構えが変わると言うのは至難の業になってきます。 例えば、何か失敗したときに上司から責められた時の「言い訳」はまさしく自己防衛機能が働いている姿だと言えます。 「仕方なかった、わからなかった、どうしようもなかった」などの言葉を並べて、 自分は悪くないと、自分の心のダメージや立場を悪くすることを防ぐための必死の行動と言えます。 昨夕、野口さんに手を振りました。 ニュアンスは異なりますが、私たちが認知症の人に押してしまう「作話」と言うレッテル。 はたから見れば、在りもしない、出来もしないことを必死になって話す姿は、 私たちにとって困った行動として「作話あり」と判断しますが、 しかしその行動は、認知症の人にとって、自分は大丈夫、しっかりしている、問題ないと、 必死に「認知症」という病魔に対抗し、生きていこうとする自己防衛反応の姿ともいえるのです。 では、ケアスタッフはどうすればその心構えが変わっていくのか? ひとつの方法として、この「自己防衛機能」を逆に活用すると言うものがあります。 ちょっと先まで、to be continued
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2021.01.18

トピックス
若年性認知症の方との集いと1月17日 1月16日(土)1月定例の若年性認知症の方との集い(楽カフェ)が開催されました。 今回は、ご家族様のグループに参加させてもらいました。 詳細は書けませんが、本当に苦労されている様子、 その中でも色々考えながらケアをされていること等 熱い思いが伝わってくるものでした。 デイサービスの利用などはあるものの、ほぼフルタイムでケアをして行かなければならないのが家族です。 その家族へのサポートを、もっと深めていかなければならないと思うのです。 さて、そのように本人、家族にとって大切な集いの時間ではあるので、開催はされるべきだとは思うのですが、 大阪は「緊急事態宣言」が出ているのです。 それは「人の動きを止める」ことが大切なのですが、宣言が出てもお構いなくという感じがします。 行政からして地域活動は止めるな!ですから、では何のための「緊急事態宣言」なのかと思ってしまいます。 単に飲食関係が、感染率が高いからと、まるで悪者にしているような感じですね。 震災メモリアル 昨日は1月17日 あれからもう26年も経過したのですね。 現地での救援活動は、今も深く脳裏に焼き付いて忘れられないものになっています。 というか、心の傷として残るくらいの衝撃だったかもしれません。 当時の救援活動を私は約3万7千字の文章として書き残していますが、そのうちのごく一部だけを転載します。 まずは初動の所から。正式救援隊の一員としてはこの時からですが、震災後すぐに先輩の安否確認のために現地には入っていました。ほぼ序章のようなところです。 JR神戸駅の時計 地震から10日後、大阪の老人福祉関係者の被災地支援策もようやくまとまり始め、被災地に対する援助が徐々に動きだした。阪神間の市街地には老人ホ-ムの数は少なく(当時)、大きな被害を受けている所は少なかった。殆どが北区や西区などの外周部にあり、建物自体には問題は少なかったが、市中心部からの緊急避難の高齢者が各施設に押し寄せ、どの施設も定員を遥かにオ-バ-した状態にあった。 そのため、まずそれらの施設に対する職員の応援派遣が実施された。大阪の各施設から選抜されたケア職員達が三田経由でそれらの施設に向かった。各施設ともライフラインは維持されており、派遣職員が寝食に困るということはなかったが、これらの施設とは対照的に、ライフラインが全く破壊されたうえに、目前に大きな被害を見つめることになった特別養護老人ホ-ムが二か所あった。芦屋市の「あしや聖徳園」と、長田区の「長田ケアホ-ム」だった。 「あしや聖徳園」は21歳の若いケア職員を失っている。山好きの女性で、休みの日にはいつも山に行っていたという。彼女の住む文化住宅は一階が崩壊、仲間達が懸命に瓦礫を掘り起こしたが、彼女の恋人が瓦礫の隙間から手を延ばし触れた彼女の手はすでに冷たくなっていた。彼は、嗚咽し泣き崩れたという。 阪神大震災は、数多くの恋人達の愛をも引き裂いていた…。(ケア職員の犠牲者も出た) 「長田ケアホ-ム」は施設の目の前までが火災で何もかもなくなってしまった。前一面が焼け野原となってしまったのだ。目前の火災の中で、多くの人達が生きながら焼かれてしまったのだ。 