2020.03.27 | トピックス, ほんわか写真館, 心の荷物預かり所, 認知症の教室(一般市民用)
星に願いを 認知症の人には笑顔を
2020.03.31
認知症の人とのケア物語① ~40年前~
認知症の教室(一般市民用)
認知症の教室(専門職用)
センター長の石川です
これまでの認知症ケアについて、書き綴っていたことがなかったと思い、ぼちぼちではありますが、このブログで書き綴っていこうかなと思います。
私と認知症の人との出会いはかれこれ40年以上も前になるかなと思います。
当時私はM市の特別養護老人ホームに勤務していました。
まだ右も左もわからない時代でしたが、生活相談員(当時は生活指導員と呼んでました)兼介護員(当時は介護福祉士の資格などなく、介護職員のことを寮母と呼んでました。)として、入所の受け入れも行っていました。もちろん当時は介護保険など存在せず、入所は行政による措置入所(「収容依頼書」が送られてくる)という時代です。
そんな時にM市にある保健所のN保健師が、ある人を入所させてほしいと強引に言ってきたのでした。
因みに、この時代は、老人保健施設もグループホームもありません。
サービスとしては、デイサービスもショートステイもようやく始まろうかという時代です。
つまり特別養護老人ホームという入所だけの施設があった時代なのです。
その時代にあって、私がいた施設はI理事長という全国的にも有名な人がおられる施設でした。
先見性のある人で、私が勤めた時にはデイサービス開設準備室があり、今では当たり前のようにあるデイサービスを、確か日本で2番目に始めた施設でもあるのです。
またショートステイ、ナイトケアなどのサービスも始めた、まさしく現在の高齢者サービスの礎を築いたのがI理事長だと言えます。
そのI理事長にN保健師が直談判してきたのです。
認知症(当時は痴呆性老人と呼んでいました)の人を入所させてほしい!と。
寝たきりになった認知症の人はおられるものの、アクティブな認知症の人を受け入れる特別養護老人ホームは、まだほとんどない時代のことです。
では当時の認知症の人はどこへ行っていたのか?
多くは精神科の病院に入れられ、薬を飲まされ、身体拘束を受け、そして死んでいくか、或いは、家族が丸抱えで家から出さないで介護をしていた時代だったのです。
「あんな薬を飲まされて、縛られてしまうような病院には入れたくない!何とか人間らしく暮らせるようお願いしたい!I理事長の施設ならできるでしょ!」とN保健師は、半ば強引に二人の認知症の人を立て続けに連れてきたのです。
先進的な考えを持つI理事長が断るわけはありません。
当時は「認知症」(痴呆症)の人への知識もケアの方法も全く分からない、いや知らない状態の私たちケアの現場に、突然アクティブな認知症の人がやってきたのです。
(つづく)