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「2025年01月」で記事を検索しました。

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2025.01.27

トピックス
日々新たなり 何かとあれやこれやとやっている日々を送ると ついつい忘れがちになってしまうブログアップです。 ちょっと載せない間にも色々な出来事がありました。 それらは日々新たなる、前へ進むための一歩と言えますね。 107回目になる英田地区認知症ケアネットワーク委員会も開催されました。 2月1日のシンポジウムに向けての打ち合わせが中心となりました。 先生方も熱が入ってきましたね。 そのシンポジウムですが、凄い人数の申し込みがあり、 当初予定していた120名をはるかに超えたため、会場レイアウトを見直しました。 約190名の方が来られる予定です。 満員御礼ですね。 また、家族会も開催されました。 色々な思いを語られ、「お薬」をどう使うのか? などと言うちょっとシビアな話もありました。 出来れば使わないことに越したことはないのですが。 また、最後には宮崎のシンガーソングライター大野勇太氏の「消えない日々」を 聴いてもらいました。 「たとえ言葉が出なくなっても、ぬくもりは感じ取れる…」 認知症の人の介護者の気持ちを唄った歌ですね。 なかなかしっとりとした唄です。 https://www.youtube.com/watch?v=pfHpNolahKI 日々新たなり 毎日様々なことが起きますが、 ネガティブに考えるのではなく、 新たな日々として、前向きに考えていきたいですね。  
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2025.01.17

トピックス
心の中に続く阪神淡路大震災の余震 ~微力だけど決して無力ではない~ 心の中に続く阪神淡路大震災の余震 ~微力だけど決して無力ではない~ 阪神・淡路大震災から、もう30年。 当時の惨状を知っている行政職員、警察官、消防隊員も少なくなったといいます。 現場の状況を生で体験し、語れる人も少しずつ少なくなっていきますね。 それは支援に入った人も同じでしょう。 しかし、あの震災を体験した人、支援をした人たちの心の中の余震はいまだ続いていると言えます。 当時私は、大阪で結成された高齢者支援隊のメンバーとして、神戸に救援活動に入りました。 その時の記録は、私個人のものとして、「瓦礫の街から」と題名を付け、今もデータ化して残しています。 今まではあまりオープンにはしてこなかったのですが、やはり次世代に語り継ぐことも必要と考え、 何らかの機会に文章を整理して掲載していきたいと思っております。 つい先日再放送で安医師の「心の傷を癒すということ」のドラマを見たのですが、 本当に被災者の声を聴く、思いを聴くというのはとても重要なことだと思います。 私自身、避難所を回る中で、数多くのそれぞれの人のドラマを聴きました。 今すぐどうかしたくてもどうにもできないもどかしさもあり、つらさは増加していきました。 高齢者の多い避難所では、認知症の人にどう対応したらわからない、 おむつの交換の仕方がわからない、でもわからないなりに頑張っているボランティアたちもいました。 しかし多くはありとあらゆるお願い事や悩み事が中心でした。 当たり前ですね。過酷な生活状況だったのですから。 テントが張られたある公園。 小さなテントの中に、寝たきり状態の母親と、その息子が暮らしていました。 母親の容態はよくなく、四国から派遣されていた医師からの、入院を促してほしいとの要請を受け、 冷たい雨が降る中、そのテントを訪問したのです。 しかし、家も家財もすべて失い、唯一の絆である息子とは離れたくないので入院はしないとの言葉でした。 息子も同様でした。 暖房もない寒いテントであっても、唯一残された家族の絆は失いたくなかったのです。 私も言葉が見つかりませんでした。 そのことを医師に伝えると、医師も頷くだけでした。 その後この親子がどうなったかはわかりません。 しかし、冷たい雨がテントに情け容赦なく降り続けていた情景は 私の記憶に深く重く残っているのです。 余りにも多くのつらさを見聞きし過ぎたのか、 明かりが消えた神戸から、橋を渡り大阪に戻った時、ごく普通にネオンが輝いているその情景に、 悔しさや哀しさや怒りやら多くの感情が溢れ出て、泣きながら帰ったことを覚えています。 私たちの活動は、大したこともできませんでしたが、 最近能登に入った若いボランティアの言葉、 「微力だったとは思うけど、無力ではなかったと思う。」という言葉に なんとなく救われたような気がしました。 「微力であっても、決して無力ではない。」  何事にもそのようなことがあると言えるでしょう。 いつか再び来ると言われている大地震。 当事者となるのか、支援者となるのか、或いは両方なのか、それはわからないけれど、 私たちにはその時に対しての「構え」を持たなければならないと言えるでしょう。 その一つとして、当時の記録「瓦礫の街から」は、整理して掲載したいと思います。