最初に救援に入った東灘区摂津本山付近 写真原本が不明のため、PCのワード画像より転写しているため、画像は見ずらいです. 次は実際の救援活動の一コマです。今も強く印象に残っているシーンです。 野寄公園にある自衛隊のテントの間に挟まれるように3~4人用の小さなテントが建っている。その小さなテントに寝たきりの母親を抱える息子夫婦が暮らしていた。3~4人用のテントといっても、ゆったりと寝ようと思えば2人までである。テントの中は非常に狭い空間なのだ。そのテントの外には辛うじて持ち出したと思われる洗面道具やバケツが置かれていた。 避難所の担当医師は、この老人の一般状態があまり良くないので入院の手配を進め、明日には入院出来るようになったと話してくれた。現在は点滴で何とか持ち堪えている状態だという。 しかし、寝たきりの彼女は私たちの前で、「家族と共に居たいから入院はしたくない。そのように、医者に伝えておいて欲しい。」と応えた。家族もその本人の意思を尊重した。 状態が悪化しつつある寝たきり老人が、劣悪な環境の続くテントでの生活を選んだ。 家を失い、生活を失い、全てのものを失った彼女にとって、家族は唯一失われずにそばに居てほしいものだった。ここで入院して離ればなれになって、家族までも失いたくなかったのだ。例え自分の命を縮めようとも、もうこれ以上、大切なものを失いたくはなかったのだ。 私たちは、そのテントをみつめることだけしかできなかった…。 その後、この家族がどうなったか、私は全く知らない。しかし、極限の中での人間の「絆」というものの強さを深く感じずにはいられなかった。 なす術なく立ちすくんでそのテントを見つめるだけの私達…。家族の「絆」を前にして、誰が「入院が最高の選択。」と云えるだろうか。 担当医師に本人と家族の意向を伝えると、その医師も何も云わなかった。いや、何も云えなかったのだ、きっと…。 厳しい寒さの中、その方はテントでの生活を選ばれた。人生最後の選択だったかもしれない。   センター長の石川でした。
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2021.01.14

トピックス
人は変われるのか センター長の石川です。 いつもラグビーの話で申し訳ないです。 かつて増保輝則と言う天才的ラガーマンがいました。 天性の感覚を持ち、早稲田大学でもトッププレーヤーでした。 しかし、その天性故か、練習はしんどいからしない、タックルなんかやらないと 努力することを嫌い、身体はぶくぶく太り、相撲の武蔵丸のあだ名もつけられます。 しかし天才的ラガーマンである増保選手は19歳で日本代表にも選ばれました。 ラグビーファンの私にとっても、果てしなく暗黒に落ちる大敗でした。 ところが、1995年のラグビーワールドカップで 日本はニュージーランドに145点も取られるという屈辱的大敗を喫します。 タックルに行こうとしない増保は厳しいバッシングを受けることになります。 彼は大事な試合の前にカジノに遊びに行っていたくらいですから。 私も大嫌いな選手でした。 しかし彼に何があったのか? 丸々太った体がすっかりスリムになっていました。 次に増保選手を見た時には、すっかりとスリムになっただけでなく、 チームのために献身的にタックルに行き、え?なんでそこにいるの?と思うほど走り回っている、 「俺がではなく、チームのために」献身的に動き回っている姿だったのです。 その時私は確信しました。 「人は変われるのだ」と。 「生まれ変わるのなら、生きているうちに」 そうなのです。 死んでから生まれ変わろうとしても、次はゴキブリやダンゴムシになるかもしれません。 生まれ変わるのなら、生きているうちに。なのです。 しかし実際に、変わって欲しいなとこちら側が思っても 相手にその気がなければ変わらないのです。 気づいてない人もいますし、いくら言っても気づかない人もいます。 同時に変わりたいと思っても、なかなか変われないのも事実です。 では、どうすればいいのか? それは to be continued ということで。
