2019.08.15 | トピックス, 認知症の教室(専門職用)
輪の中にいると見えなくなる・吉田松陰
2019.08.19
語り継がなければならない記憶
トピックス
センター長の石川です。
淀川区の地域包括支援センターに勤務していた時、夏になると必ず行く場所がありました。
進学校として有名な「北野高校」の壁面に、太平洋戦争末期、米軍グラマン戦闘機による機銃掃射痕が今も残されているのです。
ここは当時のまま保存されている数少ない戦争の遺構なのです。
包括支援センターにいる頃、実に多くの人の戦争体験を聞きました。包括としての訪問のため、戦争体験を聞きに行くのが目的ではないのですが、何故か数多くの戦争体験を聴くことになったのです。
それらの話は語り継いでいかなければならない記憶として、このブログでもたまに載せていきたいと思います。
今回は兵隊ではなく、一般市民のお話しです。
戦争末期、学校でも病院でも民間人でも学生でも、そして女性、子供まで動くものは全て戦闘機の機銃掃射の的になっていました。
アメリカ軍は戦闘機にカメラを設置し、誰がどれだけ仕事をしてきたか確認をしていたのです。
そのためパイロットはどんなものであれ、情け容赦なく機銃掃射を繰り返したのです。
もちろんアメリカ軍の戦闘機を迎撃できるような戦闘能力は日本にはなく、戦闘機は縦横無尽に日本上空を飛び回り、動くものや、兵隊が隠れていそうな建物を機銃掃射したのです。
特に学校は兵隊の隠れ蓑になっていると疑われ、よく狙われたそうです。
北野高校の機銃痕もそのひとつなのです。
生の戦争体験記を聴けるのはあと僅かしかないなか、これまでも多くの人たちの話を聴いてきました。
その中には戦艦大和の修理をした人や潜水艦乗りやラバウル航空隊にいた人の話も。
しかし一番痛ましいのは、一般市民だった人たちの語りでした。
ある方の小学生だったころの体験話です。
大阪の空襲の話でした。空襲は単に爆弾を落とすだけではないのです。
最初雨が降ってきたのかと思ったらそれはガソリンだったのです。
そしてそのあとにやってきた爆撃機が焼夷弾を落とします。
焼夷弾の威力を増加させるために米軍は最初にガソリンを空中から撒いたのでした。
小さな妹を背負って逃げ回った当人。
焼夷弾は家と人をことごとく焼き払うのが目的。
老人であろうと、女性であろうと、子供であろうと、幼児であろうと、乳児であろうと関係ないのです。
もちろん上空のパイロットたちからその地獄は見えません。戦争とはいえ、アメリカ軍も大概市民を殺戮していたのです。
この方は、死体が累々とする多くの悲惨な情景は今も忘れられないといいます。
この辺りでの機銃掃射を受けた体験話はほかの人からも聴きました。
戦前から住んでいた方も多いのですね。
みんな軍人や軍の施設を攻撃するだけでなく、とにかく動くものは子供であろうと標的だったのです。
前述の方は船に乗って四国へ逃げる途中、その船が銃撃を受けました。
後ろにいた男性に突き飛ばされて転倒。
しかしそれはこの少女をかばって自らが犠牲になった男性だったのです。
今私たちはこの貴重な体験談を後世に伝えなければならないという役目を背負っているといえます。
戦争に正義はありません。
将来ある子供たちを悲劇から守らなければならないというのは、私たちの責務だからです。
戦争体験の話、まだまだ続きます。
北野高校に残された機銃痕。夕陽を受けて少し赤みを帯びていました。
決して作り話ではない実際にあった戦争の証言がここに記されています。