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2025.01.09

トピックス
太平洋フェリーと介護施設(その2) 前回の続きです。 飛行機なら2~3時間で大阪から北海道に行けるところ 太平洋フェリーだとほぼ2日間かけていくことになります。 (敦賀、舞鶴からの、小樽、苫小牧行き新日本海フェリーはもう少し早いですが、 それでも飛行機との差は圧倒的です) なのに、大阪からでも太平洋フェリーに乗る人がそれなりにいるのです。 それは、2泊する船旅に、何らかの価値を見出してのことでしょう。 それではこの「船旅」をベースにケアの世界について考えてみたいと思います。 船旅ならば、必ず目的地に着けば、その限られた空間での生活から解放されますが、 施設入居となるとそうはいきません。 私たちは旅行として船旅を楽しみますが、施設入所はその限られた空間の中で、 長い間過ごさなければならない、生活しなければならない、ある意味人生ラストの場ともなるわけです。 さらにそのために、人の助けを借りなければならないという状況にあるということなのです。 船旅をする場合、そこになんらかの価値を見いだしているように、 例え旅でなくても、施設入所にも価値を見出せるものでなければならないのです。 (ある意味、自宅に帰ることのない永遠の旅立ちの前段階とも言えます)   私たちは、電車に乗るにしても、車を運転するにしても、何かを買うにしても、 どこかに泊まるにしても、そして太平洋フェリーを利用するについても、 何らかの価値を見出して利用したり活用したりします。 同様に入所施設の選択も、その施設に対しての何らかの価値を求めての入所となるでしょう。 しかしそこにはもしかしたら、介護者の「やむおえぬ価値」というものがあるかもしれませんし、 入居者からすれば、「妥協の末の価値」かもしれません。 もしその施設に価値を見出すことができなければ、無価値な施設として判断され、 別の施設を探すということになるかもしれませんが、それは容易なことではありません。 そのため「妥協の末の価値」として存在することになるのです。 つまり「介護施設」は、家族からも利用者からも真に価値あるものとして存在しなければ、 介護現場そのものの存在価値は低いままになってしまうのです。 「やむ終えぬ、妥協の末の価値」は、ほぼ無価値に近いものだからです。 (つづく)  
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2025.01.08

トピックス
太平洋フェリーと介護施設(その1) 太平洋フェリーと介護施設ってどう関係があるのか? と、思われますよね。 そうなのです。直接的関係はありません。 しかし、介護施設の存在価値を考えるにおいて、ここではあえて太平洋フェリーさんをクローズアップしました。 そもそも太平洋フェリーとはどんなフェリーなのか? そこからですね。 太平洋フェリーは、大阪側から見ると、名古屋港を出港し、途中仙台港に立ち寄り、苫小牧港まで行くフェリーです。 つまり北海道に向かう船ですね。その航行時間はなんと40時間! 船中2泊の旅となります。 フェリーですから、車ごとという人も当然いるのですが、 いわゆる乗船だけで苫小牧へ向かう乗客が結構多いのです。   さて大阪から北海道に行くならば、普通は、飛行機を考えます。 飛行機ならば1時間半、待ち時間等を含めても、3時間もあれば北の大地を踏めるのです。 片や大阪から太平洋フェリーを使って北海道へ行こうとしたら、 まずは名古屋港まで行かなければなりません。そこから翌々日の午前11時頃に苫小牧着となります。 ほぼ丸2日かけて北の大地に行くことになります。 飛行機ならば3時間、太平洋フェリー利用ならばほぼ2日間 車で行かないのなら、どう考えても圧倒的に飛行機の方が有利です。 おまけにフェリーの場合、携帯の電波がほぼ入りません。つまりスマホは使えません。 さらに海が荒れたら、船酔いにも悩まされることになります。 また日程的に見ても、余裕がないと船には乗れないし、北海道でのスケジュールも狭められてしまいます。 当然、飛行機で行ったならば、北の大地を余分に観光できるっていう訳です。 それだけ不便極まりない太平洋フェリー 実は人気があるのです。 ある意味その不便さの中に、乗客は太平洋フェリーに乗りたいという なんらかの「価値」を見出していると言えます。 また、フェリー会社も乗客を惹きつける何かを発信しているとも言えます。 これは商船三井のフェリー船 さんふらわあ です   さて、ここで介護施設との関係性が出てきます。 それは、利用者にとって利用する介護施設は、果たして「価値」のある存在なのかと言うことなのです。 そこで、介護施設の「価値」について、(その2)に書きます。  