ブログ投稿画像 センター長の石川です 今日は節分ですね。2月3日ではなく、2月2日です。 日本独特のはるか昔からある年中行事のひとつですが、 この古風な行事も実は「宇宙」ととても関係しているのですね。 詳しくは書けませんが、地球が太陽の周囲を回る公転周期との関係で、節分の日が変わると言うことになります。 古風な行事もこのような宇宙規模の動きの中にあるのですね。 [caption id="attachment_2351" align="aligncenter" width="237"] 南日本新聞より[/caption] 因みに前回2月2日だったのが明治30年。 124年前だったのに、次の2月2日は2025年と4年後です。 意外と早いですね。 [caption id="attachment_2350" align="aligncenter" width="650"] ウェザーニュースより[/caption] 節分は鬼を払うと言うことで、鬼が悪者になる日なのですが、私はあまり好きではありません。 地域によっては、「福は内、鬼も内」と言って、鬼は悪者かもしれないけれど改心させ受け入れましょうと言うものです。 或いは、鬼は自分の神社に集め、周囲の村に福が来るように「鬼は内(神社に集める)福は外(村に行く)」という神社もあるそうです。 「福は内、鬼も内」と言うのは、いかにも日本人的やさしさが感じられますね。 私が鬼の排斥が嫌いなのは、その昔、濱田廣介の「泣いた赤鬼」を読んで、泣いたからかもしれません。 勧善懲悪ではなく、相手の気持ちも思いやること。 私の見かた捉え方を多角的に見ることという考えの原点の物語かもしれません。 [caption id="attachment_2352" align="aligncenter" width="600"] 原書不明[/caption] とは言うものの、赤鬼は昔から疫病と結び付けられ、疫病退散の意味があったようです。 今年だけは赤鬼に辛抱してもらいましょう。 でも、実のところ、本当の鬼は「人間そのもの」かもしれませんねぇ。 平気で誹謗中傷する人たち、まさしく鬼そのものではないでしょうか。
ブログ投稿画像 人が変わる、悪い方ではなくて、いい方向に人が変われるかと言うのがテーマなのですが、 そのアプローチはいくつかあります。 その中でも「自己防衛機能」を活用するのは、あまり高次元のものではありません。 つまりあまり使いたくないものなのです。 しかしいきなり高次元のアプローチをしても難しいので、まずは人間の本能に直接関与するものとして、 自己防衛機能をうまく活用するという方法です。 要は本人の危機感を呼び覚ますということになります。 [caption id="attachment_2345" align="aligncenter" width="650"] 今日の東大阪の空[/caption] しかし中には上に立つ者として、その使い方を間違っている人もいます。 脅しのような圧力をかける使い方です。 圧力をかけることで、このままではまずいと無理やり思わせようとすることです。 これは間違いなく様々な手段で逆襲を喰らいます。 攻撃されたことに対して、10倍返しでミサイルを打ち返してくるかもしれません。 自己防衛機能が過度に働いて、圧力をかけた者に対して猛烈に反発するか、 若しくはその圧力で自己防衛どころか自己崩壊を起こさせてしまうということになります。 そのような圧力ではなく、一番低い部分での気づきになりますが、 「このままでは立場がまずくなるな」と、自分の中で感じてもらうこと。 つまり自分自身の現状の行動に対しての危機意識(自己防衛機能)が働き、行動の変化に繋がるのがよいでしょう。 多くの場合、利用者からの苦情がこの気づきに繋がることが多いのです。 ところが残念ながら、この一番低い部分の気づきすら生じない場合があります。 困りますね(苦笑) to be continued   さて、田中将大投手、日本でまたその雄姿を見ることが出来るようになりました。 大リーグでの活躍も嬉しいですが、暗い話題ばかりの今の日本、身近に活躍を見れるのはもっと嬉しいことですね。 前回もここにリンクした「あとひとつ」もう一度貼り付けておきます。 この唄で、元気をもらってください。 https://www.youtube.com/watch?v=ir5cF-EvBig センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 Bさんの行動は激しいものでした。 常に動き回り、それでいて足元が不安定のため、 何度か転倒もありました。 そのため、頭にはラグビー選手のようなヘッドギアを付け、 腰にはパットの入ったズボンをはいてもらいました。 それでも常に目が離せない存在だったのです。 Bさんのその目はいつも潤み、いつも何かを訴えるかのように私たちを見ます。 そして大声。 恐らくは何かを訴えたい、何かを話したい、だけどその言葉が出てこない。 本当なら医者として、まだまだバリバリと働きたいはずなのに どうしようもなく自分が崩壊していく姿への悲愴な叫びだったのかもしれません。 職員の中にBさんの診療所で働いていた看護師がいて、 「先生、先生!」 と、声を掛けます。 一瞬、何かを感じたのか、穏やかな表情になります。 医者が医者たる姿を見せた一瞬だったのかもしれません。 認知症になってもその姿は人それぞれです。 穏やかな人もいれば、そうでない人もいます。 いずれにしても、自分で望んだ道ではなかったでしょう。 Bさんからは、「こんなはずじゃない!どうして!?」という思いが強く伝わってきたのでした。 その認知症と言う病魔に襲われて、悲壮な状況に追いやられてしまった人のことを 私たちはあまりにも冷酷な目で「認知症の大変な人」という思いで見ているのかもしれません。 (つづく) センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 Bさんが、私が生活相談員をしている認知症専門フロアに来られた時、既に認知症状が進行していました。 小さな身体の方でした。50歳代でしたが可愛らしい表情の方で、 人気の女医さんだったということがよくわかります。 開業医として、評判の良い女医さんだったのです。 ところが、もの忘れが目立つようになり、時に精神的に不安定になり、 医療器具をひっくり返して暴れることもあったそうです。 人の命を守る仕事ゆえ、家族は早々に医師の仕事を辞めさせました。 しかし、使命として医師の仕事に誇りを持っていたBさんが、 その仕事が出来なくなったことで、認知症状は一気に進行してしまったのです。 「医者の仕事を奪ってしまったことが、本人にはつらかったのでしょう。それから一気に認知症が進んでしまいました。でも人の命を預かる仕事ですから、間違いがあってはならなかったので仕方なかったのです。」 と、娘さんが寂しく語ってくれました。 施設に来られてからのBさんの表情は、いつも険しく、そして哀しい表情でした。 そして、「ワァー!」と大声で泣き叫ぶのでした。 足元が不安定なのにもがくように歩き、悲壮感あふれる泣き叫び。 その叫びは、「なんでなんで!?どうしてどうして!?」と言う、 今の自分の状況が到底受け入れられない激しい心の叫びのように思われました。 その叫び声は「こんなはずじゃない!!」と言う、 認知症の人のすさまじい訴えの声として私の心に深く残ったのでした。 センター長の石川でした。 (つづく)
ブログ投稿画像 センター長の石川です 人は変われるのか? その確信を持ったラグビー選手の話を前回書きました。 しかし、本当に人は変われるか?と言われると、かなり難しいことかもしれません。 一人ひとり違うということは、それぞれに個性があり、 その個性があるからこそ、この世の中は成り立っていると言えます。 もちろん、人は変われるかは、個性まで変えろと言ってるわけではありません。 ここでは、ケア職員としての在り方を問うと言うことになります。 つまり前回書いたラグビー選手が、自分の天性にかまけて努力もせず、チームワークも関係なく試合に出ていたのが、 人が変わったかのように練習に励み、チームワークに貢献したラグビー選手になったように、 ケアの世界で働くものとして、ケアワークに対しての心構えと言うか、在り方が変わっていけるのか? ということがテーマになります。 おそらくは、半日講座ぐらい開けるかなというぐらいのボリュームになりそうですが、 少しずつ小出しに書いていきます。 [caption id="attachment_2318" align="aligncenter" width="650"] 今日の生駒山です[/caption] そもそも人には(と言うか生命体には)「生きていくためにあらゆる手段を使う」という本能が備わっています。 憎きコロナウイルスにしてもそうです。 ウイルスの変異が今私たちにとって脅威になっていますが、ウイルスにとっては生きていくがゆえの変異なのでしょう。 話が随分それてしまいました。 つまり人にも生きるための「自己防衛機能」が備わっているのです。 この自己防衛機能があるがゆえに、人の心構えが変わると言うのは至難の業になってきます。 例えば、何か失敗したときに上司から責められた時の「言い訳」はまさしく自己防衛機能が働いている姿だと言えます。 