ブログ投稿画像 何かとあれやこれやとやっている日々を送ると ついつい忘れがちになってしまうブログアップです。 ちょっと載せない間にも色々な出来事がありました。 それらは日々新たなる、前へ進むための一歩と言えますね。 107回目になる英田地区認知症ケアネットワーク委員会も開催されました。 2月1日のシンポジウムに向けての打ち合わせが中心となりました。 先生方も熱が入ってきましたね。 そのシンポジウムですが、凄い人数の申し込みがあり、 当初予定していた120名をはるかに超えたため、会場レイアウトを見直しました。 約190名の方が来られる予定です。 満員御礼ですね。 また、家族会も開催されました。 色々な思いを語られ、「お薬」をどう使うのか? などと言うちょっとシビアな話もありました。 出来れば使わないことに越したことはないのですが。 また、最後には宮崎のシンガーソングライター大野勇太氏の「消えない日々」を 聴いてもらいました。 「たとえ言葉が出なくなっても、ぬくもりは感じ取れる…」 認知症の人の介護者の気持ちを唄った歌ですね。 なかなかしっとりとした唄です。 https://www.youtube.com/watch?v=pfHpNolahKI 日々新たなり 毎日様々なことが起きますが、 ネガティブに考えるのではなく、 新たな日々として、前向きに考えていきたいですね。  
ブログ投稿画像 心の中に続く阪神淡路大震災の余震 ~微力だけど決して無力ではない~ 阪神・淡路大震災から、もう30年。 当時の惨状を知っている行政職員、警察官、消防隊員も少なくなったといいます。 現場の状況を生で体験し、語れる人も少しずつ少なくなっていきますね。 それは支援に入った人も同じでしょう。 しかし、あの震災を体験した人、支援をした人たちの心の中の余震はいまだ続いていると言えます。 当時私は、大阪で結成された高齢者支援隊のメンバーとして、神戸に救援活動に入りました。 その時の記録は、私個人のものとして、「瓦礫の街から」と題名を付け、今もデータ化して残しています。 今まではあまりオープンにはしてこなかったのですが、やはり次世代に語り継ぐことも必要と考え、 何らかの機会に文章を整理して掲載していきたいと思っております。 つい先日再放送で安医師の「心の傷を癒すということ」のドラマを見たのですが、 本当に被災者の声を聴く、思いを聴くというのはとても重要なことだと思います。 私自身、避難所を回る中で、数多くのそれぞれの人のドラマを聴きました。 今すぐどうかしたくてもどうにもできないもどかしさもあり、つらさは増加していきました。 高齢者の多い避難所では、認知症の人にどう対応したらわからない、 おむつの交換の仕方がわからない、でもわからないなりに頑張っているボランティアたちもいました。 しかし多くはありとあらゆるお願い事や悩み事が中心でした。 当たり前ですね。過酷な生活状況だったのですから。 テントが張られたある公園。 小さなテントの中に、寝たきり状態の母親と、その息子が暮らしていました。 母親の容態はよくなく、四国から派遣されていた医師からの、入院を促してほしいとの要請を受け、 冷たい雨が降る中、そのテントを訪問したのです。 しかし、家も家財もすべて失い、唯一の絆である息子とは離れたくないので入院はしないとの言葉でした。 息子も同様でした。 暖房もない寒いテントであっても、唯一残された家族の絆は失いたくなかったのです。 私も言葉が見つかりませんでした。 そのことを医師に伝えると、医師も頷くだけでした。 その後この親子がどうなったかはわかりません。 しかし、冷たい雨がテントに情け容赦なく降り続けていた情景は 私の記憶に深く重く残っているのです。 余りにも多くのつらさを見聞きし過ぎたのか、 明かりが消えた神戸から、橋を渡り大阪に戻った時、ごく普通にネオンが輝いているその情景に、 悔しさや哀しさや怒りやら多くの感情が溢れ出て、泣きながら帰ったことを覚えています。 私たちの活動は、大したこともできませんでしたが、 最近能登に入った若いボランティアの言葉、 「微力だったとは思うけど、無力ではなかったと思う。」という言葉に なんとなく救われたような気がしました。 「微力であっても、決して無力ではない。」  何事にもそのようなことがあると言えるでしょう。 いつか再び来ると言われている大地震。 当事者となるのか、支援者となるのか、或いは両方なのか、それはわからないけれど、 私たちにはその時に対しての「構え」を持たなければならないと言えるでしょう。 その一つとして、当時の記録「瓦礫の街から」は、整理して掲載したいと思います。