「仕方なかった、わからなかった、どうしようもなかった」などの言葉を並べて、 自分は悪くないと、自分の心のダメージや立場を悪くすることを防ぐための必死の行動と言えます。 [caption id="attachment_2317" align="aligncenter" width="650"] 昨夕、野口さんに手を振りました。[/caption] ニュアンスは異なりますが、私たちが認知症の人に押してしまう「作話」と言うレッテル。 はたから見れば、在りもしない、出来もしないことを必死になって話す姿は、 私たちにとって困った行動として「作話あり」と判断しますが、 しかしその行動は、認知症の人にとって、自分は大丈夫、しっかりしている、問題ないと、 必死に「認知症」という病魔に対抗し、生きていこうとする自己防衛反応の姿ともいえるのです。 では、ケアスタッフはどうすればその心構えが変わっていくのか? ひとつの方法として、この「自己防衛機能」を逆に活用すると言うものがあります。 ちょっと先まで、to be continued
ブログ投稿画像 1月16日(土)1月定例の若年性認知症の方との集い(楽カフェ)が開催されました。 今回は、ご家族様のグループに参加させてもらいました。 詳細は書けませんが、本当に苦労されている様子、 その中でも色々考えながらケアをされていること等 熱い思いが伝わってくるものでした。 デイサービスの利用などはあるものの、ほぼフルタイムでケアをして行かなければならないのが家族です。 その家族へのサポートを、もっと深めていかなければならないと思うのです。 さて、そのように本人、家族にとって大切な集いの時間ではあるので、開催はされるべきだとは思うのですが、 大阪は「緊急事態宣言」が出ているのです。 それは「人の動きを止める」ことが大切なのですが、宣言が出てもお構いなくという感じがします。 行政からして地域活動は止めるな!ですから、では何のための「緊急事態宣言」なのかと思ってしまいます。 単に飲食関係が、感染率が高いからと、まるで悪者にしているような感じですね。 [caption id="attachment_2310" align="aligncenter" width="650"] 震災メモリアル[/caption] 昨日は1月17日 あれからもう26年も経過したのですね。 現地での救援活動は、今も深く脳裏に焼き付いて忘れられないものになっています。 というか、心の傷として残るくらいの衝撃だったかもしれません。 当時の救援活動を私は約3万7千字の文章として書き残していますが、そのうちのごく一部だけを転載します。 まずは初動の所から。正式救援隊の一員としてはこの時からですが、震災後すぐに先輩の安否確認のために現地には入っていました。ほぼ序章のようなところです。 [caption id="attachment_2309" align="aligncenter" width="650"] JR神戸駅の時計[/caption] 地震から10日後、大阪の老人福祉関係者の被災地支援策もようやくまとまり始め、被災地に対する援助が徐々に動きだした。阪神間の市街地には老人ホ-ムの数は少なく(当時)、大きな被害を受けている所は少なかった。殆どが北区や西区などの外周部にあり、建物自体には問題は少なかったが、市中心部からの緊急避難の高齢者が各施設に押し寄せ、どの施設も定員を遥かにオ-バ-した状態にあった。 そのため、まずそれらの施設に対する職員の応援派遣が実施された。大阪の各施設から選抜されたケア職員達が三田経由でそれらの施設に向かった。各施設ともライフラインは維持されており、派遣職員が寝食に困るということはなかったが、これらの施設とは対照的に、ライフラインが全く破壊されたうえに、目前に大きな被害を見つめることになった特別養護老人ホ-ムが二か所あった。芦屋市の「あしや聖徳園」と、長田区の「長田ケアホ-ム」だった。 「あしや聖徳園」は21歳の若いケア職員を失っている。山好きの女性で、休みの日にはいつも山に行っていたという。彼女の住む文化住宅は一階が崩壊、仲間達が懸命に瓦礫を掘り起こしたが、彼女の恋人が瓦礫の隙間から手を延ばし触れた彼女の手はすでに冷たくなっていた。彼は、嗚咽し泣き崩れたという。 阪神大震災は、数多くの恋人達の愛をも引き裂いていた…。(ケア職員の犠牲者も出た) 「長田ケアホ-ム」は施設の目の前までが火災で何もかもなくなってしまった。前一面が焼け野原となってしまったのだ。目前の火災の中で、多くの人達が生きながら焼かれてしまったのだ。 最初に救援に入った東灘区摂津本山付近 写真原本が不明のため、PCのワード画像より転写しているため、画像は見ずらいです. 次は実際の救援活動の一コマです。今も強く印象に残っているシーンです。 野寄公園にある自衛隊のテントの間に挟まれるように3~4人用の小さなテントが建っている。その小さなテントに寝たきりの母親を抱える息子夫婦が暮らしていた。3~4人用のテントといっても、ゆったりと寝ようと思えば2人までである。テントの中は非常に狭い空間なのだ。そのテントの外には辛うじて持ち出したと思われる洗面道具やバケツが置かれていた。 避難所の担当医師は、この老人の一般状態があまり良くないので入院の手配を進め、明日には入院出来るようになったと話してくれた。現在は点滴で何とか持ち堪えている状態だという。 しかし、寝たきりの彼女は私たちの前で、「家族と共に居たいから入院はしたくない。そのように、医者に伝えておいて欲しい。」と応えた。家族もその本人の意思を尊重した。 状態が悪化しつつある寝たきり老人が、劣悪な環境の続くテントでの生活を選んだ。 家を失い、生活を失い、全てのものを失った彼女にとって、家族は唯一失われずにそばに居てほしいものだった。ここで入院して離ればなれになって、家族までも失いたくなかったのだ。例え自分の命を縮めようとも、もうこれ以上、大切なものを失いたくはなかったのだ。 私たちは、そのテントをみつめることだけしかできなかった…。 その後、この家族がどうなったか、私は全く知らない。しかし、極限の中での人間の「絆」というものの強さを深く感じずにはいられなかった。 なす術なく立ちすくんでそのテントを見つめるだけの私達…。家族の「絆」を前にして、誰が「入院が最高の選択。」と云えるだろうか。 担当医師に本人と家族の意向を伝えると、その医師も何も云わなかった。いや、何も云えなかったのだ、きっと…。 [caption id="attachment_2312" align="aligncenter" width="650"] 厳しい寒さの中、その方はテントでの生活を選ばれた。人生最後の選択だったかもしれない。[/caption]   センター長の石川でした。
ブログ投稿画像 センター長の石川です。 いつもラグビーの話で申し訳ないです。 かつて増保輝則と言う天才的ラガーマンがいました。 天性の感覚を持ち、早稲田大学でもトッププレーヤーでした。 しかし、その天性故か、練習はしんどいからしない、タックルなんかやらないと 努力することを嫌い、身体はぶくぶく太り、相撲の武蔵丸のあだ名もつけられます。 しかし天才的ラガーマンである増保選手は19歳で日本代表にも選ばれました。 [caption id="attachment_2302" align="aligncenter" width="500"] ラグビーファンの私にとっても、果てしなく暗黒に落ちる大敗でした。[/caption] ところが、1995年のラグビーワールドカップで 日本はニュージーランドに145点も取られるという屈辱的大敗を喫します。 タックルに行こうとしない増保は厳しいバッシングを受けることになります。 彼は大事な試合の前にカジノに遊びに行っていたくらいですから。 私も大嫌いな選手でした。 しかし彼に何があったのか? [caption id="attachment_2303" align="aligncenter" width="275"] 丸々太った体がすっかりスリムになっていました。[/caption] 次に増保選手を見た時には、すっかりとスリムになっただけでなく、 チームのために献身的にタックルに行き、え?なんでそこにいるの?と思うほど走り回っている、 「俺がではなく、チームのために」献身的に動き回っている姿だったのです。 その時私は確信しました。 「人は変われるのだ」と。 「生まれ変わるのなら、生きているうちに」 そうなのです。 死んでから生まれ変わろうとしても、次はゴキブリやダンゴムシになるかもしれません。 生まれ変わるのなら、生きているうちに。なのです。 しかし実際に、変わって欲しいなとこちら側が思っても 相手にその気がなければ変わらないのです。 気づいてない人もいますし、いくら言っても気づかない人もいます。 同時に変わりたいと思っても、なかなか変われないのも事実です。 では、どうすればいいのか? それは to be continued ということで。