ブログ投稿画像 前回の続きです。 飛行機なら2~3時間で大阪から北海道に行けるところ 太平洋フェリーだとほぼ2日間かけていくことになります。 (敦賀、舞鶴からの、小樽、苫小牧行き新日本海フェリーはもう少し早いですが、 それでも飛行機との差は圧倒的です) なのに、大阪からでも太平洋フェリーに乗る人がそれなりにいるのです。 それは、2泊する船旅に、何らかの価値を見出してのことでしょう。 それではこの「船旅」をベースにケアの世界について考えてみたいと思います。 船旅ならば、必ず目的地に着けば、その限られた空間での生活から解放されますが、 施設入居となるとそうはいきません。 私たちは旅行として船旅を楽しみますが、施設入所はその限られた空間の中で、 長い間過ごさなければならない、生活しなければならない、ある意味人生ラストの場ともなるわけです。 さらにそのために、人の助けを借りなければならないという状況にあるということなのです。 船旅をする場合、そこになんらかの価値を見いだしているように、 例え旅でなくても、施設入所にも価値を見出せるものでなければならないのです。 (ある意味、自宅に帰ることのない永遠の旅立ちの前段階とも言えます)   私たちは、電車に乗るにしても、車を運転するにしても、何かを買うにしても、 どこかに泊まるにしても、そして太平洋フェリーを利用するについても、 何らかの価値を見出して利用したり活用したりします。 同様に入所施設の選択も、その施設に対しての何らかの価値を求めての入所となるでしょう。 しかしそこにはもしかしたら、介護者の「やむおえぬ価値」というものがあるかもしれませんし、 入居者からすれば、「妥協の末の価値」かもしれません。 もしその施設に価値を見出すことができなければ、無価値な施設として判断され、 別の施設を探すということになるかもしれませんが、それは容易なことではありません。 そのため「妥協の末の価値」として存在することになるのです。 つまり「介護施設」は、家族からも利用者からも真に価値あるものとして存在しなければ、 介護現場そのものの存在価値は低いままになってしまうのです。 「やむ終えぬ、妥協の末の価値」は、ほぼ無価値に近いものだからです。 (つづく)  
ブログ投稿画像 太平洋フェリーと介護施設ってどう関係があるのか? と、思われますよね。 そうなのです。直接的関係はありません。 しかし、介護施設の存在価値を考えるにおいて、ここではあえて太平洋フェリーさんをクローズアップしました。 そもそも太平洋フェリーとはどんなフェリーなのか? そこからですね。 太平洋フェリーは、大阪側から見ると、名古屋港を出港し、途中仙台港に立ち寄り、苫小牧港まで行くフェリーです。 つまり北海道に向かう船ですね。その航行時間はなんと40時間! 船中2泊の旅となります。 フェリーですから、車ごとという人も当然いるのですが、 いわゆる乗船だけで苫小牧へ向かう乗客が結構多いのです。   さて大阪から北海道に行くならば、普通は、飛行機を考えます。 飛行機ならば1時間半、待ち時間等を含めても、3時間もあれば北の大地を踏めるのです。 片や大阪から太平洋フェリーを使って北海道へ行こうとしたら、 まずは名古屋港まで行かなければなりません。そこから翌々日の午前11時頃に苫小牧着となります。 ほぼ丸2日かけて北の大地に行くことになります。 飛行機ならば3時間、太平洋フェリー利用ならばほぼ2日間 車で行かないのなら、どう考えても圧倒的に飛行機の方が有利です。 おまけにフェリーの場合、携帯の電波がほぼ入りません。つまりスマホは使えません。 さらに海が荒れたら、船酔いにも悩まされることになります。 また日程的に見ても、余裕がないと船には乗れないし、北海道でのスケジュールも狭められてしまいます。 当然、飛行機で行ったならば、北の大地を余分に観光できるっていう訳です。 それだけ不便極まりない太平洋フェリー 実は人気があるのです。 ある意味その不便さの中に、乗客は太平洋フェリーに乗りたいという なんらかの「価値」を見出していると言えます。 また、フェリー会社も乗客を惹きつける何かを発信しているとも言えます。 [caption id="attachment_6000" align="alignnone" width="1024"] これは商船三井のフェリー船 さんふらわあ です[/caption]   さて、ここで介護施設との関係性が出てきます。 それは、利用者にとって利用する介護施設は、果たして「価値」のある存在なのかと言うことなのです。 そこで、介護施設の「価値」について、(その2)に書きます。